4-2 あの日の記憶

文字数 6,104文字

 コツコツと靴音。小春日和の陽気の中、3人分の足音が渡り廊下に響き続ける。

「この場所の事は、極力口外するなよ」

 歩きながら、志賀はジロリと夏波を見た。

「え……どうしてですか?」 
「寿医院に危害が加わらないようにするためだ」

 こてんと首を傾げる夏波から、志賀はすぐに視線を外す。
 
「佐久間ありさみたいな人間が他にいないとも限らんだろ」

 「なるほど」と夏波は唸った。
 寿医院は本来内科・心療内科として開業していた医院らしいが、万が一にでも能力が発動してしまう事を恐れ、2年前からは患者との直接接触が少ない心療内科を主としているらしい。
 入院患者用の病棟は当時の名残らしく、今は能力者の一時的な保護施設としてしか使用していないのだそうだ。
 現在入院しているのは、4名。昨日保護した男性を含めて5名の患者がおり、一先ず昨日の男性に事情を説明するため、病室に足を運んでいるのだった。
 先を歩いていた寿は病棟内を迷いなく歩く。その途中で、ふと視線を感じ、夏波は顔を向けた。
 通路の奥に、2人の男女が立っている。年は夏波よりも少し上だろうか。どうやらそれまで2人で談笑を楽しんでいたようで、お互いは向き合いながらも、物珍しそうに首を伸ばしてこちらを見やっていた。
 手には寿と同じ様な手袋がはめられていることから、能力者なのだろうと分かる。

「いくぞ」

 夏波の視線の先を確認しつつ、志賀が顎で前を示した。

「今のは……」
「1人は1年前。もう1人は5ヶ月前に保護できた能力者だ」
「確か、4人いらっしゃるんですよね?」
「……残りの2人は精神を病んで寝たきりになってる」

 「精神を……」と繰り返す夏波に、志賀は声を潜めて告げる。

「ここにいる人間は皆親しい関係の人間を喪ってる。……自分の能力のせいでな」

 自分の心臓の鼓動が耳に届いた気がした。
 夏波の脳裏に過るのは、昨日見たばかりの資料の内容だ。
 目の前を黙って歩く医者の能力は発火。他にいた能力者は、液状化や蒸発、そして精神破壊等、字面だけで何となく察することができる内容が書いてあったことは、まだ記憶に新しい。

「勿論故意じゃなく、意図せず能力が発現した事故だ。……ただ、それでも人を殺したという罪悪感に押し潰されて、立ち上がれなくなる人間もいる」

 志賀は事も無げといった口調を装っていたが、その言葉の節々から、本来の感情を押し隠しているのだろうと分かった。
 背後から、先程こちらを窺っていた男女のものであろう話し声と、抑え目の笑いが響いた。夏波がそちらに気を取られた様子を見せると、志賀は視線を落とし、まるで呟くように言葉を零す。

「立ち上がっていたとしても、普通に笑ったり日常を送れている時にこそ思うのさ。
 どうして自分だけが生きているんだ。自分の行動さえなければ相手は死ななかったんじゃないか。そもそも自分さえいなければ……。なんて、な」

 志賀の横顔を見つめ、夏波は息を飲んだ。
 勿論完全に理解できる訳ではない。夏波自身が人を殺めた事は無いし、彼らの感情を推し量ることもできない。
 しかし志賀の言葉のいくつかは、夏波も過去に考えたことがあるのだ。
 伊霧芽郁を救えなかった。もっとできることがあったのでは。自分がもっとしっかりしていれば、救えたかもしれないのに。

「生存者の罪悪感」

 前を歩いていた寿が少しだけ振り向いて、口を開いた。

「彼らが抱く感情を、そう呼ぶ時もあります。記憶が続く限り、一生涯心に残る傷であり、問いかけでしょう」

 医者は再び前を向く。

「私はただ運が良かったに過ぎない。だからこそ、私は彼らを少しでも救いたいと……そう願います」
 
 傷、と聞いて、夏波は握る拳に力が入る。しかしそれを志賀に悟られる事を恐れて、すぐに力を緩めた。

――僕も、……同じ

 救いたいと、誰よりも強く願っている――はずなのだ。救うために何ができるかを探し続けて、そして取り返しのつかないことをしてしまった。けれど、それでも諦めきれない自分がいる。
 
