2-10 記憶を読む
文字数 6,840文字
「ここですね」
現場に辿り着くなり、2人は同時に足を止めた。
事故のあった交差点は、至って正常に機能していた。しかしよくよく観察すれば、道路の一部分が舗装し直されて新しくなっている。タイヤ痕を隠すためにしては些か大仰な気はしないでもないが、少なからずこれが事故の形跡と言えるだろう。
更に、道路脇では元々は花屋だったのだろう店舗が閉鎖され、店先が青いカバーで覆われていた。事故があったと知らなければ、単なる改装工事中のようにみえたかもしれない。
「記憶を見るためには、傷に触れなきゃいけないんですよね?」
「はい。ただ、傷だと認識できるものじゃないと駄目っぽいんです。一番簡単なのは、この店舗の中にある物に触ればいいんですけど……」
「流石に難しそう、かな」
ミツキは辺りを見渡す。
日中のこの時間帯では、こっそり入るにしても人目は避けられない。
「この際、見つかったら夏波さんが警察ですって言うとかどうです?」
「破茶滅茶に怒られますね……」
「じゃあ駄目だ」
ミツキは肩を竦めた。
万が一志賀に見つかった日には、何をしていたかまで悟られそうだ。そんな危険は犯せない。
「うーん……他に……」
交差点周りを歩き、夏波は「あ」と声を上げた。
信号機の柱部分、道路に接している面に、削り取られたような跡がある。
「傷ですね!」
嬉しそうにミツキは顔を綻ばせた。
夏波の胸中はなかなかに複雑だ。しかしここまで来た以上やらないわけにも行くまい。
「あの、……僕この能力使うと気を失っちゃう時があるので、その時は端に寄せてもらっても良いですか?」
「任せてください」
ミツキが頷くのを確認してから、夏波は手袋を片方だけ外す。
ふと志賀の不機嫌そうな顔が過ぎったが、見なかったふりをして手を伸ばした。
そして、触れる。
*
最初、木の上に登っているのかと思う程の高さに、夏波は慄いた。夜の街灯はまばらだったが、暗闇という程ではない。人通りがかなり少なく、対面の歩行者用信号機が赤い光を点滅させていたので、おそらく深夜なのだろう。
夏波は自分の身体が動かないと悟り、力の行使が成功したのだと自身を落ち着けた。
物体の一体どこに記憶がしたためられているのかは分からないが、それでもこれはきっと、信号機につのった記録なのだ。
「本当に、救われるんだな」
聞き覚えのない男性の声が、足元からした。失意の底に落ちた声音で、何度もえづくような呼吸を繰り返す。
泣いているのだ、と。そう思った。
〈はい〉
冷たい水が体内に差し込まれたかのような感覚。夏波の意識ははっきりと認識する。その音を。
――“鯨”
使っている音声は、前に聞いたものとはまた違う。幼い少女のような機械音声だった。
〈いかがしますか〉
男は力無く言った。
「……約束しよう。いや、元より私は……死を望んでいるけれど」
あまりにも悲痛な言葉に、夏波は耳を塞ぎたくなった。だが、今の夏波に自由に動かせる身体がない。ただじっとその叫びを受け止めることしかできないのだ。
「それが、償いとなるのなら」
嗚咽が流れていた。
鯨は淡々とした音を、ただその場に置きやるだけだ。
〈では、“死に方”をお教えします〉
あの時と同じ。
伊霧芽郁の記憶と殆ど同じ文言。一人称こそ違えど、恐らくは意図的に変えているだけだ。
その文言に対して、男の声で返答がある。
「あぁ……何だってやるさ。何だって……」
ふと、夏波の意識が遠のき始める。元の意識に戻ろうとしているのだと直感が訴えていた。
――まだ、もう少しだけ
遠のく意識を必死に繋ぎ止めようと足掻く。どう力を入れているのかなんて分からない。ただ何度も、「まだ」と「だめだ」と繰り返すのだ。
〈10月11日、午後2時10分。1秒も遅れることなく、ここに来てください〉
「それだけでいいのか?」
〈はい。ただし1秒でも遅れたら〉
何の感情も持たない声は告げる。
〈貴方は死ねませんので〉
*
読み取った記憶の一部始終をミツキに話し終え、夏波は最後にポツリと呟いた。
「今回の事故は、“鯨”が引き起こしたものなんじゃないかと……思います」
湯気の立つコーヒーカップが2つ、お互いの間に挟まった大きなテーブルの上に置かれている。
「“鯨”って、それ前も訊かれましたけど、動画投稿者の名前ですよね?……どうしてそう思うんです?」
テーブルの上で両手を組み、ミツキは不思議そうに首を傾げた。
定禅寺通の程近くにある小さなカフェ内。緩やかな小春日和の日差しが差し込む、静かな空間だった。
