1:5 批評を書き始めた頃

文字数 5,481文字

ⅴ 批評を書き始めた頃
 批評に魅入られた佐藤清文はすべてをそれによって認識するように次第になっていく。柄谷行人は言うに及ばず、吉本隆明や山口昌男、蓮実重彦、浅田彰など批評家は非常に広範囲の領域について論じている。批評を読むなら、文学だけでなく、彼らと同様、ありとあらゆる領域に対して理論的に吟味せざるを得ない。つねに批評のことを考えていれば、暗黙の裡にそういう認知が見につくものだ。

 批評は創作や鑑賞のメタ認知である。それは他者との理解の共有をもたらす。行動は感情の共有をしばしば促す。それは具体的・個別的で、場に依存する。一方、理解を共有するには、理論が必要である。それは抽象的・一般的で、場から比較的自由である。この明示知がリテラシーである。それはその領域における学び方のことだ。読み書きの学び方がわかれば、その実践ができる。この学習過程を通じてリテラシーは共時的・通時的な共有において汎用性を持つ。
 今日にける「批評(Criticism)」は対象を「評し(Appreciate)」、「体系付け(Systematize)」、他者に「共感(Empathy)」させる行為である。作品の出来を「判断(Administrate)」したり、他の作品との優劣を「評価(Evaluate)」したりするだけではない。「感想(Book Report)」や「印象(Impression)」にとどまらず、他者と認識を共有するために、論証を示して体系に意味づける必要がある。その際、「理解力(Comprehension)」・「洞察力(Insight)」・「方法論(Methodology)」・「全体認識(Whole Understanding)」・「コミュニケーション能力(Communication Capability)」が求められる。こうした属性により批評は創作や鑑賞のメタ認知たり得る。
(佐藤清文『作者の死?』)

 批評に魅入られながらも、80年代はまだ自ら書くまでに至っていない。ちょっとしたコラムを記すことはあっても、批評ではない。蓄積・形成されてきた体系と照らし合わせつつ、テクストを読解・再構成してそれを記述するのは90年代に入ってからのことである。
 実は、佐藤清文は批評家になろうと思っていない。批評を書き始めたのは、職に就けず、大学院に進学することになったからである。就職活動をバブル経済の最後の年である1989年に始めたものの、金融機関を中心に50社以上回った挙げ句、失敗する。業界の選択ミスは否定できないとしても、あの好景気に就職できなかった人物を佐藤清文は自分以外知らないと言っている。

 しかも、佐藤清文は就職に強いと言われていた国際基督教大学の出身である。1986年に同大学教養学部教育学科に入学している。結局、卒業後、同大学の大学院教育学専攻科博士課程前期に進学する。

Sous le pont Mirabeau coule la Seine.
Et nos amours
Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours apres la peine

Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure

Les mains dans les mains
restons face a face
Tandis que sous le Pont
de nos bras passe
Des eternels regards l'onde si lasse

Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure

L'amour s'en va comme cette eau courante
L'amour s'en va comme la vie est lente
Et comme l'Esperance est violente

Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure.

Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passe
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

Vienne la nuit sonne l'heure
Les jours s'en vont je demeure.
(Guillaume Apollinaire, “Le pont Mirabeau”)

 さらに、佐藤清文は91年頃からしばしば酷い抑うつ状態に襲われるようになる。佐藤清文の場合、希死念慮がり、ストレッサーが明確なので、当時なら適応障害、今であれば鬱病だろう。「悲しい涙は目より出て、無念の涙は耳からなりとも出るならば、言わずと心見すべきに、同じ目よりこぼるる涙」(近松門左衛門『心中天網島』)。どう見ても、精神に変調をきたしている。これでは就職もままならない。眼が覚めていると知覚が狂い、眠っても悪夢しか見ない。どんどん精神が追いこまれていく。それを治療するために第三の世界を必要として、狂気に苦しむ漱石が『吾輩は猫である』を書いたように、長嶋茂雄論『生きられた超人』を執筆し、狂気の闇に沈むことに踏みとどまる。

 なぜ長嶋茂雄なのかという問いも対する答えは単純である。それは長嶋茂雄が永遠回帰を実践しているからだ。

 長嶋が金田から一打席でもヒットを打ったならば、長嶋は金田のルサンチマンの回路を増幅することになり、長嶋自身もこの回路に組み込まれてしまう。長嶋は抑えることや勝つことだけに躍起になっている“天皇”金田から豪快に且つ美しくそのすべてを三振することによって、野球の既存の価値を転倒し、金田のその回路を破壊する。金田はジャイアンツに挑むことによって反感を晴らし、自分の生き方やその満足や不満足をいつも他人の評価だけから見ている。それは、金田がジャイアンツに入ってからは成績が伸び悩んだことからも、明らかであろう。長嶋はその金田の前で三振して見せることによって、ルサンチマンが実は生の否定にしかすぎないとファンに示してくれる。
 長嶋は三振の美しさを初めてファンの目に触れさせる。大下はアベレージ=ホームランという機軸にいたのであり、ホームランは日本プロ野球の転倒を表わしている。一方、長嶋は三振という野球において最も貶められていたものの一つを美として表わしたのであり、それは野球そのものの転倒である。
 (略)長嶋は、プロ入りしてから、努力や苦労といったことを一切口にせず、表情にしても、プレーにしても、そんな気配すら微塵も感じさせない。長嶋はつねにファンにアピールするプレーをこころがけ、走者になると小指の先までもピンと伸ばして全力疾走を試み、空振りするときもヘルメットの美しい飛ばし方を考慮、どんな平凡なゴロを処理するときもファイン・プレーに見せるようにする。長嶋はすべてにおいて自由にプレーしている。玉木は、『4番打者論』において、「ファンにアピールするプレーを見せ、チャンスに強く、自らの打棒でチームを勝利へと導く牽引車──それが、長嶋のつくりあげた『4番打者』像である。これはまさしくファンにとっての理想というべきもので、その特徴をひと口でいうなら、『ファンを喜ばせた』ということになるだろう」、と述べている。一打同点あるいは逆転の場面に、ファンが期待するのは、目の覚めるような走者一掃のバッティングである。長嶋は、そんなシーンに登場すると、四球を選ぶことはしようとしない。長嶋は、逃げの投球をする投手に対して、少々の悪球に対しても飛びついたりすくいあげたりして強引にでもヒットにする。起死回生のヒットを打とうとした結果が、たとえ内野ゴロや三振に終わったとしてもファンは彼の「意欲」を肯定する。またそのときのヘルメットを宙に飛ばし、ユニフォームの胸のマークが180度回転している空振りや、手を広げて一塁までの全力疾走の姿の美しさにファンは満足する。「美はどこにあるか? わたしが一切の意志をあげて意欲せざるをえなくなった時と場合とになる。形象が単に形象として終わらないように、愛し、没落することをわたしが欲するようになったところにある」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)。
(『生きられた超人』)

