夕食はゆっくりがいい 1

文字数 3,173文字

 ノーティの姿が完全に消えるまで見送った後、ぐったりと椅子にもたれて大きな息を吐いたカトレアは、ちらりと視線を投げた窓の外が暗くなり始めていることに気づく。夕日が直接入ってくるような方向に窓はないから太陽が落ちるに従い角度の変わっていく光が直接差し込むことはなく眩しくはないものの、世界中がゆっくりと明るさを失っていけば、窓からだけ明かりを取り入れている部屋も同じく明るさを失っていく。客の応対に集中していると時間の経過を忘れることはよくあることで、窓からの光が多少減ったところですぐに気づかない。
 とはいえ、日が落ちるまでの時間は案外短いもの。この明るさが残っているのはあと少しだろう。
 時計などという高価なものはここにはないし、置いたところでやはりその存在を忘れそうだ。
 さすがに星が見えるほど暗くなれば気づくし、暗い中では夜目が利かない自分が困るので照明用にロウソクを灯すが、世界が夕暮れになった程度では、特に案内中は暗くなってきたことすらわからないことが多かった。それだけ会話と思考に集中している、という事でもある。
 こればっかりは仕方ない。
 散漫よりは良いだろう。
 案内中に長い間似たような体勢で座っていたせいか、さすがに良い椅子であっても身体の一部が痛みを訴えてきている。立ち上がらないまでも、凝りをほぐすようにぞもぞと体を動かした。そうすると呻くほどではないものの、あちこちで鈍い痛みが走る。もっと昔はもう少し長く同じ姿勢をしていても痛みもなく平気だった気がするのだが、これが歳をとるという事なのかもしれない。
 最終的にはベッドでごろごろしながら話を聞くのが最も疲れなさそうだが……これはさすがに無理な提案だろう。
「お疲れ様です」
 動き出したこちらに、声がかけられる。
 その主である相手、いつも客と対峙している間は壁にもたれたまま動かないハーミットの方は一体どうなっているのか、何時でも最後まで同じ姿勢でも平然としているし、そこから動き出す時にも特に痛みなどで困っている様子はない。
 若さか、やはり若さなのか。
 それとも。
「貴方も若いでしょう」
 独り言がまた聞こえていたようだ。
 呆れたように答える相手をじっとりと見る。
「自分より若い子にそれを言われると嫌味に聞こえたりするわよね」
「そうやって気にするのがまだ若い証拠ですよ。もっと歳をとれば気にならなくなって、むしろ喜びだしますよ」
 こんな視線程度で動揺する事はないどころか、青年は微笑みつつそんなことを言う。
 彼自身に過去の記憶はない筈なのに妙に説得力があるのは何故なのか。そういえば実際に知っている賢者の多くはそういう人が多かったような気がする。賢者の中で彼女は相当の若手で、同じ地位にあるのは祖父母と孫と言っていいほどの年の差がある相手が多いが、男女問わずそういう賢者は若いと言っても怒らなさそうだ。彼の言う通りの反応が簡単に思い浮かぶ。
 今後もしも機会があったならちょっと試してみよう。
 今は絶対にないけれど。
 そう思いつつ椅子から身体を起こして大きな伸びを一つ。
 椅子の上で殆ど動いていないとはいえ頭を使っていたからなのだろう。現在は全身が栄養を要求しているようだ。何をせずとも腹は減る、とはよく言ったもの。案内中は気にならないのに、一度意識してしまったたせいか、空腹はだんだんと主張を激しくしてくる。
「お腹減ったわ」
「もうそんな時間ですか」
 それを口に出せば、彼も窓の外にちらっと視線をやって気づいたらしい。時間経過への鈍さは互いに似たようなものだ。彼の場合は案内中に何をしてるわけでもないのだが。
「キリもいいし、ご飯にしましょう」
「そうですね」
 食事が取れそうな時に迷ってはいけない。
