2:3 メニッポス的諷刺の批評

文字数 4,547文字

ⅲ メニッポス的諷刺の批評
 佐藤清文の批評は、いかなる対象をも扱い、後に述べる通り、文体も多彩である。それは「クリティカ・カプリチョーザ (Critica Capricciosa)」、すなわち何でもありの気紛れ批評と見てもいいだろう。

 坂口安吾は、『花田清輝論』において、『復興期の精神』でルネサンスを論じた花田清輝について次のように述べている。

 今度我観社というところから「復興期の精神」という本をだした。マジメで意気で、類の少ない名著なのだが、僕は然し、読者の多くは、ここに花田清輝のファンタジイを見るのみで、彼の傑れた生き方を見落としてしまうのではないかと怖れる。彼の思想が、その誠実な生き方に裏書されているのを読み落とすのではないかと想像する。この著作には「ュウレカ」と同じく見落とされ、片隅でしか生息し得ない傑作の孤独性を持っている。

 先ず第一に思想自体を生きている作家精神の位が違う。その次に教養が高すぎ、又その上困ったことに、文章が巧ますぎる。つまり俗に通じる世界が希薄なのである。
だが、これからは日本も変る。ケチな日本精神でなしに、世界の中の日本に生れ育つには、花田清輝などが埋もれているようでは話にならない。

 花田清輝は、後に、時代を代表する批評家として知られるようになったものの、彼のスタイルは主流になっていない。それは彼が諷刺としての批評を提示したからである。花田清輝は、小林秀雄が告白としての批評を構築したのに対して、諷刺としての批評を展開している。花田清輝の後継者は寺山修司であり、彼らはハッチポッチ・クリティシズムの先行者である。「諷刺を書かないのはつらい(difficile est saturam non scribere)」(テキムス・ユニウス・ユウェナリス)。

 佐藤清文は、小林秀雄が、『アシルと亀の子Ⅱ』の中で、「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシにして自己を語る事である」と言ったことに、必ずしも、与しない。小林秀雄にとって、「他人の作品」は「ダシ」であるが、諷刺的批評家には、スパイスであり、その調合が重要になる。「つまり、ぼくの好みとしては、見ばえのしそうな具はなるべくやめて、ほとんど材料のないようなものがよい。そのかわり、隠し味のほうは存分に贅沢して時間をたっぷりかける。そして、スパイスとその調合を楽しむ。それがつまりは、ぼくの美学でもある。表より裏に金と時間をかけたほうがよいし、スパイスの芸にグルメ道楽をかける」(森毅『さりげなく“教養の隠し味”を利かせられたら一人前』)。
 小林秀雄流の批評だけをそれと信じているものにとって、「批評するとは他者を語る事である。自分の作品をダシにして他者を語る事である」とでも言うべきハッチポッチ・クリティシズムは批評には見えないだろう。「人の味の好みを観察していると、新しい味に関心を示したがる人と、いつもの味で安心したがる人がいるようだ。ぼくの場合は前者のようだが、このあたりもまた、変化と安定の匙加減の問題だろう。変化といっても珍奇であればよいわけでもないし、安定といっても変化を拒否して閉じこもってしまったのではつまらない。夏も冬も同じ味ではすまないように、時代に沿いながら、それでも自分の味を出していくこと。面倒なようでも、それが生きていくということなのだろう」(森毅『「スパイスの利かせ方」がうまい人、へたな人』)。

 佐藤清文の批評は変則を通り越して、同じ伊達者の大瀧詠一と同様、ふざけすぎる場合も少なくない。しかし、おちゃめなシャレの一つもわからないで、作家になるべきではない。「楽しむことを学べ(disce gaudere)」。

ナナナ ウナ ウナウナナ(ズキ) ナナナ ウナ ウナウナナ(ズキ)
ナナナ ウナ ウナウナナ(ズキ) ウナナ ウナナ ウナズキ マーチ
今日も元気だ 首すじ軽い 前後左右に 縦横無尽
手塩にかけた このうなじ 明日もうなずきゃ ホームラン

西へ行っては うなずいて 皆 見に来ても うなずいて
北いにこたえ うなずいて 東 ずんでも うなずいた
よしなさい よしなさい よしなさい よしなさい (メモレー)

ウンナナ ウナ ウナウナナ(ズキ) ウンナナ ウナ ウナウナ(ズキズキ)
ウンナナ ウナ ウナ(ズキ ズキ ズキ) ウナナ ウナナ ウナズキ マーチ
ニッコリうなずきゃ あの娘もほれる 誰にも負けない この特技
ウンウンうなずく この迫力で テレビもつられて 上下にゆれる

ひとつ ひとりで うなずいて よっつ よこちょで うなずいて
やっつ やっぱり うなずいて とうで とうとう うなずいた
なんでやネン なんでやネン なんでやネン なんでやネン (コピレー)

ナナナ ウナ ウナナン(ズキ ズキ) ナナナ ウナウナ(ズキ ズキ ズキ)
ナナナ (ズキ ズキ ズキ ズキ) ウナナ ウナナ ウナズキ マーチ
だから男は うなずこう そして女も うなずこう
みんな和になり ほほ寄せて うなずきゃ世界は 日本晴れ

あれをごらんと うなずいて 吹けば飛ぶよに うなずいて 勝ってくるぞと うなずいた
そんなアホな! そんなアホな! そんなアホな! そんなアホな! (テプレー)
ナナナ ウナ ウナウナナ(ズキ) ナナナ ウナ ウナウナナ(ズキ)
ナナナ ウナ ウナウナナ(ズキ) ウナナ ウナナ ウナズキ マーチ
(大瀧詠一『うなずきマーチ』)

