4:5 マルチ・テーマ展開法

文字数 4,101文字

(5) マルチ・テーマ展開法
 1978年に始まったTVドラマ『ダラス』はメインとサブの複数のプロットが同時進行する物語形式を試みている。これは後のドラマ制作に影響を与え、『24』を代表に今の連続物では一般化している。なお、ストーリーとプロットは意味が異なる。ストーリーは物語の流れの要約である。一方、プロットはその中の出来事・事件の因果性に焦点を合わせたそれである。

 こうしたドラマにおけるソナタ形式、あるいはマルチ・プロット展開を佐藤清文は批評に援用している。通常の批評は論証するテーマは一つである。ところが、佐藤清文は複数のテーマを一つの作品でしばしば扱う。

 この一例として『貫一曇り』を挙げよう。同作品は2013年1月17日に発表されている。1月17日は『金色夜叉』において貫一がお宮を熱海の海岸で蹴飛ばした日に当たる。それに関連して『金色夜叉』論を開始する。しかし、紅葉は「三角関係」の近代性を理解していないと山川登美子や漱石を比較検討している。紅葉はその後の近代文学発展の中で忘れられていくが、作者ではなしに読者中心の執筆は文学の草の根を広げることに寄与するのであり、この姿勢は今も重要だと説く。

 『金色夜叉』は『読売新聞』に1897年(明治30年)1月1日から1902年(明治35年)5月11日まで連載された長編小説です。非常に人気がある作品で、絵画や舞台、音楽、映画、ドラマなどにもされています。ただ、作者の紅葉が亡くなったため、未完に終わっています。熱海のシーンは物語が動くきっかけで、かなり前の方に出てきます。そこに至る過程は次の通りです。
 美貌の鴫沢宮(しぎさわ・みや)は富豪の富山唯継(とみやま・ただつぐ)にプロポーズされます。けれども、お宮には許婚と自他共に認める幼馴染の間貫一(はざま・かんいち)がいます。貫一は旧制一高の学生、すなわちエリート中のエリートです。お宮が熱海で見合いをすると知って、貫一が駆けつけます。貫一はお宮の本心を聞き出そうとしますが、叶いません。カッとなった貫一は、熱海の海岸で、お宮をカネに目がくらんだかと罵倒した挙げ句、蹴り飛ばしてしまうのです。
 その直後に、貫一はかの有名な次のせりふをお宮に発するのです。

「吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」

 1月17日に夜空が曇っていたら、貫一の恨みのせいだというわけです。これを「貫一曇り」と呼びます。1月17日は、7月7日のように、男女の仲と天気のエピソードがある日なのです。
 物語はこの後も延々と続きます。新聞小説ですから、展開の起伏が激しく、不幸や災難、幸運、再会などドラマティックなエピソードが盛り沢山です。なお、『金色夜叉』は金銭と色恋の間で引き裂かれて夜叉と化すという意味です。「金色」は「金」と「色」の二つの語を指しています。また、夜叉はヒンドゥー教の鬼神です。
 『金色夜叉』を読んだことがなくても、熱海のエピソードを知っている人は多いでしょう。現在、熱海には貫一がお宮を蹴り飛ばしたシーンの像があります。絵画や舞台、映画、ドラマ、コント、マンガなど大衆文化の中でもよく引用されています。赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』もその一つです。
 独身時代のバカボンのパパとママが熱海の海岸を歩いていると、貫一と名乗るみすぼらしい老人が現われます。貫一はママを見て、昔、この海岸で別れたお宮を重ね合せます。ところが、貫一はママとお宮の区別がつかなくなり、蹴飛ばしてしまいます。それをバカボンのパパが助け、二人は結婚するのです。
 引用からもわかるように、尾崎紅葉の文体は非常にリズミカルです。けれども、当時の文学的決まり事に則り、最新の風俗を表層的に取り入れ、読者の通念によりかかっています。彼はプロの作家ですから、読者の嗜好に敏感で、それが成功の一因だと言えます。
 けれども、紅葉は文学を作り物の世界を楽しむことと考え、新たに出現した近代社会と格闘して表現を編み出すという姿勢が乏しいのです。西洋の写実主義の導入だとして着物の柄を事細かに書いたことはよく知られています。エピソードが語り継がれても、時代を超えて作品が読まれ続けることは難しいのです。同じく人気新聞小説家だった夏目漱石との違いの一端がそこにあります。
 夏目漱石の小説には三角関係がよく登場します。三角関係は近代において初めて成立します。自由で平等、独立した個人の間の恋愛だからこそ、それが可能なのです。三角関係を近代以前に普遍的に拡張する考えには無理があります。
 近代以前の日本文学では、旅先の恋はそこでおしまいが決まり事です。旅の恥はかき捨てというわけです。近代に入っても、多くの男性作家はこの意識から抜け出せていません。森鴎外の『舞姫』にしても、川端康成の『雪国』にしても、同様です。彼らは三角関係を書けません。漱石は近代社会が何たるかを理解した上で、それと格闘して表現を導き出しているのです。漱石における近代と三角関係のこうした意味は、残念ながら、研究者の間でも十分認識されていません。
 日本近代文学史上初めて三角関係が登場したのは山川登美子の次の短歌です。

 それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ

 与謝野鉄幹をめぐって晶子と三角関係になったのですが、登美子は諦めます。これはその時の気持ちを詠んだ歌で、1905年(明治38年)に発表されています。漱石が『吾輩は猫である』を発表するのは翌年のことです。漱石は、その後、新聞小説を手掛け、その三角関係の作品は人気を博すことになります。
 『金色夜叉』はその前の時代に属しています。金と色の間で夜叉と化すのですから、三角関係は事実上ありません。尾崎紅葉が時代を超えられなかったことは確かです。けれども、時代を作っています。
 内田魯庵は、『硯友社文学と紅葉山人』において、おぞらく大正末に、紅葉文学の人気について次のように回想しています。

 今では政治家や実業家の中にも可成な文芸の理解者があるらしいが、紅葉の小説は其頃からして奥さんやお嬢さんばかりでなく、紳士にも学生にも宗教家にも教育家にも有識者にも無知文盲の俗人にも読まれた。

 紅葉は読者を選ばず、非常に広範囲に受容されています。文学を社会に初めて認知させたと言ってもいいでしょう。そうした草の根の広がりがあって、文学の土壌は豊かになるのです。文学が上層だけのものでも、下層だけのものでもなく、いずれにも共有され、社会に根差しています。貫一曇りのエピソードは社会の中の文学が近代日本で現われた象徴にほかならないのです。

 このように、三角関係の文学における近代性と社会の中の文学という複数のテーマが併存している。冒頭部分を省略したものの、分量は決して多くない。にもかかわらず、複数のテーマが関連して横滑りしつつ、展開されている。それらはレリバントもしくは派生的である。一つの概念に対して複数のコンテクストを用意し、各々にテーマを論じることで、複眼的な考察が可能になる。これがマルチ・テーマ展開法である。

 論理展開が因果関係に従属せず、それぞれの文章は配置されていることによって機能し、相関性の強調はカオス性を体現している。この方法論は「地平線」の批評と呼ぶべきだろう。「地平線」は部と外部が決定不能な場所である。寺山修司は、『地平線のパロール』において、「まだだれ一人として、地平線まで行った者はいなかった」と同時に「世界中のだれもが地平線の上に立っている」。地平線は「どこにもなくて、どこにも在るもの」である。そこは中心ではないが、周辺でもない。「辺境部」である。「世界で一ばん遠い場所」であり、内部と外部を分ける境界も意味をなさない。文化は越境の力学によって生まれるのではなく、言語的な表現であれば、「遠近感を言語化することである」。

Have you ever dreamed of a place far away from it all?
Where the air you breathe is soft and clean,
And children play in fields of green,
And the sound of guns doesn't pound in your ears.

Have you ever dreamed of a place far away from it all?
Where the winter winds will never blow,
And living things have room to grow,
And the sound of guns doesn't pound in your ears, anymore.

Many miles from yesterday, before you reach tomorrow,
Where the time is always just today,
There's a Lost Horizon, waiting to be found.

There's a Lost Horizon
Where the sound of guns doesn't pound in your ears, anymore.
(Hal David & Burt Bacharach “Lost Horizon”)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み