 寿は立ち止まる。病棟の中でも奥まった場所にある扉の前に立ち、ノックをした。返事はなかったが、寿は構わず「失礼しますね」と中へ立ち入る。
 病室は1台のベッドと簡素な棚、そして小型の液晶テレビのみがある、非常にシンプルな空間だった。ベッドの上には大柄の男が固く目を閉じ、横たわっている。

「もうそろそろ薬が切れる頃合いかと思ったのですが、まだのようですね。……少し手伝っていただけますか?」

 夏波が返事をする間もなく、志賀が無言でベッドに近づいていき、寿の処置をサポートをする。寿は男の入院着の袖をまくって志賀に腕を支えさせると、両肘の裏にそれぞれ薬品を注入した。

「宮藤さんがいらっしゃるまでの間に合わせです。それほど長くは持ちませんが……彼女はいかがしました?」
「署での要件を片付け次第来ると。……念の為、奴が来るまでこの病棟内で待たせていただきたいのですが」
「構いませんよ。ただ、私はそろそろ午後の診療が始まりますので、本館に戻りますね」

 医者はそう言うと、志賀に向けて穏やかに微笑み、部屋の入口へと歩み寄る。と、不意に入口近くに立っていた夏波の隣で立ち止まり、耳元に口を寄せて囁いた。

「夏波さんは、志賀さんの同僚ということでしたね」
「は、はい。……それがなにか……?」

 相手につられ、夏波も頷きを小さくする。寿はちらりと志賀のいる方向を一瞥し、更に声のトーンを落とした。

「どうか、彼の助けになってあげてください。これまでずっとお1人で我々の為に動いてくれていましたが……彼も恐らくは、傷を持つ者の1人ですから」

 え、と声を上げて寿の顔を見上げると同時に、医者は病室の扉を引き開けて外へ出ていってしまう。

「どうした」

 ベッド横に立ち、患者の男の様子を見ていた志賀が顔を上げた。夏波は曖昧に笑って誤魔化そうと表情を作るが、すぐにおさめて志賀を見つめる。
 
――誤魔化してどうする

 夏波は唇を軽く噛み締めた後、「あの」と声を張って呼びかけた。

「お訊きしたいことがあります」

 志賀は押し黙り、しばらく夏波を見つめた。だが、やがて諦めとも決心とも取れるため息をつき、頷く。
 踏み込む事で拒絶されるかもしれないという恐怖心は、不思議と湧き上がらない。普段であれば恐ろしくて聞けない事も、尻込みしてしまうような事も、何故だか志賀ならば受け入れてくれる気がしていた。

「志賀さんの事、……教えてください」






「俺の能力が発現したのは、10年前。……震災があったあの日だ」

 屋上の柵から腕を出してもたれつつ、志賀は手袋のはまったその手を組んだ。

「あの日、俺はたまたま高校に合格報告に行ってて、家にいなかった」

 外の景色へ目をやる。病院の屋上といっても然程高さがある訳では無いが、他の建物よりなら空に近い。
 遠くから車の喧騒と街のざわめきが微かに混じり合って聞こえる。ただそれだけの、穏やかな小春日和だった。

「揺れが来て、……それだけなら被害はほとんどなかったんだ。職員室にいた先生も、それから同じ大学に進学が決まってた剣も、皆無事だった。丘の上の高校だったから、そのままそこにいりゃ危険はなかったんだが……、俺の家は川沿いにあって、その日は妹が軽い熱出して家で寝てたのを置いてきてた」

――『馬鹿!やめろ!』

 剣に腕を掴まれて怒鳴られた声が、脳裏を過る。

――『防災無線だって鳴ってる!ヒナタだってそれで起きて避難するだろ!入れ違いになってお前が被害にあったらどうすんだ!』

 剣は悲痛な声を上げて志賀を引き止めた。だが、そんな剣の手を振り解いて、志賀は家に戻ったのだ。虫の知らせというより他にない。嫌な予感が胸を渦巻いていた。
 丘の下では車が炎上して、道路は所々割れていた。人々が不安げに家から出ては、避難場所である高校に向かう。志賀はそんな人達とすれ違う形で、全速力で自宅に駆け戻った。
 