 ハッチポッチ・クリティシズムには決まりきった形はない。「ニーチェについて書くことは許されるが、ニーチェのように書くことは禁止されている」アカデミズムには受け入れられない。「何が冗談によって真実を告げることを禁止するのか(ridentem dicere verum, quid vetat?)」(クイントゥス・ホラティウス・フラックス)。

 対象やメディアに応じた「匙加減」が重要である。文学テクストが作品として成り立つには、作者=作品=読者の三つの次元が不可欠である。これらの中のどれに重点を置くかによって批評の主要な傾向が分かれる。作者に重点を置くのは実証的な伝記的研究であり、作者の生涯との関係において作品を解釈する。作品自体に集中するのは、ロシア・フォルマリズムやニュー・クリティシズムに特徴的な方法である。読者の役割を強調する立場の典型としては、受容理論があげられる。20世紀後半の批評は、ロラン・バルトの提唱した「作者の死(La mort de l'auteur)」、すなわち作者の意図に囚われない読解が主流で、作品集中タイプである。ただし、彼らは意図を排除するため、作品ではなく、「テクスト」と呼ぶ。「そうした客との相互関係のなかでしか芸はないもので、それと無関係に芸術が存在するなどと思うのは、芸人としては傲りだろう。このことが文章の芸の場合に、忘れられすぎているような気がする。読者なしの文章なんてない。その雑誌ごとに読者がいるのだ。文章の場合こうしたことが起こりやすいのは、思想だの芸術だのといったものが、著者と読者の関係をこえて存在するという幻想が、強いからではないだろうか。それは、いまだに、活字の呪縛性にたよったインテリの亡霊が生きているのかもしれぬ」(森毅『芸人と小屋』)。

 批評は、他にも、その傾向によって、印象批評=理論的批評(裁断批評)と功利主義的批評(倫理的批評)=審美的批評の二つの機軸で大きく分類できる。前者の区分は、作品を分析する際の批評家の方法の違いによる。印象批評は理論的な方法を用いずに、批評家の個人的な印象に基づいて展開し、その個性的な芸に負っている。それに対して、理論的批評は、理論的に作品を分析・解釈して作品の価値について判断する試みであり、アリストテレスから20世紀の「作者の死」に至るまで長い伝統がある。

 アラン・メッター監督の『バック・トゥ・スクール(Back to School)』において、ロドニー・デンジャーフィールドが扮し、LLサイズの衣料チェーンで成功したソートン・メロンはキース・ゴードン演ずる息子ジェイソンの通う大学に入学し、カート・ヴォネガットに関するレポートを金を払って作家本人に書かせて提出したのに、かの「ホット・リップス」役で映画史に残るサリー・ケラーマンのダイアン・ターナー教授に不合格の判定をされている。作者自身が最も自分の作品をわかっているとは限らない。

 一方、後者の区別は、批評家が文学の本質をどのように考えるかに基づいている。功利主義的批評は文学に実利的価値を求める。ヨーロッパでも日本でも近代以前の文学観は功利主義的であり、文学作品にカタルシスや読者の教化、道徳的教訓といった実益を期待している。この批評は文学作品の価値を倫理や思想内容によって判断することにもつながり、20世紀ではマルクス主義批評やフェミニズム批評によって受け継がれていく。反対に、審美的批評は文学に実利的な効用を拒絶し、芸術としての自立した美的価値を探ろうとする。この傾向が誕生するのは、ヨーロッパにおいては、ルネサンスである。文学の価値を倫理や政治に従属させないという点では、テクスト論など現代の批評家は広い意味での審美的批評のヴァリエーションである。

 後に述べる通り、20世紀後半の文学批評の主流は作者の死、すなわち作者の意図にとらわれず、アカデミズムで認知された理論を論拠に、テクスト解釈を行う。しかし、作者=作品=読者は互いに三位一体として複雑に関係しているのであって、多くの批評家は、作品を分析する際、いずれかに焦点を合わせるにしても、三つの次元の微妙な絡み合いを考慮している。その上、印象批評=理論的批評と功利主義的批評=審美的批評にしても、それらが融合した批評も少なくない。

 佐藤清文のハッチポッチ・クリティシズムは、そのバランス感覚を意識的に重視し、対象に応じた「匙加減」をガルゲンフモールとして楽しむ姿勢である。ルーブ・ゴールドバーグ(Rube Goldberg)の「ガジェット(Gadget)」のような批評も、いささか「バッツ博士(Dr. Butz)」になりながら、そうやって愉快に思っている。佐藤清文は自分がわかっている範囲でのみ批評をすることを好まない。だからこそ、扱う領域を開拓している。その作業tによって思いこみで固まっていた認識が再構成される。「芝居を繰り返していくと、どうしても言葉や、そこで相手にしている人間を対象としているからでしょうか、芝居が小さくなっていきます。プロットを運ぶことばかり考えて、芝居が現象的になりがちです。ハードルが芸を競うものに変わってしまいます。映画の形式が強くはたらくところでは、俳優の演技は完結的である必要はありません。むしろ未完のまま、理由づけされないまま、存在としての幅を広げてくれることを演出家は望むのですが、どうしても自分が『わかっているところ』でやりたくなってしまうのです。これは演出の側にもいえることですが、自分の手からなにものかを手離す、その手の離し方が難しいのです」(小栗康平『映画を見る眼』)。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み