4:2 シーツ・オブ・ナレッジ

文字数 1,986文字

(2)シーツ・オブ・ナレッジ
 評論家アイラ・ギドラーは、『ダウンビート』誌に掲載された批評の中で、ジョン・コルトレーンの『ブルー・トレイン』(1957)などの作品の方法について「シーツ・オブ・サウンド(Sheets of Sound)」と評している。「シーツ・オブ・サウンド」は「敷き詰められた音」、すなわち「音の洪水」を意味する。コルトレーンは、コードの細分化を通じて、コードの束縛から逃れようとするモード・イディオムを追求した結果、この奏法を生み出している。それは『ジャイアント・ステップス』(1960)で完成している。佐藤清文も、これになぞらえて、自身の方法の一つを「シーツ・オブ・ナレッジ(Sheets of Knowledge)」と名づけている。知識の洪水によって作品を押し流す。

 ヘロデが「子供狩」を命令したのではなく、ローマ占領軍が独自に行ったのであり、しかも、それは「水晶の夜」ではない。ローマ的価値観に基づいて、ユダヤ人を統率する指導者となる見込みのある子供を選び出し、本国に送って英才教育をするのが目的である。ヘロデは問答無用の独裁者ではなく、ローマを後ろ盾に権力を行使していたのであって、進駐軍の意向を無視して独走することはできない。むしろ、この「子供狩」はローマがポスト・ヘロデを見越した上でのミッションである。
 それはオーストラリア政府が実施した「盗まれた子供(Stolen children)」政策の前例とも言える、オーストラリアでは、1910年頃から70年にかけて、アボリジニを白人社会に同化させるために、各地でキリスト教の伝道所が建設され、アボリジニの子供たちを強制的に寄宿舎に入れて、同化教育を行っている。この対象者は「盗まれた子供たち」と呼ばれている。
 実際、ヘロデが亡くなったのが紀元前4年、イエスの誕生は紀元4年とされているのだから、その命令を死者が下せるはずがそもそもない。ヘロデは、確かに政治的な父殺しのために血族や司法関係者の多くを暗殺したが、聖書に描かれたような嬰児狩りを行っていない。彼はローマ政界の変化を利用し、ハスモン家に代わり、ユダヤの王を称して、46四六年間もこのカナンを統治している。彼はユダヤ人による史料では激しく糾弾されているが、開発独裁のスハルトやフェルディナンド・マルコスのように捉えるべきだろう。宗主国ローマとユダヤの民衆要求のバランスを巧みにとろうとし続け、繁栄をもたらしている。独裁者は権力闘争をしぶとく生き残ってきた経験があるため、概して、外交に長けているものである。グレコ・ローマン風の建物を建設させる一方で、エルサレムの神殿をソロモン王以来の大改築をさせている。ヘロデは、ローマの協力者(Collaborator)として、いわゆる協力者のジレンマに陥らないように苦心していたが、先の権威主義的指導者たちがそうであったように、民衆からの支持は最後まで得ることはできなかったものの、政治手腕は決して低くはない。
 けれども、ヘロデ式手法がいつまでも続けられるものではない。アメリカが横暴で民衆から不人気だったゴ・ディン・ディエムを見限った後、南ベトナムでは、クーデターが13回、内閣交代が9回と頻発している。ローマとしても、ヘロデの死後、こうした政治的混乱を避けなければならない。
 「子供狩」はローマの占領政策の方針転換を意味している。それは、軍事力を中心とした押さえ込みから、教育を通じたイデオロギーの内的浸透による自発的な従属への認識変更である。ユダヤ属州の支配の長期化を睨んだ場合、ローマにとっては、ハード・パワーよりソフト・パワー重視の方が得策だろう。
(佐藤清文『政治的人間の記録─武田泰淳の「わが子キリスト」』)

 シーツ・オブ・ナレッジは物量戦である。佐藤清文は知識を次から次へと投入する。質より量だとばかりに、すさまじい勢いで知識が作品から流れ出す。それは物量で読者を圧倒するためではない。知識は関連情報などと系統立っており、関連してネットワークを持っている。孤立した知識などなく、それらはダイナミックで、インターアクションしている。断片的な理解は不十分である。そのネットワークはニューロン・ネットワークではなく、消化器官などで見られるホルモン・ネットワークである。ニューロンは電気信号であるが、ホルモンは分泌物質である。脳を比喩として思想を提起する傾向があるけれども、脳は外界と直接接触しない。「脳は腸からはじまった」(藤田恒夫『腸は考える』)のであって、むしろ、腸を比喩として考えるべきだろう。外界と接触しているのは、皮膚・消化器官・呼吸器官である。そこでは微生物と人間が共生している。だから、シーツ・オブ・ナレッジは知識が動的・相互作用的であることを顕在化させる共生の方法である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み