第4話:米国で投資後、日本に帰国 

文字数 1,667文字

 1992年、4月、中学時代のクラス会のお知らせの電話が入った。松尾は、友人が、いなくて寂しいと思っていた矢先だったので、クラス会のお誘いは、大喜びした。横浜中華街のS飯店で、4月12日の日曜、18時半に開催されると電話連絡が入った。松尾は、18時過ぎに行くと、同級生の沢村康子と佐藤伸介、幹事の加藤信夫、熊持恵子が来ていた。

 松尾を見ると、久しぶりだねと言い、アメリカに渡ったと聞いたと言われ、1982年には、日本に帰って来ていたと話した。それを聞いて、沢村が、松尾君、アメリカの金持ち娘と結婚したと言う噂が、広まっていたけど、あれ、嘘だったのと聞いてきた。いや、いや本当の話だよと言い、慶応大学を出て、M物産に入り、テキサスで油田の仕事でしたと話した。

 翌年、地元の油田会社の社長令嬢と結婚して、アメリカで仕事をしていたのだが、日米貿易摩擦のため、日本人への風当たりが強くなって、会社の社長にも白い目で見られるようになり1982年、彼女の父の社長が、お前は首だと言い、退職させられたと伝えた。それは、ひどい目にあったわねと、同情してくれた。

 その後、日本も景気が良くないのと日本にいなかったので、日本企業で就職口が見つからず仕方なく、貸教室を借りて、東京と横浜で、英語の教師をして生活したと話した。でも、アメリカで、沢山、給料もらい、大金持ちじゃないのと笑った。しかし、生活費に、預金も減っていくからねと笑いながら言った。

 そんな話をしていると、18時半になり、総勢10人がそろった。今日は、会いに行く担当の金井先生が、体調不要で欠席だと感じの加藤信夫が説明した。そして、小宴会室に移動して、まず、乾杯をしてから、今日は、ゆっくり、つもる話をして、懇親を深めて下さいと言い、開会のあいさつとした。

 その席で、一番、注目されたのが、アメリカに渡った松尾だった。アメリカ、テキサスの石油の仕事は、大変かと言われた。その質問に対し、現場仕事は、素人の自分には、まわってこない。主な仕事は、仕事の進捗状況のチェックと、必要な備品の調達と購入の価格交渉など電話でする仕事ばかりであったと述べた。

 じゃー英語は、完璧ねと言われ、まーねと答えた。そのうち結婚した彼女の名前は、グラマーかとか食い物は、良かったかとか言う話が多かった。その他、沢村康子の旦那さんが、交通事故でなくなって独身になったが、子供がいなくて不幸中の幸いだったと言う話が出た。酒が入って酔っ払い、松尾も離婚され、沢村さんも独身なんだから付き合ったらと言われた。

 この質問には、2人とも触れられたくなさそうに話題を変えろよと話を避けた。そして2時間位して、男性達は、麻雀組が多く別れて行った。女性たちは、家の事があるから、お先に失礼しますと1次会で、ほとんど帰ってしまった。そこで、松尾が、素敵な音楽を飲みながら聞けるバーが、あるけど、行ってみないと沢村さんを誘った。

 そうね、私も急ぐ用事もないから付き合うわと言い、ウインドジャマーへ行き、ゆっくりとカクテルを少しずつ飲んで、ギター、ドラム、ボーカルを聞いて、楽しんだ。曲が、終わると、沢村さんが、松尾君、今後、どうするのと聞くと、この先、なる様にしかならないと、少しあきらめの境地になり始めてると告白した。

 せっかく慶応大学を出て、アルバイト生活なんて、もったいないわと言った。そこで、もう少しで40歳になるし、好きなように、楽しく生きるのも悪くなと思っていると打ち明けた。その話を聞いて、実は、私も亭主をなくして1年半、いつまでも、過去を振り返っていても始まらないと思い始めたのと笑顔になった。

 それなら、お互い束縛しない関係で、暇な時は、旅行に行ったり、食べに行ったり、飲みに行ったりしないと言うと、悪くなわねと沢村さんが語った。そこで、電話番号を教えあって、そうしようと意見が一致した。そうね、自由に、これからの人生を過ごすのって、素敵なことかもしれないわねと、両者の意見が一致した。その後、タクシーで彼女を送った。
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