第13話:金融機関の倒産と大銀行の合併

文字数 1,711文字

 木津信用組合は、最大時の預金高1兆円を超え、一般地方銀行、それ以上の規模だった。だが、そのほぼ全てを不動産関係の融資で運用した。そのため、バブル崩壊のあおりを受けて経営が悪化。金融機関という外見こそ持っていたが、その資金運用は、山師のに近い無謀な投機であった。

 また、三和銀行を始めとする都市銀行から紹介預金により、高金利の預金を受け入れていたが、大蔵省の指導により引き上げる事になり、その引き上げが、一層、高金利で大口預金者を集め、ハイリスクの融資を行う動機となり破綻の遠因となり、また同じ大阪の東洋信用金庫と共に尾上縫の詐欺事件に関与し、巨額の貸し倒れが発生した事も経営破綻の原因となった。

 木津信金にとどめを刺したのが、1995年8月28日のコスモ信用組合破綻処理策の発表で、その際大口預金者の公表と、彼らに対する利率の引下げが行われる事が明らかとなった。そのため、以前から経営に不安の持たれていた当信組からの預金流出が加速。破綻の直前に住専問題で後に問題となる末野興産が、386億円を引き出したことも明らかになった。

 1995年8月30日18時。神戸・ポートアイランドにある神戸商工会議所。報道陣は、第二地銀トップの兵庫銀行頭取、吉田正輝の言葉にかたずを飲んだ。「自主再建を目指したが、景気低迷や阪神大震災で資産内容が悪化し、負の遺産を穴埋めできなかった…」預金量2兆5千億円。戦後初の銀行破たんだった。

 同じ頃、大阪では信組トップの木津信用組合が破たん。窓口に預金を引き出そうと顧客が殺到、怒号が飛び交った。金融機関が恐れる預金の取り付け騒ぎ。悪夢が現実となった。大蔵省では蔵相の武村正義が会見し、「住専問題は残るが、個別金融機関の処理問題はヤマを越した」と平静を装った。が、言葉を信じるものはいなかった。

 大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件は、1995年に発覚した、アメリカ合衆国を舞台とする経済犯罪事件。1983年、アメリカ合衆国でマツダ自動車のディーラー営業等を経て大和銀行ニューヨーク支店の井口俊英は、変動金利債権の取引で5万ドルの損害を出す。損失が発覚して解雇されることを恐れ、損失を取り戻そうとアメリカ国債の簿外取引を行う様になる。

 井口は書類を偽造し損失を社内でも限られた人間しか知らないシステムコードで隠蔽していた。 表面的には利益を出しており、上司の信用も増していった。同支店の管理体制には、国債のトレーダーと支店の国債保有高や取引をチェックする人とが同一人物という不備が存在しており、支店長は「海外で箔を付けにやってくる『飾り物』」という状態であった。

 そのため、支店ナンバー2として実質的に支店業務を統括していた井口の不正は、12年も発覚せず、1995年には大和銀行の損失は、当初の2万倍以上に膨張。最終的に11億ドル、約1100億円に膨れ上がった。井口は、膨れ上がった膨大な負債を処理しようと、ますます大きなトレードを行うようになった。

 あまりにビッグプレーヤーになってしまった井口の取引は、市場参加者に井口の手を容易に読まれて、市場で捌ききれなくなり、完全に破綻してしまった。1995年7月、井口は遂に不正による巨額損失を、藤田彬ら大和銀行上層部に手紙を送り告白。突然の知らせに、銀行上層部はこの損失に関して日本の大蔵省へ報告した。

 しかし米連邦捜査局はその手紙を読んでおり井口に面会を求めアメリカでの捜査を開始。またアメリカ連邦準備制度理事会への報告が、大蔵省からの報告から6週間後と後手に回り、アメリカ合衆国連邦政府から『隠蔽』と判断された。大蔵省から事実発表を遅らせるよう指示があったといわれている。これらによりFRBが、かえって大和銀行に厳しい処分を下す結果となった。

 1996年2月28日、大和銀行は司法取引に応じ16の罪状を認め、当時の米刑法犯の罰金としては、史上最高額といわれる3億4千万ドル「約350億円」の罰金を払い、大和銀行はアメリカ合衆国から完全撤退という厳罰が下された。この結果、日本の金融グループの再編は待ったなしとなり、合併の嵐が、吹き荒れることになる。
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