2:4 引用ハッチポッチ

文字数 2,948文字

ⅳ 引用ハッチポッチ
 後に詳しく述べるが、佐藤清文の批評には大量引用という特徴がある。それも、BGMのように、ポップミュージックや映画、文学、日本語以外の言説からなど大量の引用が作品に招き入れている。

Kilgore: We'll come in low, out of the rising sun, and about a mile out, we'll put on the music.
Lance: Music?
Kilgore: Yeah, I use Wagner - scares the hell out of the slopes! My boys love it !
Lance: Hey, they're gonna play music!
(Francis Ford Coppola “Apocalypse Now”)

 この大量引用がわかりにくいと感じられたなら、それをとばしても、全体の趣旨が取れないことはない。フレデリック・フランソワ・ショパンは、ジャン=ジャック・エーデルディンゲルの『弟子から見たショパン』によると、演奏者に譜面通りに弾くことを求めていない。即興的な装飾音の挿入を本人が好んでいただけでなく、弟子にも勧めている。また、アイルランド出身のジェーン・スターリングはこのポーランドの天才ピアニストからレッスンを受けているが、技術的な制約を持っていたため、『前奏曲』変ニ長調を演奏する際、音符を便宜的に変更する、すなわち難しい部分を簡単に変えるように指導されている。佐藤清文は、ショパン同様、批評への装飾音の挿入が好きである。「漫画は落書精神から発するというが、近ごろは、落書のような楽しい子供漫画が少なくなった。ぼくは、シリアスで深刻な話を描いていて、フッと自分で照れたときに、童心にかえるつもりで、このヒョウタンツギを出してみるのだ。最近、これすらも、『邪魔だから、こんなものは止めてください』と投書してくる子供が多くなってきたのには、ぼくはなんとなくさみしい気がする」と手塚治虫が『ぼくはマンガ家』と嘆くその気持ちが佐藤清文にはよくわかる。「わからないことへの耐性の不足」は、森毅の『いまどきニッポン漂流術』によると、「『中途半端にできる学生』のレポート」を好む。わかる読者には即興的な装飾音を勧め、わからないから読まないのではなく、「わからないことへの耐性」を佐藤清文は読者に期待している。

 確かに、佐藤清文は剽窃の批評家である。けれども、そこにも倫理はある。が敬愛するイギー・ポップの傑作をパクって大金を稼ぎながら、良心の呵責に悩まされないJポップのミュージシャンなんぞにはなりたくはないと佐藤清文は言っている。Shame on yourself!

 そこで、佐藤清文は、これも後に説明するが、MP3のように、作品をデータ圧縮している。佐藤清文の作品は、本来、その10倍の分量を必要とする。大量に引用し、形成されてきた言説への「匙加減」を楽しむため、ロン・ポピール(Ron Popiel)のテレビ・ショッピングばりに、対象をめぐる主要な言説を一通り要約して、考察を語る。一種のインフォマーシャルだ。その時、局所的な相互作用の規則を認識し、それに基づいて作品を制作している。1980年代に入って、テレビを見て育った世代が作家としてデビューする。彼らの文章は情報量が少なく、スカスカで、テレビの画面を思い起こさせる。テレビの画面は、インターネットに比べて、1枚あたりの情報量が極めて少ない。しかし、テレビはそれを画面の切り替えの速さで補っている。映画の1秒はフィルム24コマとして換算される。映画のカメラの切り替えが最低8コマとすると、テレビでは約3コマに相当する。と言うのも、テレビは、撮影後にフィルムを編集するのではなく、現場のカメラの変換をスイッチによって瞬時に行うからである。80年代以降の作家はこうした情報量の少ない文章を展開の速さによって補うスタイルで書いている。他方、佐藤清文のハッチポッチ・クリティシズムは情報量が多く、インターネット的である。佐藤清文の文章速度は、「おとぼけ批評」と言ってもいいほど、年を取るごとに遅くなっており、展開は、ハイパーリンクのように、離散的である。けれども、確かに、インターネットの普及からハッチポッチ・クリティシズムが発達しているものの、そこにとどまらない。

f(x)=4x(1-x)
x(t+1)=4x(t)(1-x(t)), t=0,1,2,…
(S.M. Ulam & J. von Neumann "On Combination of Stochastic and Deterministic Processes " )

 告白としての批評では一人称単数形の「私」が主語であるが、諷刺批評の佐藤清文はそれを使わない。告白が円であるとすれば、諷刺は楕円である。円は中心が一つであるが、楕円には焦点が二つある。それは自己と他者である。ハッチポッチ・クリティシズムは佐藤清文の批評だけを指すわけではなく、一つの集団的匿名である。佐藤清文が最も引用しているのは森毅の作品であり、森毅を通じて、さまざまな出来事や作品を見ている。森毅は批評のナックルボーラーであって、彼の作品はナックルボールとして味わう必要がある。「審判がナックルボールの判定をできるようになるまでには、最低四、五年はかかる。したがって、大リーグに入りたての私には当然どうしたらいいのやら見当がつかなかったのである。なんとかして最後まで目で追おうとするのだが、どうしてもそれができない。ともかく相手は、上がったかと思うと下がり、それから一気にプレートの上を通過するという代物なのである。『ストライク』とコールしてみるものの、すぐに自分でも疑問になる」(ロン・ルチアーノ『アンパイアの逆襲』)。

 佐藤清文にとって、考えるために読むのは柄谷が道標である。だが、書くために考えるには森毅が最高だ。ハッチポッチ・クリティシズムは、スパイク・ジョーンズ監督の『マルコヴィッチの穴(Being John Malkovich)』をもじるなら、「森毅の穴(Being Tsuyoshi Mori)」と呼べるだろう。そこには誰でも参加できる。ただ、加われるだけではない。その行為が「グリッド・ライティング・システム(Grid Writing System)」を形成する。ハッチポッチ・クリティシズムは、その意味で、「グリッド・クリティシズム(Grid Criticism)」である。佐藤清文は、森毅を読むために、ハッチポッチ・クリティシズムを生成している。自分の批評を読むよりも、そこで引用されている森毅の言葉を楽しむ方がいいとさえ訴えているようだ。「人間が生きていくというのは、自己の物語を編修していくことだが、それが社会という編集者たちのなかにあるから、そのなかに自己は拡散して存在している。自己を実体化して世界をとざすより、複数の自己が世界にひろがっていくのが楽しい。トークで世界がひろがっていくのは、こうしたことがうまく進んだときである」(森毅『編集された自己』)。
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