第8話 reach out

文字数 661文字

浜松駅近くの鰻屋。
30過ぎの女がひとり。
派手な服装がより哀愁を誘う。
ヤケ食いとはこの事か?
上鰻重を、なんの感慨もなさげに、呆けたように時々思い出しては口に運び、いつ食べ終わるともなく食する。
うまそうでも、不味そうでもなく。
時折頬杖付きながら。
とっくに冷めていた。

赤い暗闇の中、激しい音楽。
はるちゃんの声!
昔よりしっかりした演奏で、速くて複雑な曲。
ギター時々間違えるのは昔のまんま。
ぱちっと目を開ける。
眼の前ではるちゃんが歌ってる。
誰かにちいさく手を振った。
奥さんだ。
ずっと、そっちだけ見て歌ってる。
わたしは後ろの方で隠れる様にして観てるし、背も低いから見えないよね。
途中前の方に行ってみた。
それでもずっと同じとこしか見てない。
視線の先には、ベビーカーを畳んで抱っこした赤ちゃんを揺さぶりながら見つめる奥さん。
きれいなひと。
良いライヴだった。
歌もギターも上手になったと思う。
何よりやっぱり、はるちゃんかっこよかった。
でも、もう手が届かない。

終演後、真っ先に外に飛び出したはるちゃんを追い掛ける。
奥さんと並んで、はるちゃんがベビーカーを押す。
地下鉄の駅まで。
少し離れて私も地下鉄へ。
お互い手を振り合い、はるちゃんは引き返す。
手を振るのが下手なはるちゃん。
昔のまま。
追い掛け、られなかった。

地下鉄に乗って、同じ車両の遠くから奥さんを眺める。
幸せそうだな。
そうだよ、諦める為に、来たんだ。
朝早かったから眠いな。

目を閉じ、名古屋で新幹線に乗り換え、浜松で途中下車して、はるちゃんと行ったあの鰻屋さんで鰻食べよう、と考えた。
赤い暗闇。
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