 長嶋とは、今ここに生きるわれわれにとっての自分自身を代理するものだ。草野進が、フィールドに彼の姿の影さえ認められない状況で、「ナガシマー」という叫び声を耳にしたことが二度もあると報告しているように、「長嶋茂雄」は「歴史のなかのあらゆる名前である」。それは単独的な固有名詞を取り戻す試みである。大衆の時代では、固有名詞は、メディアによって、デリバリーされている。そのため、偽の固有名詞はすぐに消滅してしまうが、真の固有名詞は、むしろ、反復され、増幅する。記憶の中にも、密かに、それは増殖している。その上で、長嶋を忘れたとき、あの問いが回帰してくる。その問いに対して、映画『フィールド・オブ・ドリームス』のあの言葉を思い出せばよいのだ。"If you build it, he will come."永遠に、「歴史のなかのあらゆる名前である」長嶋を使い捨てることはしない。長嶋茂雄は永遠に流通し続ける力なのである。「変化する者だけがあくまで私と親近である」(ニーチェ)。
 長嶋茂雄──alias 力への意志、永遠回帰、あるいは生成の無垢……
(同)

 佐藤清文が批評を本格的に書いたのは90年頃である。最初の作品は田中康夫の『なんとなく、クリスタル』論である。佐藤清文は、これに推敲を加えて、91年10月『気分と批評』のタイトルで『群像』新人賞に投稿している。なぜ田中康夫なのか問いに対する答えは、当時流行していた村上春樹に対する批判である。村上春樹より『なんとなく、クリスタル』は極めて重要な作品だと佐藤清文は訴える。『なんとなく、クリスタル』は私小説の形式をとりながら、ポストモダン状況に基づくレトリックで執筆したパロディだ。これは日本のポストモダン文学のはしりであり、消費者としての若者や少子高齢化問題に言及した初の作品である。しかも、ダグラス・クープランドの『ジェネレーションX』は『なんとなく、クリスタル』のリメークであり、海外への影響もある。

 『なんとなく、クリスタル』は、実は、海外で蘇っている。カナダの作家ダグラス・クープランド(Douglas Coupland)は、1991年、処女作『ジェネレーションX ─加速された文化のための物語たち(Generation X: Tales for an Accelerated Culture)』を発表する。これは商業主義に毒された都市を逃れ、モハベ砂漠で暮らす三人の男女を描いた現代小説である。
 マガジンハウスで勤務したことのあるこの作家による作品の構成は独特である。本文と皮肉めいた註が併記され、最後に労働人口推計などの数値が付けられている。しかし、これはほぼ10年前に日本で発表されたベストセラー小説『なんとなく、クリスタル』と類似している。さらに、主人公たちの姿勢は違うものの、商業主義批判という作者の意図も共通している。
 明治以来、日本文学は西洋のそれを輸入することに腐心している。ところが、『なんとなく、クリスタル』はその西洋が模倣している。これは歴史的快挙である。日本の小説が愛読されたこととはわけが違う。村上春樹をほめそやす前に『なんとなく、クリスタル』の西洋への影響を考察すべきだ。
(佐藤清文『気分と批評』)

 田中自身はその註について次のように述べている。

 でも、ブランドとか場所というものは、わからない人には、まるっきり、わからないものでしょ。そうすると、本当に仲間うちだけの小説になってしまう。だから、註をつけたんです。誰にでも、具体的な絵として想像出来るようにね。アメリカやフランスの小説にだって、ブランドや地名が一杯出てくる。で、それらの翻訳には、ちゃんと註がついてますもの。

 これは村上春樹とはまったく正反対の姿勢である。村上春樹の作品には、人物の名を除く、固有名詞が氾濫しているが、それらには註あるいは説明は一切つけられておらず、読むものにとってはそのほとんどが「具体的な絵として想像」することはできないものにすぎない。こうした試みは、実際には、村上春樹の独自性ではなく、1967年に製作された全17話のTV連続シリーズ『プリズナー№6(The Prisoner)』が先取りしている。むしろ、「具体的な絵として想像」することができないからこそ、村上春樹はそうする。と言うのも、村上春樹の企ては、経験的に有意味なものをまやかしだと指摘し、無意味なものを熱中してみせるカルチャー=サブ・カルチャーの転倒を秘めたロマンティック・アイロニーにほかならないからだ。
(同)
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