第6話:引っ越しと日本とロシアでの政変

文字数 1,613文字

 そこで、今月の日曜、一緒に探しに行こうと誘った。その後、中区相生町の築12年2DK、43平米のマンションが、月13万円と、近くの世帯数の多い12階建てのマンション築8年で、1LDK40平米で、月12万円を見つけた。

 11月に不動産会社に話をして内覧してもらうと、2DK、43平米のマンションの方が作りが良さそうであった。そして、書斎として1室を使えるので、そちらを借りることにした。沢村も家賃の支払いは、松尾が8万円で沢村が4万円ずつ、家賃を負担することで話がついた。12月初旬に、運送業者に引っ越しの依頼をし、12月13日日曜日に引っ越した。

 そして1993年が、明けた。マンションに引っ越しした後は、暖かくなった4月には、横浜港、山下公園、中華街で食事したりして、2人で楽しい時間を過ごした。特に、沢村は、素晴らしい気分になっていた。一方、日本の政界では、長い間、自民党長期政権が続いていたが、6月18日、宮澤喜一内閣不信任案の採決の時、大きな事件が起きた。

 それは、あろう事か、この時、自民党の反主流派・羽田派が造反して賛成にまわったため可決し、衆議院が解散されたのである。羽田派とユートピア政治研究会が、自民党を離党して新生党と新党さきがけをそれぞれ結党して自民党は分裂。第40回衆議院議員総選挙「7月18日投開票」では、自民党は、2党の議員の分だけ議席を減らした。

 告示前よりは、増えたものの獲得議席数は、全体の4割余りに終わった。一方、自民党から飛び出した新生・さきがけは、議席を確保、同じく躍進した日本新党とともに『新党ブーム』と呼ばれた。自民党は日本新党、新党さきがけの両党と連立交渉に入ったが、非自民の政党が集まれば、自民一党の議席数を上回る状況であった。

 そのため、新生党代表幹事の小沢一郎が、中心となって非自民連立政権の樹立が、画策された。7月29日、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連・民改連の代表が会談し、連立政権樹立に合意。8月9日、日本新党の細川護煕代表が首相に指名され、自民党と共産党以外の8党派による細川内閣が成立した。

 これにより、自民党は、1955年の結党以来、維持して来た政権与党の座から下野した。この頃、ロシア、モスクワでは、10月政変と言われる政治抗争が起こった。1993年10月、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領を中心とする議会派勢力との間いで起きた政治抗争が勃発。

 エリツィン大統領との対立を深めていたハズブラートフ最高会議議長は1993年9月にテレビでエリツィンを挑発する発言をした。これに対して9月21日に訪日を控えたエリツィンは、人民代議員大会及び最高会議解散の大統領令を発布し、議会を中心とする反エリツィン陣営の排除に取りかかった。

 これを受けて、ハズブラートフは最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイ副大統領に大統領全権を付与、ルツコイは「大統領」への就任を宣言した。10月3日、ロシア最高会議ビルに立てこもった。翌10月4日、エリツィンは軍に議会派勢力が立てこもる最高会議ビル占拠を命じ、ハズブラートフ、ルツコイら代議員達は拘束された。

 政府の推計によると、死者187人、負傷者437人、ロシア連邦共産党に近い筋は、2000人以上が死亡したと見られた。問題の新憲法は、12月12日に国民投票で可決され、事件はエリツィンら大統領派の勝利のうちに終結した。この年も松尾と沢村に、中学時代のクラス会のお誘いの電話が入った。

 場所は、以前と同じ、中華街のS飯店で、10月17日の日曜、18時半に開催されると聞かされた。そこで、参加すると答えた。松尾と沢村は、同棲してることを知られないように、時間をずらして、会場に入った。この時の同窓会には、担任の榎本先生も来ていて、すっかり白髪になっていた。
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