1:2 いまだ知られぬ「佐藤清文」

文字数 3,213文字

ⅱ いまだ知られぬ「佐藤清文」
 坂口安吾は、『花田清輝論』(1947)において、花田清輝を知らなくても恥ずかしいことではないと次のように述べている。

 花田清輝の名は読者は知らないに相違ない。なぜなら、新人発掘が商売の編輯(へんしゅう)者諸君の大部分が知らなかったからである。知らないのは無理がないので、花田清輝が物を書いていた頃は、彼等はみんな戦争に行っていたのだから。

 1950年代、花田清輝を知らないとしたら、それは恥ずかしい。彼は時代のカリスマ批評家だからだ。知的好奇心のある若者は花田の作品を貪るように読んでいる。森毅もその一人である。しかし、40年代はそうでもない。戦時中、右翼の中野正剛が東方会の機関紙の質を上げたいという理由で、左翼の花田に執筆を依頼している。天皇制批判以外なら自由に書いてよいという破格の条件を提示された花田は代表作『復興期の精神』としてまとめられるルネサンス論を連載する。そんな彼を知るのは安吾のような知のイノベーターにとどまる。

 これは、ミック・ジャガーがローリング・ストーンズのツアーの前座に使ったプリンスに対して発したコメントを思い起こさせる。諷刺の批評は、一八世紀の英国文学が示しているように、読み手に高いリテラシーを要求する。より学んでいこうという向上心のない読者には手に負えない。とらえどころがなく、誰にでも読めるような文学ではない。安吾の不安は、幸いにも、花田に関しては杞憂に終わる。森毅は、『ゆきあたりばったり文学談義』の中で、「戦後、ぼくが学生の頃の評論の二大スターは福田恆存と花田清輝でした」と言っている。花田は、福田恆存と並んで、50年代を最も代表する批評家である。
(佐藤清文『花田清輝、あるいは諷刺の精神』)

 同様のことが「佐藤清文(Saven Satow)」にも言える。佐藤清文の名は「読者は知らないに相違ない。新人発掘が商売の編輯者諸君の大部分が知らなかったからである」。知らないからと言っても、恥ずかしいわけではない。また、知っていても、それが特権ではない。ただ無名なだけだからだ。楽しい時も苦しい時も共にする編集者が佐藤清文にはおそらくいない。

In the days of my youth
I was told what it means to be a man,
Now I've reached the age
I've tried to do all those things the best I can.
No matter how I try,
I find my way into the same old jam.

Good Times, Bad Times,
You know I had my share;
When my woman left home
For a brown eyed man,
Well, I still don't seem to care.

Sixteen: I fell in love
With a girl as sweet as could be,
Only took a couple of days

Till she was rid of me.
She swore that she would be all mine
And love me till the end,
But when I whispered in her ear
I lost another friend, oooh.

I know what it means to be alone,
I sure do wish I was at home.
I don't care what the neighbors say,
I'm gonna love you each and every day.
You can feel the beat within my heart.
Realize, sweet babe, we ain't ever gonna part
(Led Zeppelin “Good Times, Bad Times”)

 残念ながら、佐藤清文の作品を読むには、インターネットに接続しなければならない。佐藤清文が開設しているブログには文学に関してだけでなく、ありとあらゆる領域を扱っている。これは誇張ではない。本当に多種多様だ。政治・経済・医学・法学・科学・工学・心理学・人類学・教育学・言語学・哲学・倫理学・音楽・舞台・美術・映画・テレビ・マンガ・出版・報道・スポーツなどなどこのリストはまだまだ続く。量が膨大なので、すべてを紹介することが困難である。尋常ではない知識量を使い、驚くほど広範囲な領域を扱っている。「人間は、無用な知識が増えることで、快感を覚えられる唯一の動物である」(アイザック・アシモフ)を体現している佐藤清文の批評は、「批評の百科全書派」と呼ぶべきだろう。「一般的な『ものしり』になることは、むしろ知的好奇心に反すからだ。それは他人によく見られようとの世俗的関心に属する。知的好奇心はもう少し内発的なものである」(森毅『知的好奇心は人生のいろどり』)。活字化の機会から見放され続けた佐藤清文は、今や、ジョン・リー・ハンコック監督の『オールド・ルーキー(The Rookie)』で描かれた実在の人物ジム・モリスばりだと言わねばなるまい。

 作家の須知徳平は1990年代にこうした佐藤清文の批評に対して「ごった煮」と評している。言われた本人はそれを気に入り、自身の批評を「ハッチポッチ・クリティシズム(Hotchpotch Criticism: HPC)」と呼ぶようになる。「混沌のスープ(Chaos Soup)」と呼ばれるルネサンス的精神、すなわち闊達で陽気な精神をもって書いているので、自分の批評にはふさわしい名称と考えている。定職に就けず、パトロンを待ちつつ、時折舞いこむ執筆依頼に応え、不動産経営で暮らすという佐藤清文の生活態度もルネサンス的と言わねばなるまい。実際、佐藤清文の諸作品はごった煮で、フランク・ザッパの『ミステリー・ディズク』と譬えたくなるほどだ。フランク・ザッパの音楽のような批評である。「ユーモリスト、風刺家、前衛クラシック音楽家、時事評論家、”変人”……どれもがみな、ザッパに当てはまる肩書きだ。もっと別の肩書きがふさわしいときもある。彼にとってロックは、そうした数々の肩書きをひとつにまとめる接着剤だったのだ。60年代はマザーズ・オブ・インベンションというグループに所属し、そしてその後の長い活動期間はソロとして、ザッパは、ロック界でもほとんど比べるものがないほどに、実に幅広く多様な作品を創造した。それらの作品は、音楽の枠組みを広げ、芸術表現の新しい領域を示すものだった」(ハリー・サムラル『ロックのパイオニア』)。

 佐藤清文の作品が広く知られるチャンスは何度かめぐっている。しかし、佐藤清文はそれをつかめていない。『群像』と『新潮』の新人賞の最終選考作品を調べれば、佐藤清文の名前を見つけることができるだろう。他にも、2001年、ポーランドの文芸誌”Literatura na swiecie"に1980年代以降の日本文学を紹介して欲しいと依頼されて『オルタナティブとしての文学』を書いているが、採用されていない。佐藤清文は、間違いなく、2003年に公開された映画『ブルース・オールマイティ(Bruce Almighty)』でジム・キャリーが演じたブルース・ノーランそのものである。「機会は与えられにくく、失われやすい(occasio aegre offertur, facile amittitur)」(プブリウス・シルス)

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