 いくら夜に客が来たことがないとはいえ、来客の時間や案内までにかける時間によっては食事の時間はすぐ不規則になってしまう。だからこそ時間に余裕がある場合には毎日似たような時に食事をしている。夕食なら周囲が暗くなった辺り。前倒しも後倒しも、客がいない限りはまず発生しない。たとえ家から出ない生活であってもこういう時間感覚は大事なものだし、食事はそれを支える貴重な機会である。
 誰に怒られるでもない(彼女に関しては今現在うるさい男がいるが)大人だからこそ、子どもよりも生活のリズムは気にしなければならない。乱れた後に戻すのは大変だから。
 一日三食、大事な習慣だ。
 立ち上がってまた台所に向かう彼女に、やはり迷わずついてくる男。
 部屋で待っているという選択肢を彼が選んだことはまだない。選択を提案することすら無駄なので、指摘もしないで好きにさせておく。
「さっきの子」
 珍しく彼の方から話し出した。
「ノーティ? ダメよ婚約者がいる子に手を出しちゃ」
「僕がこの先手を出すと決めてるのは貴方だけですのでご安心を」
「せっかく見た目だけは完璧に近いんだから、もう少し趣味が良くなった方がいいと思うわよ」
「そう言いながらもし僕が他の誰かを見たら複雑な気持ちになるんでしょうね」
「その日の夜はとっておきのお酒を出して祝杯をあげるわね」
「…………弱いくせに?」
「何か言った?」
「いいえ」
 廊下を歩く際に毎回のように下らない雑談が繰り返されるのは、お互い他にすることがないからなのだろう。客が来なかった日ですら話すことが尽きた試しがないのがちょっと不思議でもあるが、雑談というのはそういうものなのだろう。
 大きくない家、長くない廊下なのだが、沈黙で通り過ぎることはあまりない。
 よほどの何かが起こっていない限り。
「で、ノーティがどうしたの」
「自信がなかったんでしょう」
 その言葉に台所の扉を開く手が一瞬止まり、けれどそのまま押し開ける。
 とりあえず夕食を作って、一緒に明日の朝食も作っておかなければ。
 家にある食料には全く問題ないので、どっちも適当に作ってしまえばいいだけだ。定期的に支給されてくる食料は注文を出さない限り野菜も肉もいつも同じ内容だが、だからこそなのか料理する上で用途の広いものばかりなので今の所飽きることはなかった。季節によって入れ替わるものもあるので、すべて自分で考えていた頃より実は楽をしている。
 こういう商売があれば案外儲かるかもしれない。
 この家に送る内容を誰が考えているか知らないが。
 時々どうしても食べたいものがあった時、すぐ作ることができないのだけが難点だ。注文しても材料が来る頃には食べる気が無くなっている可能性があるので、あまり奇抜なものや面倒なものは考えないようにしている。
 食べずに廃棄、なんて勿体ないことはさすがにしたくない。
「さぁどうかしらね」
「よく言いましたね、賢者に後悔は似合わない、なんて」
 やっぱり長く過ごしすぎているせいか。
 これがまたからかったり馬鹿にしているように言われるならば別に返しようがあるものの、ひどく優しく言われるのだからたちが悪かった。彼には何も教えていないのに。
 それでも、そこで己をあっさり吐露するほどに可愛い性格はしていない。
「遠回しな言い方をする男は嫌われるわよ」
「……婚約なら何時でも僕がしますよ」
「私が欲しいのは『皆に自慢できる素敵な婚約者』だから」
 そこで土足で踏み込んでこずに自然に話の方向を変えるところは好ましいと同時に腹立たしい。もし入ってきたら最後、完全な拒絶をできたというのに。
 そういうことには妙に聡いこの男は今回も戯言によって最初から何もなかったことにしてしまうから、彼女の方も何もなかったように戯言を返すしかなくなってしまう。毎回そうやって彼は上手い具合に身を引いて、決して今以上に離れる愚を犯さない。
 本当に困ったものだ。
 この男の無駄すぎる察し能力は、会話を切るきっかけすら簡単に与えてくれないのだから。
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