第1話:漁師の息子がアメリカに渡る

文字数 1,669文字

 松尾達夫は、1953年7月3日、横浜市鶴見区生麦に生まれた。実家、古くからの漁師の家だっが、公害問題で漁師で、食べていけなくなった。そこで昔から持っていた土地にアパート、マンション、駐車場を経営して生活をしていた。両親が、クリスチャンで、日曜日には、毎週、教会へ行った。そこでアメリカ人と親しくなり中学の頃から英語は、得意になった。

 そして将来はきっとアメリカで大金を稼いでみたいと夢見た。育英会の奨学金をもらって慶応高校を受験して合格して慶応大学商学部に入り1976年に卒業。M物産に入社し、1977年からアメリカ、テキサス石油の仕事をし石油会社の社長の娘シンシアと親しくなった。1977年10月にシンシアと結婚して米国籍をとり義理の父に転職。

 1978年から、バンガードS&P500インデックス・ファンドを安い時、1998年1月から月千ドル分を購入。アメリカで、M物産を退社して、シンシアの父の経営する石油会社で、経理の仕事にありついた。1980年代から1990年代前半にかけて、日米間で最も懸案となっていたのが貿易摩擦「日米貿易摩擦」だった。

 米国の経常収支が赤字になると、日本が不公正な貿易障壁を築いているとの批判が、1984年にも再び強力になった。日本はアメリカの対日感情の悪化を緩和しつつ、自国産業も保護したいなか、円安の是正や輸入の拡大を約束した。日本の市場開放のための規制緩和を約束するが、大きな効果はなかった。

 1985年には先進国首脳会議の蔵相・中央銀行総裁会合で、為替をドル安に誘導するプラザ合意が実施され、ドル円の為替レートは大幅なドル安に転じたものの、これによっても米側の対日輸出は期待したように伸びなかった。自動車・半導体「ハイテク製品」に代表される日本製品の集中豪雨的な輸出に対し、双子の赤字に苦しむアメリカ側からは不満が噴出していた。

 アメリカでも「日本の経済構造の閉鎖性が莫大な貿易黒字を生んでいる」といった主張がなされ、「日本の内需拡大・市場開放」を求める圧力が年々強まっていた。1985年になると米国の景気も目に見えて改善していたが、日本の好景気はそれ以上のバブル経済で、米国では20年間にわたって莫大な対日赤字が続く上にGDP比の経常収支の赤字が過去最高を記録

 そして、シンシアの父が、シンシアに、君は、まだ若いから、日本人の松尾と別れない言った。これを聞いて、松尾が、そちらの理由で離婚する場合は、離婚時の財産分を渡さないとシンシアの父に話すと、金に困っているわけはないと叱られた。そして、ジャップに、そんなことを言われる筋合いはない、即刻、アメリカから出て行けと怒鳴られた。

 1985年になると米国の景気も目に見えて改善していたが、日本の好景気はそれ以上に目覚ましく「バブル経済」米国では20年間にわたって莫大な対日赤字が続く上にGDP比の経常収支の赤字が過去最高を記録。対日本勘定が、悪化の一途をたどった。この時期はハリウッド映画でも日本側が日本叩きと受け取る発言が、頻繁に行われた。

 これを重く見たシンシアの父が、松尾を呼んで、1985年2月、退職を勧告した。そして、離婚の書類にサインしろと言い、弁解も聞いてくれず、離婚させられた。慰謝料はいらないと、シンシアが言った。アメリカ西部、テキサスは、気の荒い連中が多いから袋たたきにされないうちに、日本に帰れと言われた。

 そのため、松尾は、失意のうちに1985年2月20日、テキサス、ヒューストンを後にして、日本に戻った。もちろん、日本に帰った後は、国籍を日本に戻し父の実家に帰った。アメリカでの反日感情の高まりを話すと理解してくれた。しかし就職口がなく、仕方なく自分で英会話室を横浜と品川でやるようになった。

 残金、20万ドルを円に換えると4300万円となった。英会話教室を始めても、最初のうちは、生徒が集まらず、仕方ないので、輸出の多い企業を訪問して、海外赴任者のための英会話のTOIECの必要性を説いて、徐々に生徒を増やしていった。
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