第10話:松本サリン事件詳細2

文字数 1,619文字

 さらに「下村化学」「長谷川ケミカル」「ベック」などの同様のダミー会社も見つかり、オウム真理教のサリン疑惑は深まっていった。その頃、建設中の第七サティアン・サリンプラントの事故により、周辺で異臭騒ぎが発生していた。長野県警は土壌を採取し、1994年11月、土壌からサリンの最終分解物メチルホスホン酸が検出された。

 1995年1月1日、読売新聞が一面で、異臭騒ぎの場所からサリン残留物が検出されたと報じ、怪文書レベルであったオウム真理教とサリンの関係が一気に注目される事になる。これに対しオウム真理教は、劇物の処分や薬品購入用のダミー会社の閉鎖など証拠隠滅を急ぎ、残留物は地元の肥料会社社長が、オウム真理教に対し「毒ガス攻撃を行った証拠である」と主張。

 肥料会社社長を告訴し、訴訟合戦となった上、さらに阪神淡路大震災が発生し、注目が、そちらに向かったこともあり、うやむやになった。「地震が、あったから、強制捜査が無かった」と考えた麻原らは、阪神淡路大震災に匹敵する事件を起こすため、地下鉄サリン事件を実行することとなる。

 当初、長野県警察は、サリン被害者でもある第一通報者の河野義行を重要参考人とし、6月28日に家宅捜索を行い薬品類など二十数点を押収。その後も連日にわたる取り調べを行った。この際、当時、松本簡易裁判所所属であった判事、松丸伸一郎が、捜索令状を発行しているが、本来過失罪で請求するところを、手違いにより殺人未遂罪として発行した。

 長野県警察は、河野宅から、それまでに押収した農薬からはサリン合成が不可能である事から、一部の農薬を家族が隠匿したとして執拗に捜査を続け、捜査方針の転換が遅れる事となった。長野県警は事件発生直後「不審なトラック」の目撃情報を黙殺した。また、事件発生直後、捜査員の一人の「裁判所官舎を狙ったものでは」との推測も、聞き入れられなかった。

 マスコミは、一部の専門家が「農薬からサリンを合成することなど不可能」と指摘していたにもかかわらず、オウム真理教が、真犯人であると判明するまでの半年以上もの間、警察発表を無批判に報じたり、河野が救急隊員に「除草剤をつくろうとして調合に失敗して煙を出した」と話したとする警察からのリークに基づく虚偽の情報を流した。

 それらにより、あたかも河野が真犯人であるかのように印象付ける報道を続けた。実際は、事件発生当日の1994年6月27日、河野が薬品を調合した事実はなかった。また、サリンが農薬であるとする誤解は現在に至っても根強く、農薬の危険性が必要以上に叫ばれる状況を作り出す事件にもなった。

 その後も、あたかも農薬を混ぜる事よって、いとも簡単にサリンを発生できるかのような発言が続いた。この発言は、農薬からサリンを生成できるという認識を植え付け、冤罪報道の拡大にも繋がった。この論調は、特に地元有力地方紙である信濃毎日新聞により伝えられた。

 化学兵器に関する戦史・科学史の専門家である常石敬一が、「毒ガスの専門家」としてNHKなどのメディアに出演し、「有機リン系の農薬などの薬品が何らかの原因で池に流れ込むなどして,水や水中の藻,微生物などと反応し,神経ガス様のものが発生した可能性がある」

「製造方法がわかっているのは原爆も同じだが,はるかに身近な材料で殺人兵器と同じものができてしまうことを見せつけたのが今回の事件だ。」などと発言した事も冤罪報道を助長した。
事件の真相が明らかになるまで、河野宅には全国から一般人による多くの誹謗中傷の手紙が送りつけられた。

 週刊新潮は、「毒ガス事件発生源の怪奇家系図」と題した記事で、河野家の家系図を掲載した。河野は「これが一番おかしい先祖は関係ない」と語っている。地下鉄サリン事件後も河野は週刊新潮のみ刑事告訴を検討したが、謝罪文掲載の約束により取り下げた。現在も河野は「週刊新潮だけは最後まで謝罪すらしなかった」と語っている。
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