夏波はじっと自分の手のひらを見つめ、口を開く。
「僕も“神隠し”の事故について詳しく知ってる訳じゃありません。でも、あの日時は」
10月11日、午後2時10分。
それは、当の“神隠し”が起きた日時だと夏波は知っていた。
読み取った記憶の内容からして、事故よりも前の出来事であり、指示を出していたのがあの機械音声ともあれば、ほとんど間違いはない。
そしてあの機械音声は、伊霧芽郁に指示を出していたものと同じ。
つまりは、“鯨”は事件事故が起きる事を事前に認知した上で動画を撮影し、ネット上に流している、という事になる。
手袋のはまった手を、夏波はテーブルの上で握りしめた。
“鯨”とは、何者なのか。何が目的なのか。一体何故そんな事を。
ぐるぐると巡る思考。
ミツキは、そんな押し黙った夏波をじっと見つめていた。やがてニコリと笑むなり、夏波の拳に自分の手を重ねる。
驚いた夏波はミツキを凝視した。
「ミ、ミツキさん……?」
重ねられた手。
心臓が鳴る。顔を顰めそうになるのを、夏波は何とか抑えた。振り払う訳にもいかず、「やめてほしい」と言う事もできず、夏波は耐える。
――触られるの、……嫌だ
ミツキはそんな夏波の内心には気づかずに、穏やかな微笑みを浮かべた。
「前に、ボクに訊いてきましたよね。“鯨”について何か知らないかって」
「え……?は、はい……」
「実はあの時嘘をついてました。実際は少し前から、ボクも“鯨”について調べていたんです。知り合いの動画投稿者とか、芸能関係をあたってね」
手から意識と視線をそらし、夏波は顔を伏せる。僅かな抵抗として少し手を引っ込めようと試みたが、思ったよりがっしり掴まれているので逃げることはできなかった。
ミツキがどんな表情をしているか分からないまま、彼の言葉が耳に入る。
「もしかしたら“鯨”って、かな――」
「夏波?」
突如かけられた声。大慌てて夏波は手を引っ込めて、膝の上に避難させる。
そして、取り繕うように、自らの名前を呼んだ声の主を探した。すぐに目があったのは、真っ直ぐこちらを見つめている青年だ。
「三科!?」
店の入口に驚きの表情を湛えて立っていたのは、三科祭だ。
ネイビーのフード付きジャケットを羽織った私服姿の彼は、見慣れた人懐っこい笑顔を向けて夏波の元へ近づいてくる。
「お前こういう店来るんだ!?似合わな!」
「なっ……開口一番酷すぎない!?」
夏波のツッコミを受けて、三科は楽しそうにけらけらと笑う。
失礼千万な物言いに軽く腰を浮かせた夏波だったが、馴染みのある感覚に思わず顔が綻んだ。
「や、だって、夏波そもそも休みの日に外出ねェじゃん。びっくりしたわ、マジで」
「それは間違ってないけど……でもそれ言うなら三科もだよ? 何でここに?」
「何でって、大人の男はこういう店にコーヒー嗜みに来るモンだろうが」
「コーヒーは苦いから飲めないって言ってたくせに、何が大人の男だ」
「ぐ、ぐぅ……」
「ぐぅの音出ちゃってるよ」
キャッチボールのような会話だった。少なくとも夏波にとっては。
久しぶり、と言う程、長らく顔を合わせていないわけではない。しかし毎日顔を合わせていたはずの彼の存在は、夏波には酷く懐かしく感じる。
三科はふと楽しげな笑顔を引っ込め、罰が悪そうに眉尻を下げた。
「悪ィ、彼氏とデート中?」
三科の視線の先には、ミツキの姿がある。彼は三科を振り返らず、窓の外に顔を背けていた。今のミツキはマスクをつけていないので、顔を見られることを避けているのだろうと夏波は合点がいった。
「ち、違うよ、彼氏じゃない。普通に遊びに来ただけ」
「そっか、でも邪魔しちまったな」
苦く笑いながら、三科は「あ」と何かを思いついたように声を上げる。
「ここのオススメは、チーズケーキな」
「え、でもメニューにはいちごタルトがイチオシって書いてあったよ」
「俺的オススメ。ま、もう注文しちまったんなら、今度来たとき頼んでみろって」
夏波の頭をボンボンと無造作に軽くたたき、三科はひらりと手を振って奥の席へと姿を消した。
嵐、というよりも突風に近い彼の後ろ姿を見送って、夏波は正面に座るミツキに再び意識を戻した。
彼は相変わらず窓の外に広がるケヤキ並木を眺めるばかりだ。テーブルに肘をついて憂うような表情の彼は、相当画になる光景である。
「えっと……すみません、彼、僕の同僚で」
思わぬ所で身内ノリを繰り広げてしまった気恥ずかしさ、それと少しの罪悪感から、しどろもどろになりかける夏波。
