朝食は軽く済ませたい 3

文字数 3,753文字

 毎日食べるはずの朝食をすっかり忘れていたのは、この家では朝一番の来客が普段からあまりないせいだ。
 今日のように起きてすぐ客と対面、というのは実に数ヶ月ぶりであるので、この忘却をもってカトレアが迂闊な性格をしている証明にはならない……と思う。
 やはりそういう時間帯というものがあるのだろうか、この家に彼ら客が訪れるのは多くの場合午後から夜にかけての時間帯が一番多く、朝という健康的過ぎる時間に来る客はかなり稀な方だった。そしてもっと意外なのだが、夜に客はほぼ来ない。一般的な印象としては夜の方がむしろ多そうなのだが、時間帯による差異が発生している理由はわからない。これは賢者たる彼女にもよく解っていない現象だった。
 この家に来る前も来てからも、朝ならまだしも寝ている間の深夜に客が来たことはまだ無い。もしかすると寝汚い自分が気づいていないだけなのかもしれないが、過去からの記録にも無いのだ。自分だけの特殊な状況ではなさそうだった。まぁ深夜の就寝時に来られてもどうしようもないけれど。
 さすがに賢者も、自分が気づいてない相手まで相手はできないし、生きているからには睡眠は必要なので、それは仕方ないだろう。
 食事に関して客である青年に快い許可を貰ってから、昨日の夜に用意しておいた簡単な朝食を台所から居間に持ってきて食べる。作り置きがあるのは、こういう状況を常に想定しているという訳ではなく、朝はあまり動けないし食べられない方なので基本手軽に(あるいは手間なく)用意できてすぐ食べ終わるものを夜の内に用意しておいて、朝にそれをさっと食べているから。勿論、朝起きてすぐ料理したくないからというのもある。前日夜から面倒な時はパンのみで済ます事も多い。
 別に毎日パンでもよかったが、文句を言いそうな者が約一名いるのでやめておく。
 内容的にもすぐに済む食事なので台所で食べてきても良いのだが、そうなると台所では立ったままで食べることになる。別にそれでも気にならないのだけど、過去に数度そうしようとした際に「行儀が悪いですし消化にも良くないですよ」とくどくど説教をされて以降、客が許す限りは居間で食べるようにしていた。
 口うるさい相手の神経を無駄に逆撫でる必要はない。
 だから、客がその行為を嫌がれば彼女も楽する理由が出来るのだが、今まで全員が気にしなかったように、今回の気の良さそうな青年も何のためらいもなく了承してくれた為、今回も居間で朝食を食べる。
 人は客の立場になった時、意外におおらかになるんだろうか。
 それでも相手を待たせている事実は変わらず、心なしか普段より早く咀嚼して水と一緒に食べ物を飲み込んでいくと、食事はあっさり器から消えた。
 器を片付けながら、尋ねる。
「貴方の名前は?」
「ノーグです」
「そう、短い間だと思うけどよろしくね。私はカトレア。こっちはハーミット」
 自分、次いで、二人のいるソファーとテーブルの辺りからは少し離れた絵画のかかっている方の壁にずっと凭れているだけの青年を視線で示しながら教える。といっても金髪の青年の方の名前は彼女が勝手につけた名前だ。出会った当時は何となくそんな感じ(隠者)だったのだが、口うるさくなった現在においてはちょっと違和感を感じる名前になっている。
 名前を呼ばれても視線も寄越さずに立っている姿は、見た目だけなら絵画のような美麗さだ。
 なんかどこにも隠れそうじゃない。
「そちらの、ハーミットさんはどういう方なんですか?」
 そわそわとした様子で尋ねてくるノーグの目には、かすかな好奇心が見える。
 若い女賢者のそばに、見るからに美形の若い男がいれば、誰だって関係性が気になるものらしい。いつも同席するその謎の美青年に関してわざわざ訊いてくる客は実は少ないが、それは単に普段からの言動が正直かどうかの違いなのだろうと思われた。
 ノーグにはいかにも人見知りもなく誰とでもうまく付き合えそうな愛想の良さが伺える。外見からして人好きしそうだという印象はあながち間違ってはいないのだろう。
 その問いかけに、一瞬手を止めて思考。
 ここで事実を答える義務はないが、ただ有耶無耶に誤魔化すのも面白くないので、この系統の質問には毎回ちょっとだけ悩む。悩んで、今日の答えを何とか引き出した。
「……性欲処理?」
「触れたこともない相手でどうやって性欲を発散されてるのか気になる所ですね」
 さすがに壁の方から硬い声で注釈が入ってくるのも予想済だ。ウブだが、他の誰かがいる場合は流石に簡単に動じてはくれない。彼は彼で最低限守りたい体面や体裁というものがあるのだろう。それはそれで面白いと彼女には思われているのだが。
