2-13 欲求
文字数 2,421文字
気配が無くなったことを察知して、夏波は大きく息を吐き出す。ただそれだけの動作で骨がきしんだ。全身至る所がじりじりと焼けているかのような痛みを持っている。
――どうしよう
目前の脅威は去ったとはいえ、何一つとして解決していない。
口の中に詰め込まれた布のせいで上手く舌が動かせず、息苦しかった。まともな大声を出す事は諦めたほうが良さそうだ。
匂いからしても、とても掃除が行き届いているとは思えない場所だった。遠くから車の喧騒が聞こえてくるので、街からそう離れてはいないのだろう。
――何でこんなことに
恨みを買った覚えがない、とまでは言わない。警察は逆恨みや理不尽な怒りのサンドバッグになりやすいので、ある程度は仕方ないと割り切っている。だが、殴って拉致られた上ボコボコにされる謂れは流石にない。
――最近散々だ
特に、特殊対策室に入ってからは。
何も救えないし、何も分からないし、何もできていない。
ミツキに協力を求めろという志賀の話だって上手く行っていない上、独断で“鯨”を追おうとして、こんな状態になってしまった。
――志賀さん、どうしてるかなぁ
状況にそぐわないのんびりとした思考。現実から逃避するように、夏波は呆然と息をしていた。
そういえば、日付は変わったんだろうか。随分長いこと眠っていたようだし、変わっているかもしれない。だとしても今日は日曜日で、独り身の自分が姿を消したと分かるのは早くても明日、月曜日なのだろう。
最悪志賀なら自分の無断欠勤にすら興味を示さず、発覚はもっと遅くなるのかもしれない。
――僕、死ぬのかな
気を失った振りがいつまでも持つとは思えない。
そして先程の男が言っていた“アオオニ”とは、警察の用語で『水死体』を指す単語だ。
水に沈められて殺されるのか、いや、このまま先程のように蹴られ殴られを続けられたら、それにさえ耐えられる気はしない。
――死にたくないなぁ
ぽつねんと、心の中にそんな灯火があった。
けれど、夏波にとってそれは当たり前で、疑問にすら思わない欲求だ。
死にたくない。生きていたい。痛い思いなんてしたくない。
――死にたい、なんて
思い浮かぶのは、夕焼けに照らされた伊霧芽郁の死の直前の顔。そして、志賀太陽の静かな肯定。
彼女が心の底から“死”を願っているのだろうと、あの瞬間で否が応でも分かってしまった。
――死にたいなんて、思って欲しくないよ
生きてほしい、と。そう願う。
それはきっと、「死にたい」と打ち明けられた人なら誰でも抱く、ささやかで、けれどとても強い願い。
それが相手にとって残酷だと分かっていても、苦しんでいる事を理解していても、どうしても願わずにはいられない不可思議な想い。
伊霧芽郁が死を選んだ事を、志賀はまるで許容しているように思えた。
夏波はそれがただ悲しいのだ。
――生きて欲しい
死ぬなんて、言わないでほしい。
だってまだ何も知らないから。ちゃんと知りたいから。
伊霧芽郁だってそうだった。
もっと話が聞いてみたかった。死にたいなんて、思ってほしくなかった。
それが例え自分本意な願いだとしても。
「それでも、良いと思うな」
ふと、夏波の耳に誰かの声が届いた気がした。
けれど、耳を澄ましても、自分から息が漏れる音が聞こえるばかりだった。幻聴か、ただの気のせいか。それにしてはやけにはっきりと聞こえた気がして、夏波は僅かに身を固める。
――でも、優しい声
少なくとも恐怖は感じない。まるで誰かを諭すような。知らない声のはずなのにどこか懐かしいような。
夏波は布の内側で少しだけ目を瞑り、ゆっくりと息を吐く。
ひとまず、できる事からやらなければならない。このまま大人しくしていたところで、待っているのは恐らく死だ。
夏波は縛られた手を軽く捻る。痛みはあるが、動かせない程ではなかった。そうして気づく。片手だけ手袋が取れているのだ。