ミツキは「大丈夫ですよ」と顔を前に戻しながら、しかし目は笑っていなかった。
「……仲、良いんですか?」
「はい。警察に入ってからの腐れ縁で、すごく良い奴なんです」
好きな人の話はしたくなってしまうのが夏波の性分で、つい口を継いで言葉が出る。
「面白いし、色んなこと知ってるし、努力家で……、あ、そういえばアイツ、ミツキさんの」
「夏波さん」
ミツキが静かに言葉を挟んだ。びくりと反応してカナミは口を閉ざす。
機嫌を損ねたのだ、と言うことは分かった。
「ボク、他にも仙台のお店調べてきたんです。これを飲み終わったら、行ってみたいんですけど」
「え、でも事故の……」
「事故のお話は別のお店に行ってからにしませんか?」
あからさまに刺がある。
やはりミツキを蔑ろにしてしまった事が気に障ったのだと、夏波の心は沈み込んだ。その上、ミツキにとっては知らない人間の話まで出そうとしてしまった。夏波としては、ミツキが三科に興味を持ってくれたら、という期待の下で話をしたのもあるのだが、相手を不快にさせてしまっては元も子もない。
ミツキがぐいとカップの中身を飲み干す様子を見て、夏波もコーヒーカップを持ち上げる。器はまだ温かみを残していたが、湯気はすっかり落ち着いていた。
――ごめんなさい
謝罪を口に出さなかったのは、正直何が悪かったのか自分でも確信が持てなかったからだ。
しかし、自分の発言や行動は確実にミツキの気に触ってしまった。それでもなお自分と一緒にいてくれるのは、きっと彼が優しい良い人だからなのだ。
そう結論づけて、夏波はコーヒーを口に含む。味はいまいちよく分からなかった。
*
結局その日、“神隠し”と“鯨”に関係ありそうな記憶を読み取る事はついぞ叶わなかった。
事故の目撃者にも当たっては見たが、その事故で怪我をした人間に運良く当たる、なんて事もない。人から記憶を読み取るのであれば、病院で話を訊くか、それか
――志賀さんもこの事故を調べてるはず
断片的に聞く所によれば、志賀は“神隠し”の事故についてを調べていたはずだ。一度ミツキに会う前に問いかけた事もあるが、志賀は「お前には関係ない」とすげなく返すばかりで、相手にして貰えなかった。
「今日はありがとうございました」
思案に耽りながら歩いていた夏波は、そんなミツキの声にはたと顔をあげる。にこやかに、そして楽しそうに隣を歩いていた彼は、夏波と目が合うなりまた笑った。
夏波も曖昧に愛想笑いを返す。
「こちらこそ、ありがとうございました。でもすみません、あまりわかった事も無くて……」
「いえ、ボクなんか夏波さんにくっついて回ってるだけですから」
ミツキは「あはは」と恥ずかしそうに首元をさすった。
「夏波さんと仙台の街を回れて、……なんというか、楽しかったです」
夏波はなんとか表情を取り繕う。
「それは……良かったです」
「本当なら泊まりたかったんですけど、明日は明日で収録があるから……。あの、来週もよろしくおねがいしますね」
ニコリ。ミツキは笑んだ。夏波は沈んだ心を奮い立たせ、鏡写しになるようにして笑ってみせる。
『来週の休暇の日にもまた』と取り付けられたミツキとの約束を、夏波はどうしても断ることができなかった。
三科と遭遇した後、店を出たらすぐにミツキの機嫌は治ったが、夏波の心は硬直しっぱなしだ。どうしても嫌われないよう立ち回る事を止められない。それは夏波にとって負担であり、心が擦り減る時間に他ならないのだ。
「お見送りありがとうございました」
「はい、どうかお気をつけて」
「夏波さんも!また連絡しますから!」
仙台駅の改札前を挟んで手を振った。
ミツキは何度か名残惜しそうに振り返り、やがて新幹線のホームへと消えていく。
彼の姿を見送って、帰路に着こうと足を踏み出したその瞬間、緊張の糸がふっと途切れた。
――疲れた
そんな感想を抱くなり、こんなことを思ってはいけないのにと、罪悪感が湧き上がる。
自分の性格の悪さにうんざりした。
絶対に相手の機嫌を損ねない、なんて土台無理な話だ。しかしそれでも、夏波は自分に好意を向けてくれる人に不快感を与えてしまう事が、どうしても怖い。他者に対して怒りの感情を表現できないのも、根本には『嫌われたくないから』という理由が寝そべっている。
――三科にすら、だしなぁ
それは、長時間一緒に勤務をしなければならなかった相勤者にすら抱いていた恐怖だ。もちろん一緒にいて疲れると言う事は無くなったが、それでもそうなるまでにはかなり時間がかかった。
――あれ?
