3:3 現代批評

文字数 6,850文字

ⅲ 現代批評
 20世紀以降、文芸批評は、言語学や文化人類学、精神分析、政治思想や新しい哲学の思潮といった隣接諸学の分野の成果を取り入れて、多種多様な新しい方法論を用いるようになり、より精緻化していく。こうした理論指向の批評は「作者の死」へとつながっていく。

 20世紀を迎える頃に出現したモダニズム文学が追及するのは自己表現ではない。表現自体である。それは方法の文学だ。モダニズム文学は近代文学の急進的あるいは批判的な前衛主義である。近代文学の理念を過激に推し進めようとしたり、それが抑圧・隠蔽してきた世界を露わにしたり、前提にしてきた社会が変動し現実にそぐわないと異議申し立てたりする。しかし、それはしばしば写実主義や自然主義と比べて、ヴァージニア・ウルフやジェイムズ・ジョイス、シュルレアリズムが端的に示しているように、難解である。そのため、それが現代社会においていかなる意味を持つのかを解説する批評が不可欠である。現代の文学理論の走りとも言うべきロシア・フォルマリズムが言語学の影響を受け、モダニズムの1910年代に登場したことは決して偶然ではない。のみならず、作家は精神分析や存在論を始めとする批評の提案に基づく実験的な作品も創作していく。現代文学は創作と鑑賞において批評が共通基盤を提供する。

 現代は近代の批判的発展である。それは、ホブズボームの言う通り、第一次世界大戦の終わりから始まる。制限選挙に代わり普通選挙が実施され、平和のための国際協調が模索、グローバルな同期の実現した大衆文化が花開いた時代である。しかし、この時期を「短い20世紀」と呼ぶことには躊躇せざるを得ない。戦間期が復活しているような2010年代を経験する中で、20世紀が終わったと断言することは難しい。

 近代の原理・理念に対する現代の註釈は非常に多岐に亘っているが、三つの流れに大別できるだろう。一つは近代の理念をより推し進めようとする本流である。公私の区別を私の側から再検討を促すフェミニズムが代表例だ。次に近代の理念を現実によって批判する傍流である。公私の区別を公の側から再考を迫る宗教や近代体制に挑戦するマルクス主義がこれに含まれる。最後に近代が抑圧・排除してきたものからのコンセンサスに対する異議申し立ての地下水流である。人間中心主義を批判するエコロジーや文化相対主義をはらむポスト植民地主義などが挙げられよう。もちろん、これらの三つの潮流も支流が交流するなど相互に関連している。

 近代文学は公私分離を始め近代の原理原則と結びついている。同様に、現代文学はこうした現代の思想潮流と呼応している。現代文学の登場人物や語りは抽象的・一般的な近代人ではない。それは具体的・個別的な現代人である。彼らは多種多様な歴史的・社会的背景や個人的事情・特性を持っている。主観性指向の近代文学と違い、複雑化・専門化・細分化した思想状況も反映して現代文学に標準的なモデルを見出すことが困難である。

 広義の文芸批評の歴史は文学の歴史と同様の長さを持っている。20世紀ほど批評が前衛として注目された時代は、歴史上、ないだろう。19世紀の神の死に伴い、身分制が崩壊した結果、身分に立脚した思想は無根拠な運動に解体される。”Funny how gentle people get with you once you're dead”(Billy Wilder “Sunset Boulevard”).目指すべきコンセプトが先行するため、運動の公式や方程式の必要が迫られ、それを説く批評家がかつてないほど影響力を持つようになる。批評家は新たな運動展開を形成するだけでなく、その萌芽とさえなりうる。批評家は運動の前衛というわけだ。しかし、運動は神の死の下での思想であって、「ゴドーを待ちながら(Waiting for Godot)」(サミュエル・ベケット)という神の死の決定不能の時代においては、現象が思想となる。神の死の決定不能は前衛と後方の区別を消滅させ、漠然とした非線形的な集団的匿名をもたらす。批評家は、熱帯雨林だろうと、都市だろうと戦闘できるゲリラとならなければならない。「闘士は、具体的実践を通じて、以前のものとは似ても似つかぬ新たな政治を発見する」(フランツ・ファノン『地に呪われたる者』)。