そういえば、後ろから殴りかかられた時、丁度能力を使おうとしていた真っ最中だった。意識すれば、ひやりとした空気に右手が触れている気がする。夏波は身体を揺らして手当たり次第に物に触れた。
――どこか、なんでもいい。傷、みたいな
ふと、床の窪みに触れる。これが傷なのか、床の単なる模様なのかは分からない。ただ夏波はその窪みを擦りながら、「傷だ」と声の出せない口の中で繰り返した。何度も、何度も繰り返し、何となくこの形は本当に刃物で切りつけられた名残なのではないかと思い始めたその瞬間
――見えた
ぐるりと脳が揺さぶられるような感覚のあと、夏波の視界は一気に晴れる。
突然入ってくる白い光に驚いたが、瞬きもできない。
視界一面に光が降り注いでいた。工場の天井を見上げているのだと気がついたのは、夏波を踏みつけるように、しかし見えていないかのように平然と歩く作業服の人間が幾人か通り過ぎてからだ。
ガラガラと荷台を押して荷物を運んでいた。見える範囲の情報を探って、夏波は思考を巡らせる。
だが、不意に全身に鈍い衝撃が走ると共に、意識がひっくり返ってしまった。再び暗闇と痛みの中に連れ戻された夏波は、呻き声を上げて身体をくの字に折る。
「あれー?君、もしかして、寝てるふりしてました?」
先程の女性の声だ、とすぐに分かった。夏波には、彼らがこの場所から出ていって然程時間が経ったようには思えなかったが、もしかしたら記憶を垣間見た時に時間が経っていたのかもしれない。時間の感覚は、最早夏波の体のどこにも残されてはいないのだ。
「いいから、起きてるんならさっさと撮るよ」
夏波の背中に腰を下ろしたらしい女は、男のかけた言葉に「はーい」とけだるげな返事をする。
夏波は痛みに顔を歪めながら、荒い呼吸を何とかおさめようと息を吸った。
ピコン、とどこかで聞き覚えのある音。そうして、女性は夏波の背中に体重を預けたまま、洋々と話しを始めたのだ。
「こんにちは、美月幸平」
――どうしよう
目前の脅威は去ったとはいえ、何一つとして解決していない。
口の中に詰め込まれた布のせいで上手く舌が動かせず、息苦しかった。まともな大声を出す事は諦めたほうが良さそうだ。
匂いからしても、とても掃除が行き届いているとは思えない場所だった。遠くから車の喧騒が聞こえてくるので、街からそう離れてはいないのだろう。
――何でこんなことに
恨みを買った覚えがない、とまでは言わない。警察は逆恨みや理不尽な怒りのサンドバッグになりやすいので、ある程度は仕方ないと割り切っている。だが、殴って拉致られた上ボコボコにされる謂れは流石にない。
――最近散々だ
特に、特殊対策室に入ってからは。
何も救えないし、何も分からないし、何もできていない。
ミツキに協力を求めろという志賀の話だって上手く行っていない上、独断で“鯨”を追おうとして、こんな状態になってしまった。
――志賀さん、どうしてるかなぁ
状況にそぐわないのんびりとした思考。現実から逃避するように、夏波は呆然と息をしていた。
そういえば、日付は変わったんだろうか。随分長いこと眠っていたようだし、変わっているかもしれない。だとしても今日は日曜日で、独り身の自分が姿を消したと分かるのは早くても明日、月曜日なのだろう。
最悪志賀なら自分の無断欠勤にすら興味を示さず、発覚はもっと遅くなるのかもしれない。
――僕、死ぬのかな
気を失った振りがいつまでも持つとは思えない。
そして先程の男が言っていた“アオオニ”とは、警察の用語で『水死体』を指す単語だ。
水に沈められて殺されるのか、いや、このまま先程のように蹴られ殴られを続けられたら、それにさえ耐えられる気はしない。
――死にたくないなぁ
ぽつねんと、心の中にそんな灯火があった。