ふと、そこで思い浮かべたのは現在の上司の顔。
つい先日出会い、そしてほぼ毎日行動を共にする事になった彼は、常に不機嫌そうな仏頂面だ。感情の表現も乏しく、言葉も鋭い。けれど、夏波は志賀太陽という人間を負担に思った事がない。
何なら『嫌われているのかも』とすら思う程の態度を取られているのに、夏波は今まで志賀との関係性で思い悩んだ記憶がないのだ。
――なんでだろ
先日村山に話した時も、結局悩んでいたのは仕事のやり方程度のもので、志賀についてではない。
不思議だった。
いつもの夏波であれば、上司の顔色を窺って優等生を演じる。そう、あくまで演じるだけだ。実際に優等生なんかではない事を、誰よりも自分自身が知っている。その方が上手く世の中を渡ることができると夏波は知っていたから、そうしているだけだ。
しかし、志賀の前ではそもそも『そうしなければ』と思う事すらない。
駅から出て、夏波はしばらく自分の心を探りつつ歩いた。
やがて、一本の紐を掴みとって引くかのように、するりと言葉が転がり落ちる。
『多分あの人は、ちゃんと言葉にしてくれる人だから』
それはまるで旧知の仲のようで、長い時間をかけて仲良くなった三科に対する感情に近い。
何故こんな感覚を彼に抱くのかは分からなかった。
そういえば、前にも一度あったような気がする。いつだったかは覚えていない。それが好意的であり、どこか懐かしさを伴う感情だったことだけが確かだ。
――そこで、夏波は自分の思考にゆっくりと蓋を被せた。
別段忌避すべき事柄ではないのだから、これ以上考える必要なんてない。そう自分自身に言い聞かせる。上司と仲良くやれそうなら、それで良い。
胸のざわつきを諌めながら、夏波は足早に歩き続けた。交差点を越えて、ケヤキ並木を抜け、ビル群の隙間を縫って、奥へと。すっかり藍色に染まった夜空を、街灯の灯りが薄白く曇らせていた。
やがて辿り着いたのは、伊霧芽郁が飛び降りたあの現場だ。大通りから一本逸れた、住宅とビルが混在した通り。人通りは少なく、時折車が走り抜けるだけのこの道に、夏波は立った。
ビルの足元には幾らかの供花が供えられている。以前夏波が供えた百合の花もまた、静かに横たわっていた。
本当ならば、“鯨”と聞いた瞬間からこの廃ビルに足を運びたくて仕方がなかったのだ。
だが、伊霧芽郁の事件を知らないミツキを連れてくることは憚られた。逃げた、ともいう。ミツキに伊霧芽郁の話を上手く伝えられる気がしなかったからだ。
夏波はキープアウトのテープが貼られたビルへと歩み寄る。元はホテルだったのだろうが、今となっては見る影もない。朽ちかけた壁。傷だらけで放置された内部の様子。
夏波は手袋を外し、そしてえぐり取られるように無くなっていた扉の鍵部分に手を伸ばした。
死にゆく彼女が、何を思っていたのかを知る為に。
指が触れるその瞬間、夏波の後頭部に重い衝撃が走った。
意識が揺らぐ。思考が暗闇に落ちていく。視界の端に捉えたのは、固いアスファルトの地面と、そして同じ目線に立ち尽くす白百合の花ばかりだった。
現場に辿り着くなり、2人は同時に足を止めた。
事故のあった交差点は、至って正常に機能していた。しかしよくよく観察すれば、道路の一部分が舗装し直されて新しくなっている。タイヤ痕を隠すためにしては些か大仰な気はしないでもないが、少なからずこれが事故の形跡と言えるだろう。
更に、道路脇では元々は花屋だったのだろう店舗が閉鎖され、店先が青いカバーで覆われていた。事故があったと知らなければ、単なる改装工事中のようにみえたかもしれない。
「記憶を見るためには、傷に触れなきゃいけないんですよね?」
「はい。ただ、傷だと認識できるものじゃないと駄目っぽいんです。一番簡単なのは、この店舗の中にある物に触ればいいんですけど……」
「流石に難しそう、かな」
ミツキは辺りを見渡す。
日中のこの時間帯では、こっそり入るにしても人目は避けられない。
「この際、見つかったら夏波さんが警察ですって言うとかどうです?」
「破茶滅茶に怒られますね……」
「じゃあ駄目だ」
ミツキは肩を竦めた。