「家に向かう途中で、避難しろと叫んでも、『大丈夫だよ』と手を振られた。……あそこにいた人間は思ってもみなかったんだ。川が逆流するなんて」

 近所は避難を終えてがらんどうになっている家もあれば、未だお互いの安否確認を道端で取っている人間もいた。
 例えばそこが沿岸部であれば、もっと危機感を持って即座に避難した人間も多かったのだろう。高い防波堤もあり、しかも揺れからかなり時間が経っていたためか、彼らは避難準備をしつつも、そこまで逼迫していなかったのである。

「家に飛び込んで……案の定、妹は起きてなかった。外の防災無線は、窓を閉め切った室内にはほとんど聞こえないモンだったんだ。妹を叩き起こして準備させてる内に、――空が鳴った」

 そうとしか形容できない程、余りにも大きな音だった。
 津波だ、と誰かが外で叫んだ。
 間に合わない。2階建ての家では当然高さが足りず、外からは轟音と地鳴りが鳴り響いていて逃げ場もない。

「ベランダに出て、俺達は必死に屋根に這い登ったよ。……30センチかそこらだ。俺と妹との高低差なんてそんなもんだった。けど、アイツは波に飲まれかけて、……俺は咄嗟に妹の手を掴んだんだ」

 手を伸ばした。そして確かに掴んだのだ。引きの力があまりにも強く、自分自身さえ飲み込まれかけ、――死を思った。

「次の瞬間、妹の姿は消えた」
「消えた……?」

 話に聞き入っていた夏波が声を上げる。

「引き上げたはずだった。絶対に手を離してはいない。波に飲まれたのかと探しても、……どこにもいない。屋根の上にいたのは俺1人だけだ」

 何が起きたのかは分からなかった。屋根の上で1人、何が起きたのかを必死に思い出そうとしたが、消えたとしか言いようのない出来事に困惑した。白昼夢を見ているのか。それとも手を掴んだのは幻で、実際には既に流されていたのに、現実を受け入れられなかったのか。
 その数時間後。頭上を自衛隊のヘリが通り、志賀は発見される。

「ヘリから自衛隊員が降りてきて、俺に『掴まれ』と声をかけてくれたんだ。俺は近付いて、……言われた通りにした」

 次の瞬間、自衛隊員が霞がかったように見え、そして消えた。
 見間違いでも何でも無い。確かに自分が手で触れた瞬間に消え去ってしまったのだ。
 困惑して愕然としている志賀の目の前に、全く別の自衛隊員が降りてきて、同じ様に『掴まれ』と声をかけた。
 
「取り返しがつかない事をしたんだという感覚だけがあった。だから俺は腕が使い物にならないフリをして、相手に触れないようにする事だけを考えて救助してもらった」

 身体に触れられても何も起きず、とにかく手が駄目なのだという事だけを理解した。それ以降は服の袖をきつく縛って、手を出すことも、手当も、食事も、何もかもを拒んだ。滑稽だと言われようが、奇異の目で見られようが、そうする他なかったのだ。その後家族がいる可能性の高い避難施設――飛び出してきた高校に志賀は戻された。

「避難場所には人がごった返してて……けど、すぐに剣には会えたんだ。その時、アイツは『何で突然飛び出したんだ』って俺に訊いてきた」
「何でって……さっきの話だと、剣さんも妹さんをご存知だったんじゃ……?」
「知ってるなんてもんじゃねぇよ。俺の妹とは部活の先輩後輩の関係だ」

 こちらを見上げていた夏波が表情を固くする。それを一瞥し、志賀は続けた。
 
「キレる元気もない。何も考えられなくて、妹……『ヒナタを助けに行ったに決まってんだろ』とだけ答えた。そしたらアイツ、……」

 声が詰まる。心臓が引き潰れるあの感覚は、もう二度と忘れることはできそうにない。

「――『ヒナタって誰だ』、と言った」

 夏波が息を飲む音がした。
 
「ここまで話せば、なんとなく分かるか」

 空を見上げた。突き抜けるような蒼が遠くに行くにつれ大気の白を伴う、秋晴れの空だ。

「俺の能力は、……人の存在を消す」

 その人間の存在ごと、全てをまるでなかったかのようにしてしまう。産まれてすらいなかった。そうとでも言いたげに、どの記録を漁っても、どんな人間に問いかけても、その存在を否定される。
 志賀がその事実に気付いた直後、追い打ちをかけるかのように、両親の訃報が届いた。