けれど、夏波にとってそれは当たり前で、疑問にすら思わない欲求だ。
死にたくない。生きていたい。痛い思いなんてしたくない。
――死にたい、なんて
思い浮かぶのは、夕焼けに照らされた伊霧芽郁の死の直前の顔。そして、志賀太陽の静かな肯定。
彼女が心の底から“死”を願っているのだろうと、あの瞬間で否が応でも分かってしまった。
――死にたいなんて、思って欲しくないよ
生きてほしい、と。そう願う。
それはきっと、「死にたい」と打ち明けられた人なら誰でも抱く、ささやかで、けれどとても強い願い。
それが相手にとって残酷だと分かっていても、苦しんでいる事を理解していても、どうしても願わずにはいられない不可思議な想い。
伊霧芽郁が死を選んだ事を、志賀はまるで許容しているように思えた。
夏波はそれがただ悲しいのだ。
――生きて欲しい
死ぬなんて、言わないでほしい。
だってまだ何も知らないから。ちゃんと知りたいから。
伊霧芽郁だってそうだった。
もっと話が聞いてみたかった。死にたいなんて、思ってほしくなかった。
それが例え自分本意な願いだとしても。
「それでも、良いと思うな」
ふと、夏波の耳に誰かの声が届いた気がした。
けれど、耳を澄ましても、自分から息が漏れる音が聞こえるばかりだった。幻聴か、ただの気のせいか。それにしてはやけにはっきりと聞こえた気がして、夏波は僅かに身を固める。
――でも、優しい声
少なくとも恐怖は感じない。まるで誰かを諭すような。知らない声のはずなのにどこか懐かしいような。
夏波は布の内側で少しだけ目を瞑り、ゆっくりと息を吐く。
ひとまず、できる事からやらなければならない。このまま大人しくしていたところで、待っているのは恐らく死だ。
夏波は縛られた手を軽く捻る。痛みはあるが、動かせない程ではなかった。そうして気づく。片手だけ手袋が取れているのだ。
そういえば、後ろから殴りかかられた時、丁度能力を使おうとしていた真っ最中だった。意識すれば、ひやりとした空気に右手が触れている気がする。夏波は身体を揺らして手当たり次第に物に触れた。
――どこか、なんでもいい。傷、みたいな
ふと、床の窪みに触れる。これが傷なのか、床の単なる模様なのかは分からない。ただ夏波はその窪みを擦りながら、「傷だ」と声の出せない口の中で繰り返した。何度も、何度も繰り返し、何となくこの形は本当に刃物で切りつけられた名残なのではないかと思い始めたその瞬間
――見えた
ぐるりと脳が揺さぶられるような感覚のあと、夏波の視界は一気に晴れる。
突然入ってくる白い光に驚いたが、瞬きもできない。
視界一面に光が降り注いでいた。工場の天井を見上げているのだと気がついたのは、夏波を踏みつけるように、しかし見えていないかのように平然と歩く作業服の人間が幾人か通り過ぎてからだ。
ガラガラと荷台を押して荷物を運んでいた。見える範囲の情報を探って、夏波は思考を巡らせる。
だが、不意に全身に鈍い衝撃が走ると共に、意識がひっくり返ってしまった。再び暗闇と痛みの中に連れ戻された夏波は、呻き声を上げて身体をくの字に折る。
「あれー?君、もしかして、寝てるふりしてました?」
先程の女性の声だ、とすぐに分かった。夏波には、彼らがこの場所から出ていって然程時間が経ったようには思えなかったが、もしかしたら記憶を垣間見た時に時間が経っていたのかもしれない。時間の感覚は、最早夏波の体のどこにも残されてはいないのだ。
「いいから、起きてるんならさっさと撮るよ」
夏波の背中に腰を下ろしたらしい女は、男のかけた言葉に「はーい」とけだるげな返事をする。
夏波は痛みに顔を歪めながら、荒い呼吸を何とかおさめようと息を吸った。
ピコン、とどこかで聞き覚えのある音。そうして、女性は夏波の背中に体重を預けたまま、洋々と話しを始めたのだ。
「こんにちは、美月幸平」