夕食後には読書したい 3

文字数 3,276文字

 読書が終われば後は今日の記録をして寝るだけであるものの、その前に風呂に入ろうと思えば当然、湯を沸かす作業が必要になる。賢者たちが多く居住している専用施設などであれば風呂などの用意は施設に常駐している管理人たちが行ってくれるので不要だが、この家で暮らす限りは自分でやるしかない。
 面倒だからと風呂を省略しようとすれば、背後から苦情が来る。
 こちらだって別に不潔でいたいと思っているわけはないが、実のところ長湯が苦手で風呂となると小鳥の行水並みの時間しかかけないのに、毎日毎日一時間近くも風呂の湯を沸かす為に釜の前で待ち構える時間は無駄なのではないかと思ったりするだけなのだ。
 ちょっと浸かるだけの湯の為だけに、と思うとやるせなさもひとしおで。
 風呂の何がいけないって、あの湯の熱さと湯気の息苦しさだ。暑がりな人間からすれば、まず熱い風呂のある浴室に入ってから出るまでのその時間自体が結構な苦痛である。それさえなければ体を綺麗にする行為自体は嫌いではない。つまり用途が遂げられるなら、寒い季節でさえなければ湯でなく水浴びでも何ら支障はないのだが。
 それなのに。
 口うるさいどなたかが、何時だったか風呂というのは1日の体の疲れを湯によってほぐして取り除く効果があると気まぐれに教えて以降、こちらが余程疲れきってない限りは風呂を休ませてくれなくなった。
 全くもって余計な知恵というのは人を苦しめる好例ではないだろうか。
 古の物語で、知恵を得たが故に楽園を追い出されたというようなものがあったが、きっと追い出した方だってそれだけの理由があったに違いない。知恵を集める賢者が全員、それによって幸せになっている訳ではないことからも、この難しさはわかるというもの。
 知らぬ方が良い、とはよく言ったものだ。
 だが自分にとってそんな苦痛な空間である風呂は風呂で、良いこともある。
 この家の中であちこちとついて回る彼も、さすがに風呂とトイレにまではやってこないので、風呂はこの家で数少ない一人になれる場所だった。
 ……全く干渉されない、訳ではない。
「ちゃんと湯に浸かってます?」
「気になるなら見る?」
 わざと水音を立てながら聞いてみれば「見るわけないでしょうっ!」と即座に返事がある。
 浴室の外にある、着替えを行う洗面所のさらに向こうからの声だ。
 毎度こう返されるにも関わらず、懲りずに毎日同じことを聞いてくるのだから、本当にこの男は口うるさいというか世話焼きというか。時折もしかして子ども扱いされているだけなのではないだろうかとも思ってしまうのだけど、当の本人からの発言の端々で単なる子ども扱いは否定されている。
 別に裸体など減るものではないし、気になるなら見ればいいのにと思わなくもない。日頃我慢は良くないと思っている手前、周りにも過剰な我慢を強いる気はないのだけど。
 しかし未だ一度も風呂場で彼を見たことはない。
 もし入ってきたら思う存分お湯をかけてやろうと思っているのに残念なことだ。
 物語においては風呂での不自然な遭遇というのはよくあるらしいが、現実ではやっぱり難しいらしい。
「二十数えてから出てくださいよ」
「十で良くないかしら?」
 数を数えろというのはほぼ子どもへのそれだが、こうでも言わないと十も経たない内に湯から出てくることを知っているが故の要求。
 体の疲れを取ることと、長湯に直接の関連性があるのかは不明だが、長湯することで疲れては意味がないのではないだろうか?
