夕食はゆっくりがいい 3

文字数 3,084文字

 居間に戻れば窓の外はほとんど黒く染まっている。
 今日は月が出ていないのだろう。
 明るい室内から見る空は、星があるはずなのにほとんど黒一色にしか見えない。
 普通の家であればこのくらいの時間になれば窓のカーテンを引いて外から室内が見えなくするようにするのだろう。だがこの家においてはまず外から見る誰かが国からの監視以外に絶対にいない上、下手に何か隠すような動作をして疑われる方が後々面倒臭いことになる可能性もあって、この家は夜もカーテンは開いたままだ。明るい室内の様子は外から丸見えになるだろうが、別に見られて困るものもないし、困る姿をする予定もない。
 さすがにトイレや浴室の窓は曇りガラスなので問題はなかった。
 寝室は二階であることもあって角度によって外からでは見えない場所が発生するため、着替える分には問題ないし。
 朝や昼もそうだったが、夕食を食べるだけなら台所でも構わないのだ。それでも生活の張りという部分で台所で食事というのは味気ないし、特に己のような怠惰な者は一度やると習慣化しそうだとカトレアは思う。
 それはもう少し先、万が一にあるかもしれない老後に残す行為として、まだ余裕がある今のうちは出来るだけどの食事も居間でとるようにしていた。
 玄関から最も近い部屋だ。客が来る可能性はあるものの、これだけ外が暗くなった夕食時以降に彼らに訪問されたことは、実はまだない。
 霊が夜に活発になることや目撃が増えるという昔からの逸話は、案内の賢者の中では代々疑われているようなので、これは彼女に限った傾向ではなさそうだった。記録上、案内が長引いて夜になった話はあっても、このような時間に客が来たというのは殆ど見当たらない。
 食事中に会話をするような躾は受けたことがないので、夕食も毎日黙々と食べ終わる。
 食事においては最初と最後の挨拶をする間は、まず喋らない。
 恐らく今日の客はこれで終わりで、後は今日の案内の記録を残してから就寝時間まで好きに過ごして寝るだけ、という事になる。賢者には他にも多少仕事があるのだが、この家に来てからはそれすら無くなった。扱い上は虜囚である賢者が仕事をするのもおかしな話だろう。
 この家に来てからは毎日がそんな感じで、朝から夜まで客が全くいない日はその記録すらなく、最後にベッドに入って寝る。もしも案内の賢者でなくただの賢者だったなら、本当に毎日ただ本を読むだけの怠惰な日々になっていたに違いない。その点においては案内の賢者で良かったと思うが、反面そうでなければこれだけ長くここに居る理由もない訳で、この終わりの見えない退屈に飽きたら早々に家から飛び出し処刑を受けて死んでいたような気もする。
 生に執着はないものの、どちらが幸せなのかは微妙な所だろう。
 そしてここに来ていなかったという選択肢は、賢者である限り残念ながらなさそうだ。
「まぁ仕方ないわね」
「何がです?」
「過去に対してのもしかしたらなんてことは、考えても仕方ないってことよ」
 食器を片付けながらこぼしていた言葉を聞きつけ不思議そうな顔をした青年に、彼女は曖昧に笑う。ざっくりと重ねた皿がカチャカチャと不安そうに音を立てるのも気にせずに適当に持ち上げて、また台所へ。その後ろをやはり男はついてくる。
 彼が後ろをついてくるのはもう日常。
 それでも最初の頃はその姿に「鳥の雛か」と揶揄したものの、妙なところで神経の図太い彼は「似たようなものですよ」と涼しげに答えるだけで全く動じないから、今ではその行動を指摘することもない。どこかの格言にもあった、気にしたら負け、という事例だ。
「例えばどういうことです?」
「あなたの名前をウスラトンカチにしたらどうだったかな、とか」
 少しの沈黙が廊下に落ちる。
「どこから出たんですかねその単語」
「最近たまに思うのよね、このウスラトンカチって」
「意味がわからないのですが」
「そもそもハーミットという名前だって、あの頃の印象でつけたものであって、それが今の貴方と一致しているかというと、残念ながらしてない気がするのよね」
 今の彼を見て誰が隠者を想像するだろう。だがあの時は確かにそれがしっくりくる様子だったのだ。
 それをもって過去の彼が猫を被っていたというのは語弊があるだろう。おそらくこの男は素顔を誰かに見せるような生活をしてこなかったのではないだろうか、と今では思っている。どっちも本人で、前も後も何かを虚飾している訳ではないのだろう。
 どうありたいかは己で決めるべきもの。
 カトレアが関与すべきではない。
「僕は気にいっていますよ」
「さすがに賢者でも未来で発生する齟齬を完全に予測は出来ない訳で、一致しないのは仕方ないのだけど、でもあの頃にその名前にしていれば今頃しっくりきて、自分の先見の明に感動できたのかもな、って」
「まずあまり親しくない他人にそんな名前をつけられる方とは距離を置きたい気がします」
「まぁ! っていうことはウスラトンカチにしておけば今頃貴方は私と距離を置いてたのね! 本当に何故私ってばそうしなかったのかしら」
 大げさにため息をついた所で流しの前に到着していたから、食器をそこに置いて早々に洗ってしまう。
 後ろに居る男が「それでも僕は今と変わらなかったかもですがね」と言っているのは、水音に紛れて聞こえないふりをしておいた。過去のどこかに対してもしかしたら、なんてことは、本当に考えても仕方ないことなのだ。時々の遊び言葉に使う程度でいい。
 それらを全部回避して、あるいは見逃して、あるいは捨ててきたから今がある。
 その時に選ばなかったものは、過去を何度繰り返しても、未来を知らない限りは選ばない。
 未来を知ったまま過去に戻るなんて空想の物語だけの話だ。
 もしわがままを言わなければ。
 もし何も知ることがなければ。
 もし……見捨てていれば。
 全部、当時の彼女が出来なかったことだ。そしてきっと何度繰り返しても出来ないこと。
 その結果として今現在で、日々の客が持ち込んでくる行き先の謎など可愛く見える程の大きな謎と困難に、早何年も悩まされているのは、完全に自分の選択の結果でしかない。状況はどうあれ、すべて当時の自分の意思で選んできた結果の今だ。尻拭いも当然自分ですべきだろう。
 ノーティにはああ言ったが、賢者は完璧な人間ではない。
 そんなもの、人間の中には存在しない。
 仮にそれを主張する存在は、絶対にありえないものであると己を偽証し周囲を騙そうとしているのだから、いかに優れて見えようとも相当な悪人だろう。
 賢者だろうが後悔なんていくらでもするし、現に彼女は毎日心のどこかで過去の己を後悔しては否定する日々だ。そこを超人然として全てあるがままに受け入れ泰然としている訳ではない。もう少し年齢を重ねれば出来るようになる可能性はあるのだろうが、今は無理。
 普通の人と違うのは、賢者はそれをあまり表に出さないということだけ。
 理由は簡単。
 意味がないから。
 現在というのは常に過去の尻拭いで出来ている。
「でも」
 洗い終わった皿の水気を拭き取って、棚に戻す間に声が聞こえた。
 静かな柔らかい声に、振り返る勇気はない。
「僕を何と呼ぼうが、貴方は結局貴方ですから」
 カトレアにとっての、後悔と誇りと目的と暇つぶしが形になったようなその青年は、何も知らずにそんな事を言う。本当にそんな名前をつけるんじゃなかった。こういう時ばかり、彼は本当の隠者のように、何も知らない場所にいながら何かを悟ったような事を言うから。
 だから余計に、振り返れなかった。
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