万が一志賀に見つかった日には、何をしていたかまで悟られそうだ。そんな危険は犯せない。
「うーん……他に……」
交差点周りを歩き、夏波は「あ」と声を上げた。
信号機の柱部分、道路に接している面に、削り取られたような跡がある。
「傷ですね!」
嬉しそうにミツキは顔を綻ばせた。
夏波の胸中はなかなかに複雑だ。しかしここまで来た以上やらないわけにも行くまい。
「あの、……僕この能力使うと気を失っちゃう時があるので、その時は端に寄せてもらっても良いですか?」
「任せてください」
ミツキが頷くのを確認してから、夏波は手袋を片方だけ外す。
ふと志賀の不機嫌そうな顔が過ぎったが、見なかったふりをして手を伸ばした。
そして、触れる。
*
最初、木の上に登っているのかと思う程の高さに、夏波は慄いた。夜の街灯はまばらだったが、暗闇という程ではない。人通りがかなり少なく、対面の歩行者用信号機が赤い光を点滅させていたので、おそらく深夜なのだろう。
夏波は自分の身体が動かないと悟り、力の行使が成功したのだと自身を落ち着けた。
物体の一体どこに記憶がしたためられているのかは分からないが、それでもこれはきっと、信号機につのった記録なのだ。
「本当に、救われるんだな」
聞き覚えのない男性の声が、足元からした。失意の底に落ちた声音で、何度もえづくような呼吸を繰り返す。
泣いているのだ、と。そう思った。
〈はい〉
冷たい水が体内に差し込まれたかのような感覚。夏波の意識ははっきりと認識する。その音を。
――“鯨”
使っている音声は、前に聞いたものとはまた違う。幼い少女のような機械音声だった。
〈いかがしますか〉
男は力無く言った。
「……約束しよう。いや、元より私は……死を望んでいるけれど」
あまりにも悲痛な言葉に、夏波は耳を塞ぎたくなった。だが、今の夏波に自由に動かせる身体がない。ただじっとその叫びを受け止めることしかできないのだ。
「それが、償いとなるのなら」
嗚咽が流れていた。
鯨は淡々とした音を、ただその場に置きやるだけだ。
〈では、“死に方”をお教えします〉
あの時と同じ。
伊霧芽郁の記憶と殆ど同じ文言。一人称こそ違えど、恐らくは意図的に変えているだけだ。
その文言に対して、男の声で返答がある。
「あぁ……何だってやるさ。何だって……」
ふと、夏波の意識が遠のき始める。元の意識に戻ろうとしているのだと直感が訴えていた。
――まだ、もう少しだけ
遠のく意識を必死に繋ぎ止めようと足掻く。どう力を入れているのかなんて分からない。ただ何度も、「まだ」と「だめだ」と繰り返すのだ。
〈10月11日、午後2時10分。1秒も遅れることなく、ここに来てください〉
「それだけでいいのか?」
〈はい。ただし1秒でも遅れたら〉
何の感情も持たない声は告げる。
〈貴方は死ねませんので〉
*
読み取った記憶の一部始終をミツキに話し終え、夏波は最後にポツリと呟いた。
「今回の事故は、“鯨”が引き起こしたものなんじゃないかと……思います」
湯気の立つコーヒーカップが2つ、お互いの間に挟まった大きなテーブルの上に置かれている。
「“鯨”って、それ前も訊かれましたけど、動画投稿者の名前ですよね?……どうしてそう思うんです?」
テーブルの上で両手を組み、ミツキは不思議そうに首を傾げた。
定禅寺通の程近くにある小さなカフェ内。緩やかな小春日和の日差しが差し込む、静かな空間だった。
夏波はじっと自分の手のひらを見つめ、口を開く。
「僕も“神隠し”の事故について詳しく知ってる訳じゃありません。でも、あの日時は」
10月11日、午後2時10分。
それは、当の“神隠し”が起きた日時だと夏波は知っていた。
読み取った記憶の内容からして、事故よりも前の出来事であり、指示を出していたのがあの機械音声ともあれば、ほとんど間違いはない。
そしてあの機械音声は、伊霧芽郁に指示を出していたものと同じ。
つまりは、“鯨”は事件事故が起きる事を事前に認知した上で動画を撮影し、ネット上に流している、という事になる。
手袋のはまった手を、夏波はテーブルの上で握りしめた。
“鯨”とは、何者なのか。何が目的なのか。一体何故そんな事を。