 こちらからすれば湯に浸かっただけでもう十分だと主張したい。
 だが彼の方にも主張があるようで。
「本当は百って言いたいのをここまで譲歩してるんですから」
 冗談じゃない。百なんて数えていたら、その間にのぼせてしまう。
「貴方結婚しても同じこと言いそうね」
「その時には一緒に入って数え終わるまでずっと押さえてますから」
「あらやだエロいわ」
「何かするとは言ってないでしょう!?」
「裸で一緒に風呂に入って抱きしめてますってことでしょう? 不能じゃなきゃナニをするしかない状況じゃない? あぁそれとも子どもと同じだからそんな気なんて起きるわけないってことかしら納得」
「……わかりましたよその時には何かしますよ!」
「私そういうのはベッドでないと嫌なのよね」
「本当減らない口ですよね今すぐふさぎたい」
「あらやだいやらしいわ」
「っ! 何を想像したんですか!」
 そこでナニを説明するのは野暮というものでしょ。
 というのは建前で、実際に何をするのかはよく知らなかったりする。男女の営みに関しての知識としてはある程度持っているのだけれど、実体験を伴わない知識というのは非常に曖昧だ。そういうことを直接描写するような書籍があるのは知っているが、問題はさすがにこの家でそれを読む場所がないということだろう。
 しかもさすがに捕えている側も思いつかないのか、そういう本が勝手に送られてきたことだって一度もない。手紙で要求すれば持ってきて貰えるのだろうが、数年閉じ込めている女賢者がそんな本を要求してきたら相手がどう思うか……など想像したくもない。ここまで徹底した隔離の中、よもや下衆な行為に走ることは無いだろうが。
 こんなことならばそういう系統ももっと読んでおくべきだった。
 実体験する機会がないからと後回しにしていたツケが今頃になって出ているのがその分野である。案内に関わることがないのだけが救いだろうか。霊とそういう行為は不可能だから。
「貴方は何を想像したの?」
「何も想像してませんよっ!!」
 なんて、くだらない会話をしている間に二十などすぐに消化してしまうので、毎日この程度ならば無理なく湯に浸かることはできる。勿論そこには常にからかいの対象となる彼の尊い犠牲が存在しているが、その義務を要求している当人なのだからこれ位の協力はしてもらって構わないのではないだろうか。
 要求に対して十分な時間が過ぎたと判断して湯船から立ち上がる彼女に、向こうも同じくそれだけの時間が過ぎたと判断したのだろう、明らかに風呂から出た水音が響いても小言は飛んでこなかった。
 これ以上何か言われるのを回避しただけかもしれないが。
 毎日のようにこんな会話をしているのにも関わらず、このくだらない内容の話が尽きたことがないあたり、人の歴史において色っぽい逸話が遥か過去から数多に存在している理由が垣間見える。
 実際体験したいかは別にして。
 風呂から出て湯を捨てて浴室から出て、洗面所になっている小さな部屋のような場所で、適当に全身の水気を拭いた上で、布を体に巻きつける。今日の衣服を洗うのは数日後だ。この家では外に干すことは出来ないが、日当たりの良い部屋に干せば室内でもそれなりに乾く。
 そのまま歯磨きまで終わらせてしまう。
 風呂上がりの習慣は人それぞれだと思われるが、彼女の場合は歯磨きまで終えた後、風呂から寝るための着替えがある寝室まではその姿で移動することが多い。さすがに寒い時期になれば先にここまで着替えを持って入るが、それ以外においては寝室までの移動時間に全身の熱が一気に抜けるのが心地よいのでそうしている。
 その行為における被害者は特にいない。
「わああああっ! 出てくるなら声かけてくださいよ!!」
 廊下、風呂の扉の横でずっと立っていた青年以外は。
 布一枚で出てきた彼女を咄嗟に顔の前に両手を出して見ないようにしながら騒いでいる男が、これが毎日のことなのに、未だにこの出来事に対し心構えをしていた試しがないのは何故なのだろう。一見慌てた態度をとりつつも、実はちょっと目撃できる機会を逃す気がないのかもしれない。
 さすがにそれは穿ち過ぎか。
 単に心配性が過ぎるだけの可能性の方が高そうである。彼からすれば、カトレアが風呂から無事に出てくるまで気が抜けないから、毎回姿を確認するまでは忘れてしまっているのだろう。
 彼をそのままに、足軽に寝室へと向かった。ここで喋って長居した日には熱が逃げすぎて湯冷めしてしまうのは過去に実証済みだったのだ。
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