 いきなりの賢者の発言に驚いた顔をして次の言葉が言えないでいるノーグに対してはにこやかに微笑みを向けながら、彼女はそのまま話を続ける。
「そこはそれ、貴方が一人で痴態を晒す様を眺めて楽しむ感じかしら」
「僕は目の前で服を脱いだ記憶もないですが」
「いやね、痴態というのは別に裸だけを指すものじゃないわよ」
「つまり性欲が余程変態的に一般的でない何かに向いているって事ですねノーグさんすぐ逃げましょう」
「失礼な。誰彼問わずなんて言ってないじゃない」
「その前に変態的で一般的でない事を否定してください」
「そこは無理ね」
「……ところでこの馬鹿話はどこまで続ければ良いんですか?」
 室内温度を数度下げそうな程に冷たい声が彼から発せられた所で、戯れ終了の合図。これ以上続けて余分に怒りを買ってしまえば、客がいなくなった後のやり取りに支障が出てしまう。二人きりになってからの、いつ終わるかわからない小言の時間は彼女だって遠慮したい。
 呆気にとられた様子で二人の会話を聞いていたノーグの方を見て、彼女はもう一度意識してにこりと笑う。
 そして説明再開。
「つまり、こうやってからかって楽しむ間柄よ。大丈夫貴方に実害はないわ」
「僕への害もなくしてください」
「それは無理ね」
「もうやだこの賢者」
 即答した彼女に本気で嫌そうな顔をするハーミットだが、毎回言葉で遊ばれているのをわかっているのに律儀に何かを答えている辺り、本人もこういう会話が満更でもないのではないかと彼女は推測している。本当に相手をするのが嫌なら最初から全部無視すればいいだけの話なのだ。彼の普段からの口うるささを考えれば、無視をしたくても性格的に出来ていないだけの可能性もあるが、その場合は自業自得と諦めてもらうしかない。
 彼をからかうのは、この家での数少ない楽しみの一つだし。
 賢者をしているが元の性格が優れているわけではない彼女のそばにいるからには、この程度の日常会話は受容して貰わないと困る。何しろ我が家の中でまで自分の言動を繕う程、堅苦しく生きたい訳ではないのだ。
 それを彼に言ったら「客の前でくらい繕いましょう」と返しそうだが。
 二人の様子を見ていたノーグは、少し悩んだ後に壁の青年の方を見て言う。
「楽しそうですね」
「まさか僕が楽しそうだと思っているなら君の目は節穴ですよ」
「あ。いえ、別に」
 その言葉に、じとりとノーグを睨んですぐに反論した金の髪の青年の視線から逃げるよう視線を彷徨わせて言葉を濁す黒髪の青年は、その素朴で素直な様子に対して、意外に観察眼があるのかもしれない。ハーミットが楽しそうだ、というのは彼女も同意見だった。これでも一応、本気で嫌がる相手を延々と嫌がらせ続けるような趣味は持っていないので。
 それを言うとまた煩くなりそうなので心の中に仕舞って、「ちょっと待っててね」と断りを入れて居間を出ると、台所に食器を置きに行く。本当はここですぐに洗えればいいのだが、客を待たせてまで急いですることもないので、汚れた食器を全部流しにある桶の水に浸けるだけで居間へと戻った。
 居間に残っていた男二人は会話を弾ませた様子もなく、お互い黙って違う方を向いている。
 そんなものだろう、用事がない同士ならば。
 客の青年はその沈黙が少しだけ居心地悪そうだが。
「さて、じゃあ始めましょうか」
 ノーグに声をかけながら、カトレアはこの居間の中で普段最もよく使っている一人がけの椅子に座った。
 それは重く厚い黒木で骨組みが作られて、体に触れるような場所である背もたれから何からはかすれた茶の革張りの中に弾力のある素材が詰め込まれた、座ればふかっと体を受け止めてくれる高級な座椅子。ほんの少し傾いた背もたれに完全に背を預ければ、昼寝なども不可能ではない。彼女の体格に対して少し高さがあって足先が床につかない以外は座り心地が完璧な椅子だ。
 毎回カトレアは必ずここに座る。
「貴方の、案内を」
 彼女の家に訪れる客は、例外なく全員が賢者の案内を求めてやってくる。
 この国の生まれなら殆ど誰もが知っている。親から、兄弟から、友人から、近所の人から、学校から、必ずどこかで見聞きするおとぎ話や噂話にだけ登場する、普段ならば実在を気にも留めない存在。
 古いおとぎ話から続き、今でも噂としても伝わるその役割はたった一つ。
 己の行き場がわからない相手を、本来向かうべき場所へと案内するだけ。彼女が指し示す場所は常に二箇所しかないが、それこそが彼らの求める答えだ。
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