ぐるぐると巡る思考。
ミツキは、そんな押し黙った夏波をじっと見つめていた。やがてニコリと笑むなり、夏波の拳に自分の手を重ねる。
驚いた夏波はミツキを凝視した。
「ミ、ミツキさん……?」
重ねられた手。
心臓が鳴る。顔を顰めそうになるのを、夏波は何とか抑えた。振り払う訳にもいかず、「やめてほしい」と言う事もできず、夏波は耐える。
――触られるの、……嫌だ
ミツキはそんな夏波の内心には気づかずに、穏やかな微笑みを浮かべた。
「前に、ボクに訊いてきましたよね。“鯨”について何か知らないかって」
「え……?は、はい……」
「実はあの時嘘をついてました。実際は少し前から、ボクも“鯨”について調べていたんです。知り合いの動画投稿者とか、芸能関係をあたってね」
手から意識と視線をそらし、夏波は顔を伏せる。僅かな抵抗として少し手を引っ込めようと試みたが、思ったよりがっしり掴まれているので逃げることはできなかった。
ミツキがどんな表情をしているか分からないまま、彼の言葉が耳に入る。
「もしかしたら“鯨”って、かな――」
「夏波?」
突如かけられた声。大慌てて夏波は手を引っ込めて、膝の上に避難させる。
そして、取り繕うように、自らの名前を呼んだ声の主を探した。すぐに目があったのは、真っ直ぐこちらを見つめている青年だ。
「三科!?」
店の入口に驚きの表情を湛えて立っていたのは、三科祭だ。
ネイビーのフード付きジャケットを羽織った私服姿の彼は、見慣れた人懐っこい笑顔を向けて夏波の元へ近づいてくる。
「お前こういう店来るんだ!?似合わな!」
「なっ……開口一番酷すぎない!?」
夏波のツッコミを受けて、三科は楽しそうにけらけらと笑う。
失礼千万な物言いに軽く腰を浮かせた夏波だったが、馴染みのある感覚に思わず顔が綻んだ。
「や、だって、夏波そもそも休みの日に外出ねェじゃん。びっくりしたわ、マジで」
「それは間違ってないけど……でもそれ言うなら三科もだよ? 何でここに?」
「何でって、大人の男はこういう店にコーヒー嗜みに来るモンだろうが」
「コーヒーは苦いから飲めないって言ってたくせに、何が大人の男だ」
「ぐ、ぐぅ……」
「ぐぅの音出ちゃってるよ」
キャッチボールのような会話だった。少なくとも夏波にとっては。
久しぶり、と言う程、長らく顔を合わせていないわけではない。しかし毎日顔を合わせていたはずの彼の存在は、夏波には酷く懐かしく感じる。
三科はふと楽しげな笑顔を引っ込め、罰が悪そうに眉尻を下げた。
「悪ィ、彼氏とデート中?」
三科の視線の先には、ミツキの姿がある。彼は三科を振り返らず、窓の外に顔を背けていた。今のミツキはマスクをつけていないので、顔を見られることを避けているのだろうと夏波は合点がいった。
「ち、違うよ、彼氏じゃない。普通に遊びに来ただけ」
「そっか、でも邪魔しちまったな」
苦く笑いながら、三科は「あ」と何かを思いついたように声を上げる。
「ここのオススメは、チーズケーキな」
「え、でもメニューにはいちごタルトがイチオシって書いてあったよ」
「俺的オススメ。ま、もう注文しちまったんなら、今度来たとき頼んでみろって」
夏波の頭をボンボンと無造作に軽くたたき、三科はひらりと手を振って奥の席へと姿を消した。
嵐、というよりも突風に近い彼の後ろ姿を見送って、夏波は正面に座るミツキに再び意識を戻した。
彼は相変わらず窓の外に広がるケヤキ並木を眺めるばかりだ。テーブルに肘をついて憂うような表情の彼は、相当画になる光景である。
「えっと……すみません、彼、僕の同僚で」
思わぬ所で身内ノリを繰り広げてしまった気恥ずかしさ、それと少しの罪悪感から、しどろもどろになりかける夏波。
ミツキは「大丈夫ですよ」と顔を前に戻しながら、しかし目は笑っていなかった。
「……仲、良いんですか?」
「はい。警察に入ってからの腐れ縁で、すごく良い奴なんです」
好きな人の話はしたくなってしまうのが夏波の性分で、つい口を継いで言葉が出る。
「面白いし、色んなこと知ってるし、努力家で……、あ、そういえばアイツ、ミツキさんの」