 ロシアでは、文学の思想と内容を重視する19世紀以来の伝統的なリアリズムに対して、文芸学者のヴィクトル・シクロフスキーやユーリー・トゥイニャーノフ、言語学者のローマン・ヤコブソンが反旗を翻し、文学作品の形式面の構造を科学的に分析することを試みる。この流派は後に「ロシア・フォルマリズム」と呼ばれ、第二次世界大戦後、欧米で再発見され、世界的に大きなセンセーションとなる。

 フォルマリズムとは一線を画しながら、「対話的想像力」や「カーニバル」といった観点から独創的な文学論を構築したのが、マルクス主義者のミハイル・バフチンである。彼の改訂版『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)や『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(1965)は、「バフチン・ショック」と言っていいほど、世界の知識人の間で話題になっている。

 20世紀の文学は主観性指向に対する継承・批判である。知は歴史的蓄積である伝統の流れをラディカルに推し進める。情は伝統を自らの方法論によって再構成する。意は伝統からの排除・逸脱を包摂する。しかし、この三つの傾向は独立しているわけではなく、しばしば融合している。ジョイスの『ユリシーズ』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』はいずれの特徴も体現している。この二作が文学を変えたと言われる所以はそこにもある。

 この現代文学は近代文学の「社会の中の文学」を引き継ぐ。社会は複雑化・グローバル化・多次元化して劇的に変動している。特に、冷戦終結以降、その変化は急速かつ大規模である。文学はそれに呼応し、多種多様な主題や登場人物、内容、形式が出現している。
 批評もこうした多様性に目を向ける。その際、主観性から客観性への傾向が強まる。それは内省に代わって、理論を指向するということだ。

 現代批評は作者の意図を読み解くことを重視しない。詩人が自身の主観性に基づいて象徴を提示するなら、新批評が主張するように、それを読者も自由に解釈できる。しかし、恣意的に読んでは理解が他者と共有できない。そこで批評家は広く共有された理論に基づいて読解を行う。ただ、物語論やジャンル論のように、その理論は作品群の考察を通じて導き出されていることもある。

 この批評が依拠する理論は文学にのみ適用されるものではない。それは広範囲の領域に及ぶ。支持者や反対者が議論を重ね、その理論の体系が構築され、現代的諸課題を分析したり、対処したりする際に利活用される。だからこそ、その理論は批評の解釈の妥当性を保障する。

 解釈は、本来、抽象的・一般的規範を具体的・個別的事例に適用する作業である。このアプローチの場合、理論が規範に当たり、作品を読み解く際にそれを援用する。そのため、これを解釈的アプローチと呼ぶことができる。エッセイの批評の場合、もっぱら内省に依拠するので、その主張は解釈と言うより、意見の方が適切である。

 ロシア・フォルマリズムのように、科学的な方法論をシステマティックに構築しようとしたわけではないが、ほぼ同じ傾向を目指した新しい文芸批評の波は、1930年代のアメリカでも沸き起こっている。それは「ニュー・クリティシズム」と呼ばれている。ジョン・クロー・ランサム、アレン・テート、クリアンス・ブルックス、W・K・ウィムザット、ケネス・バーク、R・P・ブラックマーなど南部のアメリカの批評家が含まれるが、これに先行するイギリス側の批評家としてはT・S・エリオットやI・A・リチャーズ、ウィリアム・エンプソンなどがいる。

 新批評は、作家の伝記や歴史的背景、意図を分析の際に排除し、文学作品のテクスト自体を対象とする。テクストの構造やレトリック、イメージなどを分析することによって、北部で主流だった旧来の印象批評の限界を超えようとする企てである。

