1:1 「汝自身を知れ」とは何か

文字数 2,618文字

汝自身を知れ: Wie Wir Werden, Was Sie Sind
Saven Satow
Mar. 31, 2020

ecce homo
Ja, ich weiß, woher ich stamme!
Ungesättigt gleich der Flamme
Glühe und verzehr ich mich.
Licht wird alles, was ich fasse,
Kohle alles, was ich lasse:
Flamme bin ich sicherlich!
Friedrich Wilhelm Nietzsche

 Criticism…fuck!

Ⅰ Warum sie so weise sind.
ⅰ 「汝自身を知れ」とは何か

First. We pass through grass behush the bush to. Whish! A gull. Gulls. Far calls. Coming, far! End here. Us then. Finn, again! Take. Bussoftlhee, mememormee! Till thous- endsthee. Lps. The keys to. Given! A way a lone a last a loved a long the
PARIS,
1922-1939.
(Jams Joyce “Finnegans Wake” Ⅳ 628)

 「汝自身を知れ(ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ)」──デルポイのアポロン神殿入口に掲げられたこの格言は知性主義が何たるかをよく示している。ソクラテスは、プラトンの『プロタゴラス』によると、七賢人がアポロン神殿に集まり、二つの碑文、すなわち「汝自身を知れ」と「度を越すなかれ」を報じたと明かしている。この「汝自身を知れ」は自己の探求を意味しない。それは個人主義的問いであり、近代に属している。グレコ・ローマンの地中海世界には、ルネ・デカルトもジークムント・フロイトもいない。ホメロスやウェリギリウスの叙事詩が語る道徳規範が支配している。この格言の目標は、だから、よく生きることを知ることである。

 古典時代において道徳は政治と一致している。両者を区別して相互不干渉にすること、すなわち政教分離は近代の原則であって、古代人には理解できない。彼らにとって宗教は共同体に内属している。その外部世界なるものはない。共同体での生活規範が宗教のそれでもあるから、経典を必要としない。他の共同体では生活習慣が異なることもあるだろう。その間で信仰される宗教は、そのため、守るべき徳目を生活規範に基づくことができない。進行を共有するために経典が要る。アリストテレスは『政治学』において人間を「ポリス的動物」と定義する。ポリスは古代ギリシアの共同体、すなわち小規模の都市国家である。アテナイの場合、総人口は30万人、その内、政治参加の権利を有する成人男性の市民はおよそ3万人である。人間はポリス内で生きるものであって、アリストテレスにとってその外にいることなど論外である。共同体の認める道徳に適った生き方をすることが理想だ。こうした規範を共有する市民がポリスの政治に参加している。政治の目的は徳の実践、すなわちよく生きることである。道徳規範に従って生きることが望ましい政治の認知行動になる。

 よく生きるためには、規範が内面化されていなければならない。それがよい生き方であるのかを誰かに尋ねることなく、内省を通じて判断できなければならない。自分でできぬのなら、自由な市民ではなく、誰かの所有物、すなわち奴隷でしかない。自身の生活の認知行動が規範に即しているかを自覚し、つねに自己再帰的、すなわち反省的な態度でいなければならない。それゆえ、果たしてよく生きることが己に内面化されているのだろうかと自省することが「汝自身を知れ」の意味である。

 プラトンは知ることによって自ずと正しい行いができるようになると説く。確かに、知こそすべてには異論があろう。しかし、自分を診察している人物が医術を知らないとしたら、患者は不安になるに違いない。医術を知っているなら、その認知行動が妥当であるかを確かめることができる。知ることは己を対象化するメタ認知を与える。それにより私はもう一人の私と対話をする。そうなると、医師と患者はその知識を通じて理解の共有を図ることも可能である。

 もっとも、知識を持てる者は持たざる者への攻撃的、あるいは陰険な態度をしばしばとる。知識の所有主義は情報の非対称による暴力を誘発する可能性がある。それは持たざる者を持てる者への復讐に駆り立てる。知らぬことに居直り、知は罪と罰を与えようとする。だが、知ることは共時的のみならず、通時的共有でもある。知は過去・現在・未来をつなぐのであり、その否定はこの継承を断ち切る。かくして反知性主義者の反逆は社会を混乱・破壊に導く。

 知ることの意義は自らを相対化することにある。無知には既知だけでなく、未知のものもある。PCBやフロンガスが示しているように、知られざる無知があるために、知は謙虚でなければならない知識所有主義は知っている自身の絶対化、すなわち知らない者に対して優越感を味わう自尊心の満足をもたらす。だが、それはルサンチマンにすぎない。持たざる者の反乱と同様だ。しかし、知ることは永遠の持続である。知識を得た時、知らなかったそれまでの自身を恥ずかしくなる。無知であることは無恥である。

 知をめぐるルサンチマンを示す好例がソクラテスのエピソードだろう。ソクラテスは自身について知らないことを知っていると公言する。その彼は知っていると評判の人物に問答を仕掛ける。実際には知らなかったことを人前で暴露された者は赤っ恥をかかされ、彼に恨みを抱くようになる。それはソクラテスを裁判にかけることへとつながっていく。このようにして知ることは道徳性を帯びる。

Where is the Life we have lost in living?
Where is the wisdom we have lost in knowledge?
Where is the knowledge we have lost in information?
(T. S. Eliot “The Rock”)
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