「夏波さん」
ミツキが静かに言葉を挟んだ。びくりと反応してカナミは口を閉ざす。
機嫌を損ねたのだ、と言うことは分かった。
「ボク、他にも仙台のお店調べてきたんです。これを飲み終わったら、行ってみたいんですけど」
「え、でも事故の……」
「事故のお話は別のお店に行ってからにしませんか?」
あからさまに刺がある。
やはりミツキを蔑ろにしてしまった事が気に障ったのだと、夏波の心は沈み込んだ。その上、ミツキにとっては知らない人間の話まで出そうとしてしまった。夏波としては、ミツキが三科に興味を持ってくれたら、という期待の下で話をしたのもあるのだが、相手を不快にさせてしまっては元も子もない。
ミツキがぐいとカップの中身を飲み干す様子を見て、夏波もコーヒーカップを持ち上げる。器はまだ温かみを残していたが、湯気はすっかり落ち着いていた。
――ごめんなさい
謝罪を口に出さなかったのは、正直何が悪かったのか自分でも確信が持てなかったからだ。
しかし、自分の発言や行動は確実にミツキの気に触ってしまった。それでもなお自分と一緒にいてくれるのは、きっと彼が優しい良い人だからなのだ。
そう結論づけて、夏波はコーヒーを口に含む。味はいまいちよく分からなかった。
*
結局その日、“神隠し”と“鯨”に関係ありそうな記憶を読み取る事はついぞ叶わなかった。
事故の目撃者にも当たっては見たが、その事故で怪我をした人間に運良く当たる、なんて事もない。人から記憶を読み取るのであれば、病院で話を訊くか、それか
――志賀さんもこの事故を調べてるはず
断片的に聞く所によれば、志賀は“神隠し”の事故についてを調べていたはずだ。一度ミツキに会う前に問いかけた事もあるが、志賀は「お前には関係ない」とすげなく返すばかりで、相手にして貰えなかった。
「今日はありがとうございました」
思案に耽りながら歩いていた夏波は、そんなミツキの声にはたと顔をあげる。にこやかに、そして楽しそうに隣を歩いていた彼は、夏波と目が合うなりまた笑った。
夏波も曖昧に愛想笑いを返す。
「こちらこそ、ありがとうございました。でもすみません、あまりわかった事も無くて……」
「いえ、ボクなんか夏波さんにくっついて回ってるだけですから」
ミツキは「あはは」と恥ずかしそうに首元をさすった。
「夏波さんと仙台の街を回れて、……なんというか、楽しかったです」
夏波はなんとか表情を取り繕う。
「それは……良かったです」
「本当なら泊まりたかったんですけど、明日は明日で収録があるから……。あの、来週もよろしくおねがいしますね」
ニコリ。ミツキは笑んだ。夏波は沈んだ心を奮い立たせ、鏡写しになるようにして笑ってみせる。
『来週の休暇の日にもまた』と取り付けられたミツキとの約束を、夏波はどうしても断ることができなかった。
三科と遭遇した後、店を出たらすぐにミツキの機嫌は治ったが、夏波の心は硬直しっぱなしだ。どうしても嫌われないよう立ち回る事を止められない。それは夏波にとって負担であり、心が擦り減る時間に他ならないのだ。
「お見送りありがとうございました」
「はい、どうかお気をつけて」
「夏波さんも!また連絡しますから!」
仙台駅の改札前を挟んで手を振った。
ミツキは何度か名残惜しそうに振り返り、やがて新幹線のホームへと消えていく。
彼の姿を見送って、帰路に着こうと足を踏み出したその瞬間、緊張の糸がふっと途切れた。
――疲れた
そんな感想を抱くなり、こんなことを思ってはいけないのにと、罪悪感が湧き上がる。
自分の性格の悪さにうんざりした。
絶対に相手の機嫌を損ねない、なんて土台無理な話だ。しかしそれでも、夏波は自分に好意を向けてくれる人に不快感を与えてしまう事が、どうしても怖い。他者に対して怒りの感情を表現できないのも、根本には『嫌われたくないから』という理由が寝そべっている。
――三科にすら、だしなぁ
それは、長時間一緒に勤務をしなければならなかった相勤者にすら抱いていた恐怖だ。もちろん一緒にいて疲れると言う事は無くなったが、それでもそうなるまでにはかなり時間がかかった。
――あれ?
