4:9 オシント・サーベイ

文字数 1,870文字

(9) オシント・サーベイ
 「オシント・サーベイ(OSINT Survey)」はインターネット上で公開されているサービスやデータを利用して体感的に分析する方法論である。これは2020年春先からのパンデミックによる行動制限に対処するために生まれている。

 『「おくのほそ道」 on ストリートビュー』(2020)では、ストリートビューを用いて『おくのほそ道』のほとんどの行程を辿っている。『おくのほそ道』を全文引用し、損も注釈のみならず、芭蕉や俳句、文思想、学論、死因、今日の様子などさまざまな議論を展開している。また、『「武蔵野」オンライン』(2020)はGoogleEarthを始め古地図や過去の気象データ、3D地図作成ツールなどを利用して、国木田独歩)の『武蔵野』に関連する場所をめぐり、この作品について論じている。

 この方法論を具体的に理解するために、『「おくのほそ道」 on ストリートビュー』から次の「壺の碑」を引用しよう。

 ここまでの旅で確かめてきた歌枕をめぐる不易流行の思想を芭蕉はこの章において要約する。重要なパートである。

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年〃十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。

 壷碑市川村多賀城に有

つぼの石ぶみは高サ六尺餘横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣獲修造而十二月朔日と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、山崩川落て、跡あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也。

 「壺の碑」は、坂上田村麻呂が大きな石の表面に矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕である。これはどこにあるかわからないとされてきたが、江戸時代初期、多賀城跡付近のある市川村で石碑が発見される。これは「多賀城碑」と呼ばれ、「南部壺碑」の間で、どちらが本物かという論争の種になっている。
 ストリートビューで「多賀城碑」の画像を呼び出してみる。芝生が広がり、それを囲むように木立、その向こうに高層ビルがあり、新宿御苑を思い起こさせる風景が見える。石碑を探そうと、UIをあれこれ指で動かしてみる。覆屋かと思って、拡大すると、それは休憩所やトイレだったりする。そんな時、偶然、指が触れて拡大になったら、覆屋が現われる。確かに、これだ。灰色がかった木造建築で、敷地面積は3畳くらいに見える。壁は木の格子のため、中に石碑があると確認できる。ただし、あることはわかっても、文字は言うに及ばず、形状も定かではない。芭蕉の見たものが今でもこうして存在している。
 とにかく芭蕉はこれを壺の碑の本物と信じ、1,000年の時を経ても残り続けるものがあると感激、熱心に碑文を書き写している。当時の筆記用具は筆に墨、硯、紙である。スマホ一つですむ現代と違い、旅の際に結構な荷物になったことだろう。重要なのはこの碑が本物か否かではない。芭蕉が易流行の思想をここから確かめたということだ。
 歌枕を探す旅はこれまで失望の連続である。どれもこれも時の流れによって見る影もなくなっている。それは流行というものを芭蕉に思い知らせるには十分である。しかし、この地に至ってようやく1,000年の時を超えてその姿を保っている歌枕を目にする。劉港の中にも確かに笛木があると芭蕉は確信する。すべてが無常などではない。不易流行は間違いなくある。「むかしよりよみ置る哥枕、おほく語傳ふといへども、山崩川落て、跡あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也」。
 太平洋側の旅は主に「流行」を確認する過程である。歌枕にしても常なるものなどない。従来の文芸が共通基盤としてきたが、歌枕は実在ではなく、名目的なものでしかない。しかし、流行の現実を受けとめることが文芸には必要だ。そうした流行の中でも継承されてきた不易のものがある。この章に及んで、それを芭蕉は確証する。「不易流行」思想のうち、「流行」が太平洋側だとすれば、日本海側の旅において「不易」が本格的に展開される。
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