「両親については、……不幸中の幸いだったと思うしかない。あの震災は、未だに見つかっていない人間が大勢いる」

 あれから10年が経った。たった10年だ。
 今もまだ、どんなに小さな地震でも心臓が跳ね上がる。震災の話に胸が潰れる思いがする。テレビで流れる津波の光景からは、最早目が離せないのだ。今は落ち着いたが、動悸が止まらなくなる時期もあった。
 過去の話になど到底できない。
 
「あの日、俺は2人の人間を殺した」

 自分が救おうとしたはずの妹。そして、自分を救おうと手を伸ばしてくれた自衛隊員。
 あれが単に幻覚だったのならどんなに良かったか。
 けれど幻覚などではない。妹が姿を現すことは二度となかった。自衛隊に問い合わせても、該当する人間を見つけ出すことは叶わなかった。

「耐えきれなかった。何度も生きる事を止めようとしたし、そうでなくとも腕を落とそうとした。……だが、できなかった」

 その度に拒まれる。何か得体の知れないものが自分の中に住んでいるのだろう感覚。死のうとする度に意識を掠め取られ、手を切り落とそうと試みてもその意志すら上書きするかのように、自分の行動を捻じ曲げられる。
 意志の強さだけではどうにもならなかった。何故なら、その意志すら根こそぎ取り上げられるからだ。
 結局、自分が意識を手放している間に誰かに触れてしまっているのではないかという恐怖も相まって、志賀は諦めた。
 幸い人以外の有形物を消すような事はなく、手袋をはめた状態であれば、うっかり人に触れたとしても問題が無い。
 手袋をつけ、常にポケットに手を突っ込んで、誰にも触れないように生活を送っていれば、人のフリを続けられる。

 罪悪感が薄まることはなかった。
 一体何故自分が生きているのだろう。生き残ってしまった事が、亡くなった人間に対する裏切りのようにしか思えない。
 深い水の底で溺れるような日常が続いて、死んだ方がマシだと思い続けながら、しかし生きるしかないのだ。

「だが……」

 警察学校での出会いに救われた。――はずだった。

「……そういやお前、『彼岸の鯨』、読み終わったか」
「えっ?」

 突然の問いかけに、夏波は戸惑ったような声を上げる。

「い、いえ?まだ半分くらいで……」
「そうか。でも冒頭は分かるだろ」
「分かります、けど……」

 小説の冒頭で、登場人物の一人が命を落とす。小説はその人間がいずれ居なくなると理解させた上で進んでいく。

「これから話す話は、……それと同じだ」

 3年前の出来事を語る上で、1人の人間の死について話す事は避けられない。
 彼女はもうどこにもいない。誰の記憶にも残っていない。
 だからこそ、話さなければならないのだ。その記憶を持って、そして紡ぐ事ができる人間はただ1人だけなのだから。

「俺には昔親友がいた。だが、……3年前、俺が消したんだ」

 その、存在を。
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登場人物紹介

夏波 奏 《カナミ カナデ》


25歳/O型/167cm/特殊対策室所属


自他共に認める気弱人間

志賀 太陽 《シガ タイヨウ》


28歳/AB型/159cm/特殊対策室所属


中央署の嫌われ者

宮藤 由利 《クドウ ユリ》


?歳/B型/154cm/特殊対策室所属


中央署の名物署長

三科 祭 《ミシナ マツリ》


26歳/B型/178cm/機動捜査隊所属


夏波の元相棒で親友

剣 佐助 《ツルギ サスケ》


28歳/AB型/181cm/機動捜査隊所属


苦労人気質の優しい先輩

村山 美樹 《ムラヤマ ミキ》


31歳/O型/162cm/機動捜査隊所属


飄々としてるけど面倒見はいいお姉さん

美月 幸平 《ミツキ コウヘイ》


24歳/B型/178cm/俳優


爽やかな青年

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