 その一方、文学作品の社会的・歴史的な文脈を重視するイデオロギー的な批評も大きな影響力を持ち続けている。その中でも最大のものはマルクス主義批評である。ハンガリーのジョルジ・ルカーチ、ドイツのヴァルター・ベンヤミンやテオドール・W・アドルノ、エルンスト・ブロッホ、イタリアのアントニオ・グラムシ、フランスのリュシアン・ゴールドマンやルイ・アルチュセール、イギリスのレイモンド・ウィリアムズやテリー・イーグルトン、アメリカのフレデリック・ジェームソンなどは、いずれもマルクス主義あるいはそれに近い立場の批評家である。

 ジークムント・フロイトによって開拓された精神分析は、文芸批評の有力な方法として、さまざまな批評家に応用されている。カール・グスタフ・ユングの提唱した「神話的アーキタイプ」や「集合的無意識」といった概念も同様である。それらの概念を援用した現代版詩学大全『批評の解剖』(1957)で知られるカナダのノースロップ・フライは、ニュー・クリティシズムからその後の構造主義への道を作っている。また、フロイトの理論を構造主義的に読み替えたフランスのジャック・ラカンの精神分析学は、構造主義からポスト構造主義へと展開していく批評において不可欠である。ただし、精神分析批評は作者の無意識に焦点を当てるため、作者の意図の読解のヴァリエーションである。

 戦後最大のスター知識人であるジャン=ポール・サルトルが代表する実存主義は、50年代から60年代にかけて、世界的に流行している。シモーヌ・ド・ボーヴォワールやアルベール・カミュ、モーリス・メルロ=ポンティなどの本は当時のモードである。

 フランスでは、1960年代半ばに「新批評(ヌーベル・クリティーク)」と呼ばれる勢力が活発になる。これは硬直したアカデミックな実証的批評に対抗して登場した同時代的な文学批評の総称であり、そこには実存主義批評、マルクス主義批評、精神分析、構造主義といったさまざまな立場が含まれている。中でも、ガストン・バシュラールは、「テーマ批評」、すなわち作品の中に表われる「火」・「水」・「夢」といった詩的イメージを精緻に追求した新批評の先駆者である。ジャン=ピエール・リシャールやジョルジュ・プーレといった批評家も、バシュラールに多くを負っている。他方で、ロシア・フォルマリズムの再発見、フェルヂナン・ド・ソシュールやヤコブソンの言語学、クロード・レヴィ=ストロースの文化人類学、ラカンの精神分析学などを背景にして、構造主義の方法論が文芸批評にも応用される。ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァ、ジェラール・ジュネット、ミシェル・フーコーなどがその代表である。

 構造主義的な思考は文学作品のみならず、文化全般を記号の体系と捉える記号学的な分析の手法を発展させる。イタリアのウンベルト・エーコ、ソ連のモスクワ・タルトゥ学派のユーリー・ロートマンやビヤチェスラフ・イヴァーノフも、文学作品の分析に関して文化記号学の立場から成果をあげている。

 ただ、このアプローチでは、解釈の妥当性が理論に負っている。当該の理論の適用に賛同できなかったり、それ自体に懐疑的だったりすれば、解釈に同意することができない。特に、テクスト論や脱構築読解、新批評など内生的理論においてその傾向が顕著である。さすがに今ではテクスト論原理主義を支持する者は少ない。伝記的批評への回帰といかにまでも、程度の差こそあれ、テクストの外部を考慮する論考が多い。だが、イスラム主義者を始め原理主義者は聖典をその集団内だけで通用する恣意的な読みを行い、彼らの行動は世界的に現代的課題になっている。これは「作者の死」の行き着くところである。

 1960年代頃から、構造主義はフリードリヒ・ニーチェを知的源流にするポスト構造主義に押されていく。ジル・ドゥルーズと並んで、ポスト構造主義を代表する哲学者ジャック・デリダは、音声中心主義やロゴス中心主義、現前の形而上学といった西欧を伝統的に支配してきた理論の枠組みを根底から批判し、「脱構築(ディコンストラクション)」を提唱している。この方法は、70年代から80年代に亘り、特にアメリカでポール・ド・マンをゴッド・ファーザーとするイェール学派によって文芸批評に応用される。脱構築をとりいれた文芸批評は、文学テクスト自体に内在する矛盾に着目し、文学テクストに統一的な意味を見出すことは不可能であると断言する。

