第2話:松尾の英語講師とベルリンの壁崩壊

文字数 1,650文字

その他、イギリス、アメリカ留学に必要なTOEFLも勉強して教えるようになった。xしかし、月に10万円が、やっとで1人で、暮らすのがやっとであった。そのため1985年から日本株投資の勉強を開始し、D証券に証券口座を開いて2千万円を入金した。そこで、頭にひらめいたのはソニーの将来性であった。

 そうしている間に1987年が明けた。正月に、初詣に行き、これから幸運が来ますようにと祈願して、お布施を置いてきた。その後、1987年5月7日、証券会社の担当者からソニー株の気配値が、2790円で買いと言われ、5千株成り行き買い注文を出した。すぐ、1395万円で買え、残金が605万円となった。

 日本に帰って来ても日本の会社に就職してないもので、友人が、いなくて困った。彼女もできないので、英語を使ってアメリカ人をナンパしようと考えたが、30歳過ぎの中年のおじさんについて来るアメリカ女性は、ほとんどいない。それでもケントスと言う、アメリカンポップスの店に行き、ちょっとナンパして、美味しい思いをするのが、せいぜいだった。
 
 そうしているうちに1988年が過ぎ、1989年となった。この年、昭和天皇がご逝去して、新元号「平成」となった。6月には、リクルートの会長、江副浩正が、自社の政治的財界的地位を高める目的で、有力政治家、官僚、通信業界有力者にリクルート社の子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した。

7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。

 1989年10月11日、早朝、証券会社の担当者から電話が入りソニー株の気配値が9400円で、売りと言われ、全株、成り行き売りを指示した。すると、税引き後利益が4200万円
で口座残金が4800万円となった。

1989年11月10日、ベルリンの壁が崩壊した。22時30分頃、ボルンホルム通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけていた。イエーガーは、何をしたらいいのか確信が持てなかった。ここまでに検問所の中で。我々はどうすべきか討論を続けていた。状況は緊迫していた我々はにっちもさっちも行かなかった。流血沙汰を避けることばかりを考えていた。

 そしてもう他に選択肢はないと考えた。しかし何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。再び電話して「もう全員を通行させなければなりません」と言うと上官は「指示は分かっているだろうと言われた事だけをすれば良い」と言った。興奮状態下で市民の暴走や圧死による群集事故の発生を恐れたイエーガーは上官に検問所を維持できないと伝えた。

 彼はもう持ちこたえられない。検問所を解放しなければならない。牽制をやめ、こちらへの通行を許可する。そして「全てを開けろ」と命令。22時45分だった。ほぼ同時にゾンネンアレーとインヴァリーデン通りの検問所も開かれ始めた。こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放され、ベルリンの壁はここにおいて政治的意味で崩壊した。

 西ドイツの首都ボンでは、この夜、ドイツ連邦議会では、結社振興法に関する定例審議の最中であった。午後20時20分に議員に、このニュースが、伝わると審議は中断された。ザイター首相府長官は、急いで、ワルシャワを訪問中のコール首相に電話を入れた。20時46分に本会議が、再開された。

 そして首相府・社会民主党・キリスト教民主「社会」同盟・緑の党・自由民主党の各党が次々と演壇に立って発言し、特に最後の自由民主党のミシュニック議員団長は「今日という日は大きな希望の日であり、東ドイツの人々にとっては喜びの日である」と語った。そしてミシュニックの発言が終わるとキリスト教民主「社会」同盟の何人かの議員が突然立ち上がった
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