4:0 批評の方法論

文字数 3,380文字

Ⅳ Warum sie ein Schicksal sind.
ⅰ 批評の方法論
 以上述べてきた批評の歴史と現状を考慮して、佐藤清文の唱えるハッチポッチ・クリティシズムはさまざまな方法論を自覚的に提示している。” More than any other time in history, mankind faces a crossroads. One path leads to despair and utter hopelessness. The other, to total extinction. Let us pray we have the wisdom to choose correctly”(Woody Allen).別に、佐藤清文は、I・M・ナッツ教授(Prof. I. M. Nuts)と違い、自分の考案した方法ですべて解決するなどと主張しているわけではない。そんな態度をを感じたとしても、自画自賛が好きなせいだろうと聞き流せばよい。それが大人の対応というものだ。

 批評は、個別的作品を扱う際、それを再構成、抽象的・一般的体系に照らし合わせる。この抽象化・一般化の過程があるため、すべての作家が優れた批評を書けるとは限らない。その認識が弱いと、主張は批評ではなく、論証に汎用性が乏しいので、印象に留まる。批評をするためには対象を再構成する必要がある。森毅は、『もう一つの批評』において、批評を「補助線と切り口」だと次のように述べている。「幾何で用いる『補助線』という言い方をするんですが、補助線を一本引くと、景色が変わって図形が見えることがある。うまい補助線が見つかったら、非常に書評しやすいんです。こういう補助線を引くと、この本の読み方の風景がこう見えると。そういう見方をすると、『けっこうこの本、おもしろく読めたよ』という、いわば読み手を拡げるような面があると書評がやりやすいんです。それがちょっとくせになってまして、書評に関係ない本でもこれは書評するべきかするべきでないか、書評するとしたら、どこを切り口にしてするか、なんぞ補助線ないかいなということを考えながら読んでいます。だから書評で回ってきた本でも、読み終わった頃は書評のイメージができているんです」(『もう一つの批評の世界』)。

 バブル経済崩壊以降、欲望のインフレ、すなわちモードは効力を失う。もはやなくてはならないものなどなく、なくてもいいけれど、あってもいい。決定的なものはない。すべては決定不能性に置かれている。もっとも人間は飽きる。インフレにも、デフレにも、決定不能性にも飽きる。「本人の意図をそのまま受け取ったというんじゃなくて、本人の意図を超えて、拡がりを持たせてもらえたというのが嬉しいのです。本来、批評とはそういうものではないでしょうか。作品というものをいかに拡げるかというところに批評はあると思うのです。ある意味で言えば、小林秀雄さんというのはそういうことをした最初の人です。(略)つまりいろいろな本を読んでも、それがよかったか悪かっただけではなく、それに対してプラスアルファで拡がるところがないとだめだと思います。ぼくはどちらかと言えば、褒める書評ですから、けなす批評が出ないと嘆く人もいますが、そういうことを言うのは評価主義の人です」(『もう一つの批評の世界』)。これは作者の死ではない。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」(山本五十六)。

 90年代初頭、佐藤清文は、仮想敵を想定する戦略的な読み、すなわち「定説ではこのように言われているが、実はこうである」を主張するいささか強引な読みをしている。しかし、当時流行したこのアイロニーは東西冷戦の反映にすぎない。世界秩序が強固であるから、それを揺るがすことで抵抗になる。佐藤清文は、今、6代目三遊亭圓生を見習い、蓄積されてきた知見を踏まえる伝統の意義を追及し、林家三平のように、ガルゲンフモールを語る。ハッチポッチ・クリティシズムは、その意味で、「クリティシズム・バイ・ザ・ナンバーズ(Criticism by the Numbers)」である。

好きです 好きです 好きです 好きです よし子さん
キッスさせて
いいじゃないのさ
なぜ逃げるのさ
キッスさせて
(林家三平『ヨシコさん』)

 それは脱構築のように「まだ思惟されていないもの」を読み、その体系を破綻させる試みではない。佐藤清文は「すでに思惟されているもの」を読んでいるにすぎない。モードの産物である新しさ=古さの二項対立は決定不能に陥っている。批評において、最も重要なのは対象のポイントを押さえることである。「要点をつく(tetigisti acu)」(ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス)。基本を大切にしなければならない。「理想の環境を求めず、現在の環境もいくらか居心地が悪く、そこをやりくりしていく生活。そうした感性で環境のことを考えている」(森毅『理想なしの環境派です』)。真にアクロバットな読みなど存在しない。アクロバット飛行はどんなに向こう見ずに思えても、優れたスペイン人のホセ・オルステが体系付けた編隊に則り、訓練通りのことを毎回繰り返している。批評も同様である。

 そこから目覚めさせてくれたのが森毅である。先に引用した森毅の批評論は「作者の死」を踏襲している。しかし、意図を横目で見ながら、作者と対話をするように、森毅は強引な読みをしない。本を読み、批評を書くことは作者や作品との共同作業である。佐藤清文はその基本に立ち戻っていく。

 近年、急速に発達した文学研究の一つがコンピュータによる文体のクラスター解析である。これは計量文献学で、RMeCabを用いて作家間や作品間の文体の個性を定量的に示すことができる。犯罪捜査でも採用されている手法であり、実証性・客観性は非常に高い。もちろん、解析結果は統計的データで、そこから何が言えるのかと分析することが批評である。
 この統計的データは読者が作者を体験する機会を提供する。水村美苗が漱石の文体を模して未完の『明暗』を『続明暗』(1990)によって完結させたが、その労苦をデジタル技術が補ってくれる。傾向を踏まえて、文体を模写、すなわちミメーシスする時、その作家がなぜそれを用いるのかが体感できる。なぜこの語を選ぶのかや文の長さをこうしたのかなど作者が、自覚的であれ暗黙の裡であれ、その機能を認知した上で書いていることが明らかになる。頻繁に用いられる語を類義語に入れ替えるだけでも、理由を推測できよう。それは作者らしい文体がその作品にふさわしい文体であるかを批判的に吟味することにつながる。このふさわしさは作品相互関連性やコンテクストにも依拠している。文体論から文章論への発展とも言える。
 言葉の単位として文章を考える文章論はしばしば還元主義と非難される。けれども、これは作者と読者を協同的読解に導く。文章を理解するためには、単語や文の各々の意味と相互関係を認知・処理していなければならない。その際、トップダウンとボトムアップの二つの処理法がとられる。演繹的と帰納的とも言い換えられよう。こうした処理を念頭に置き、文章論は単語や文、文章をそれぞれ機能として捉え、全体との相互関連性を吟味する。
 狭義の文体論、あるいは文学読解で使われる修辞学は「らしさ」、すなわち作家の個性による文体の考察である。文体は社会性=「ふさわしさ」と個性=「らしさ」の二つの基軸によって様相が規定される。文体における「らしさ」は「ふさわしさ」を必須とする。「ふさわしさ」の基準は用語や表記、文・文章の組み立てなど数多くの要素に及ぶ。それを母語話者は「ふさわしく」使い分けている。
 この「ふさわしさ」は二つの基準を提供する。一つは内部の許容範囲である。書き手は任された裁量権を行使する時に、各種の取捨選択を通じて個性を表出する。もう一つは逸脱する際の枠組みである。イノベーターはそれをアイロニカルに利用する。
(『作者の死?』)

 先にたどった批評の歴史を踏まえつつ、ITの発達や学問研究の進展などの環境変化に伴い、佐藤清文は方法をつねに考案している。以下では、その中から10を紹介しよう。
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