 また、1960年代後半には、読者が作品をどう読むかという側面を文学作品の成立に不可欠な要素として強調し、研究する受容理論が提唱される。これを提唱したのは、ドイツのハンス・ロベルト・ヤウスやW・イーザー等コンスタンツ学派であり、アメリカではスタンリー・フィッシュの読者反応批評も同様の方向を追求している。

 1980年代、アメリカでは、脱構築派が勢いを失い、代わって、新歴史主義が台頭する。これは歴史の文脈に立ち返って文学テクストを検討しようとする社会的・政治的側面を重視する点が特徴である。また、『オリエンタリズム』(1978)の著者エドワード・サイードを先駆者とするポストコロニアル批評も有力になる。これは新旧の植民地主義を批判し、第三世界の文化、東と西の文化接触といった問題を積極的に検討しようとする政治的な志向の強い批評である。さらに、主として男性の立場からこれまで書かれてきた文学を女性の立場から根本的に読み直そうとするフェミニズム批評も、1980年代以降、アメリカを中心に戦闘的な活動を見せている。

 今日、新たな理論が次々に登場している。それを利活用するなら、いくらでも新しい解釈が可能である。21世紀に入った頃から、ゲーテに由来する「世界文学」の認識が流行している。しかし、これは「グローカリゼーション」の言い換えである。グローバル化の進展はローカル化を伴っているという学際的な共通理解である。80年代から本格化した学際的研究の潮流は今や常識になっている。また、少なからずの学問分野はいささか帝国主義的に自らの可能性を示そうと他の領域に進出している。独自の方法を持っている経済学や社会学、人類学、心理学にその動きが顕著である。政治学や教育学は研究対象と結びついた学問であるから、そうした動きはあまりない。文学は後者に属する。他で編み出された方法論を応用することは、類型的解釈の氾濫の危険性もあるが、現実的に考えると、批評の活性化のためには必要であろう。

 解釈的アプローチは学派を超えた標準的解釈の形成に限界がある。そのため、成果をより広く共有するには、歴史的アプローチの方が適している。実際、成果を広く共有するために実証性・客観性を重視するアカデミズムの文学研究はこのアプローチが主である。

 もっとも、このアプローチで歴史的評価が定まっていない同時代的作品を扱うことは限定的である。文学史・系譜学の方法を用いて体系に位置づけることはできる。しかし、以下で論じるのは過去を取り扱う場合である。

 歴史的アプローチは従来の批評でも行われている。文学的諸伝統を流れとして捉える文学史や内容・形式などの共通性から作家・作品の系図を描く系譜学の研究がそうである。また、マルクス主義のように解釈的アプローチにも歴史を重視する理論がある。けれども、その批評は理論が持つ独特の歴史観に依拠している。現代批評の歴史的アプローチは現代史学の影響を受けている。現代史学は社会史によってそれ以前の体系が再構成されている。王朝や国家だけでなく、あらゆる対象の歴史性を問う。それを支える史料の範囲も拡張している。文字史料も公文書に限定しない。文学作品もそれに含まれる。加えて、考古学を始め近接学問の手法も利用されている。考古史料や環境・人口変動などの定量的データと文字史料を照らし合わせて複眼的歴史像を構成する。歴史的アプローチにおける主張の妥当性はこうした現代史学研究のそれに依拠する。

 歴史上、最も研究されてきた書物として旧約聖書が挙げられる。しかし、現代の専門家は軸の解釈を争うことなどしない。研究はもっぱら歴史的アプローチである。関根清三は東京大学名誉教授は、『旧約聖書と哲学』において、旧約聖書への歴史的アプローチを紹介している。それは、分析の次元の違いによって、本文批判・文書批判・伝承史的研究・編集史的研究・様式的研究・伝統史的研究に区分され、歴史的意味規定を目標とする。文学作品をめぐる歴史的アプローチはほぼこれである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み