ふと、そこで思い浮かべたのは現在の上司の顔。
つい先日出会い、そしてほぼ毎日行動を共にする事になった彼は、常に不機嫌そうな仏頂面だ。感情の表現も乏しく、言葉も鋭い。けれど、夏波は志賀太陽という人間を負担に思った事がない。
何なら『嫌われているのかも』とすら思う程の態度を取られているのに、夏波は今まで志賀との関係性で思い悩んだ記憶がないのだ。
――なんでだろ
先日村山に話した時も、結局悩んでいたのは仕事のやり方程度のもので、志賀についてではない。
不思議だった。
いつもの夏波であれば、上司の顔色を窺って優等生を演じる。そう、あくまで演じるだけだ。実際に優等生なんかではない事を、誰よりも自分自身が知っている。その方が上手く世の中を渡ることができると夏波は知っていたから、そうしているだけだ。
しかし、志賀の前ではそもそも『そうしなければ』と思う事すらない。
駅から出て、夏波はしばらく自分の心を探りつつ歩いた。
やがて、一本の紐を掴みとって引くかのように、するりと言葉が転がり落ちる。
『多分あの人は、ちゃんと言葉にしてくれる人だから』
それはまるで旧知の仲のようで、長い時間をかけて仲良くなった三科に対する感情に近い。
何故こんな感覚を彼に抱くのかは分からなかった。
そういえば、前にも一度あったような気がする。いつだったかは覚えていない。それが好意的であり、どこか懐かしさを伴う感情だったことだけが確かだ。
――そこで、夏波は自分の思考にゆっくりと蓋を被せた。
別段忌避すべき事柄ではないのだから、これ以上考える必要なんてない。そう自分自身に言い聞かせる。上司と仲良くやれそうなら、それで良い。
胸のざわつきを諌めながら、夏波は足早に歩き続けた。交差点を越えて、ケヤキ並木を抜け、ビル群の隙間を縫って、奥へと。すっかり藍色に染まった夜空を、街灯の灯りが薄白く曇らせていた。
やがて辿り着いたのは、伊霧芽郁が飛び降りたあの現場だ。大通りから一本逸れた、住宅とビルが混在した通り。人通りは少なく、時折車が走り抜けるだけのこの道に、夏波は立った。
ビルの足元には幾らかの供花が供えられている。以前夏波が供えた百合の花もまた、静かに横たわっていた。
本当ならば、“鯨”と聞いた瞬間からこの廃ビルに足を運びたくて仕方がなかったのだ。
だが、伊霧芽郁の事件を知らないミツキを連れてくることは憚られた。逃げた、ともいう。ミツキに伊霧芽郁の話を上手く伝えられる気がしなかったからだ。
夏波はキープアウトのテープが貼られたビルへと歩み寄る。元はホテルだったのだろうが、今となっては見る影もない。朽ちかけた壁。傷だらけで放置された内部の様子。
夏波は手袋を外し、そしてえぐり取られるように無くなっていた扉の鍵部分に手を伸ばした。
死にゆく彼女が、何を思っていたのかを知る為に。
指が触れるその瞬間、夏波の後頭部に重い衝撃が走った。
意識が揺らぐ。思考が暗闇に落ちていく。視界の端に捉えたのは、固いアスファルトの地面と、そして同じ目線に立ち尽くす白百合の花ばかりだった。