第9話:松本サリン事件詳細1

文字数 1,581文字

 それを聞いて、解りました。そう言う子を探して、ご紹介しますと言ってくれた。その後、月に1回、山手にあるキリスト教系の孤児院を訪ねるようにした。11月に行くと、金沢さんが、年齢は、どの位の子が良いかと聞くので、基本的に卒業間近の17歳位の男の子で、しっかりした考えの持ち主が良いと答えた。

 特に夢を持って、きちんと生活のできる子供という条件を付けた。現在、この施設には、15歳以上の男の子はいないと言い、他のキリスト教系やその他の孤児院でもそう言う子供がいないか、連絡を取ってみますと言われた。

 12月は、忙しいので、来年、1994年、また、来ますと松尾が言った。それまでに、良い情報が入ったら、電話連絡させていただきますと金沢さんが語った。この年は、松本サリン事件が起こった。この事件は1994年6月27日、長野県松本市で発生したテロ事件で、オウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたものであった。

 事件の被害者は、死者8人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用されたのは世界初。同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も類が無い。また、無実の人間が半ば公然と犯人として扱われてしまった冤罪未遂事件でもある。

 6月27日から翌朝にかけて、長野県松本市北深志の住宅街で、化学兵器として使用される神経ガスのサリンの散布により7人が死亡、約600人が負傷した。刑事事件の裁判では、迅速化のため負傷者は144名とされた。事件から14年後の2008年8月5日、本事件による負傷の加療中であった河野義行の妻が死亡し、この事件による死者は8人となった。

 6月28日、長野県警察は第一通報者であった河野義行宅を被疑者不詳のまま家宅捜索を行ない、薬品類など数点を押収した。さらに河野には重要参考人として、その後、連日にわたる取り調べが行われた。また、被疑者不詳であるのに。河野を容疑者扱いするマスコミによる報道が、過熱の一途を辿る。

 その後、『松本サリン事件に関する一考察』という怪文書が、マスメディアや警察関係者を中心に出回っていく。この文書は冒頭で「サリン事件は、オウムである」と言及するなど、一連の犯行がオウム真理教の犯行であることを示唆したものであった。1995年5月17日には土谷正実が松本サリン事件前にサリンを製造し渡したと供述。

 この事件決行の状況は、6月27日、夕方、一行は端本が運転し村井が同乗したサリン噴霧車と、富田が運転する護衛部隊のワゴン車に分乗し出発。20時頃、塩尻市内のドライブインにて、新実と村井が相談の上、松本市にある裁判官官舎への攻撃に作戦を変更、電話で麻原の合意を得た。これは、Nシステムを避けるため高速道路を使わなかったこと。

 サリン12リットルの注入に手間取ったこともあって、到着時間が遅くなり、長野地方裁判所松本支部は、既に閉まっている時間となっていたためであった。22時頃、裁判所宿舎付近に到着すると、駐車場にてナンバープレートを偽装しつつ村井が噴霧地点を策定、噴霧を決行。22時50分頃、サリンが尽き発車。

 麻原は、松本サリン事件後に井上嘉浩に対して「俺も無差別(殺人)はつらいんだよ。でもアーナンダ「井上嘉浩」、ヴァジラヤーナ「オウム教団が殺人正当化の用いた教義」の救済のためには仕方がないんだよ」と語ったという。

事件解決の糸口は、長野県警が、サリン生成に必要なメチルホスホン酸ジメチルの流通ルートを探ったところ、唯一、個人購入している東京都世田谷区のT.Kという不審な男を発見した。住所に行ってみるとオウム関連の団体が入るビルであった。「ベル・エポック」という会社も同薬品を大量購入していたが、これはオウムのダミー会社であることが分かった。
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