4-9 揺蕩う身体
文字数 5,680文字
「会議?俺が?」
キーボードを打っていた手を止めて、志賀は顔を上げた。
警察礼服に身を包んだ角井が、胸元のネクタイを締め直しながら頷く。
「あぁ。あまり良い予感はしないが、無視する訳にもね……」
「どういう風の吹き回しだ?何か事件があるわけでも無いんだろ?」
「そうなんだ。あくまでも情報共有がしたい、と」
「ますますキナ臭えな」
「私もそう思うよ」
朝一番、角井が志賀に告げたのは、宮藤由利から志賀太陽に対して会議の出席要請が出たという話だった。
当然といえば当然だが、これまで会議や話し合いの対応を行っていたのは角井であり、志賀が関わった事は殆ど無い。宮藤個人から呼び出しを食らったとしても、それは大抵が言いがかりと理不尽な怒りをぶつけられる場でしかなく、まともな話し合いとは程遠かった。
「厳密に言えば、特殊対策室から誰か1人を出せって話なんだが……彼女だって、私が今日出られない事は織り込み済みだろうからね」
志賀はガシガシと自分の黒髪をかき乱す。
「実質、俺指名、か……」
今日は銀の所属する警察学校で卒業式が執り行われる予定なのだ。刑事部部長である角井が出席する事は随分前から決まっていたはずだが、宮藤が指定した会議の日時は今日の10時から。卒業式もまた10時から執り行われるため、角井が応じるのは流石に難しい。無論日時変更も申し出たらしいが、宮藤は『特殊対策室から1人来ればいい』と頑なに譲らなかったのだそうだ。
――図々しい
ため息を禁じ得ず、志賀は頭を押さえた。
「……まぁ、行くしかないか」
「大丈夫かい……?」
「大丈夫じゃねぇが、」
「じゃないんだ」
「ここで下手に拒否って揚げ足取られても癪だろ」
「ま、まぁそうかもしれないけれど……。志賀君ってホント正直だよね……」
ここ最近で、特殊対策室を取り巻く状況は随分好転した。
能力者を保護するという点において、極僅かだが賛同者も得始めている。
その状況を宮藤が良く思っているとは到底思えないものの、とはいえ、彼女とて『自分に楯突くのなら代案を出せ』と言っていた人間だ。排除以外の選択が浮き出てきた今、宮藤が考えを改め、歩み寄りを見せる可能性もゼロではない。――というのは、かなり希望的観測が過ぎるか。
「場所は本部の第5会議室だそうだよ。私も式が終わり次第できるだけ早く戻ってくるから、何かあったかはその時に報告してもらえるかな」
「……分かった」
志賀の頷きに角井も同じ動作を返し、腕時計を見やる。
「そろそろ向かうよ。……銀君と少しだけ会う予定もあるんだが、何か伝えておくかい?」
薄く切られるかのような痛みが胸に走った気がした。志賀は即座に首を振って、パソコン画面に目を戻す。
「必要ない」
「そ、そうか……?」
即答されるとは思っていなかったのか、角井は困惑しつつも鞄を持った。
「じゃぁ、行ってくるよ」
そう声をかけて部屋の扉を引き開ける。彼に相槌を打つなり、志賀の背中がざわりと泡立った。
「角井」
自分の口から、思いがけず呼び止める声が飛ぶ。角井は不思議そうに振り返り
「どうした?」
志賀は返す言葉が続かず、呆然と
「……いや」
首を振った。
角井はニコリと笑ってみせ、そして今度こそ特殊対策室を後にする。
何故角井を呼び止めたのかは分からない。強いて言うのであれば、虫の知らせだ。かつての災害で感じた、妹に対する不安に近い。しかしそれが何によるものなのか判然としない以上、志賀にできる事など無いのだ。
*
その日は篠突く豪雨の日だった。時折雷が鳴り響く中、志賀は服に着いた雨粒を払い除けながら県警本部内に立ち入る。
第五会議室は本部内でもかなり奥まった位置に存在しており、午前中だというのにひどく静まり返っていた。
志賀は両開きの白い扉の前に立ち、無造作にノックをする。
「どうぞ」
鈴の鳴る様な声に吐き気を覚えながら、志賀は扉を押し開けた。
最初に感じたのは、きついフローラルな香水の香りだ。
扉の先は、酷く閑散とした灰色の空間だった。本来は白く、ある程度清潔な室内なのだろうが、窓のブラインドカーテンが降り、電気が消えているせいでかなり暗い。整然と並んだ長テーブルは全て奥の壁を向いており、普段は捜査会議用に使用されているのだろうと分かった。が、内部に誰かがいる様子がない。
「こんにちは、志賀太陽」
一歩踏み入れた志賀のすぐ隣から、突如として声がかけられる。志賀は思わず飛び退いて、背後を振り返った。
「あははっ、びっくりした?」
まるで少女のような歓声を上げながら、扉の影から現れたのは、黒いスーツに身を包んだ宮藤由利の姿だった。
――悪趣味な
内心で悪態をつきつつ、宮藤を睨みつける。だが宮藤は意にも介さず、「あーあ、怖い顔」なんておどけた様子で、部屋の一番後ろに設置されたテーブルへ歩み寄った。
雨が窓を叩き、室内は少しだけ騒がしい。
「遅刻せずによく来れましたねぇ?」
「……要件をできるだけ簡潔に述べていただけますか」
剣呑とした雰囲気を隠そうともせず、志賀は吐き捨てた。宮藤は面白くなさそうに肩を竦め、しかし笑顔は崩さない。今日は随分と機嫌が良さそうだ。どうせロクでもない理由なのだろうと、志賀はただ相手の応答を待つ。
「最初に角井部長に言った通りよ。情報共有を行いたいの」
「会議と聞いていましたが、何故我々2人だけなのか、説明いただけますか」
「そりゃ、外部に漏れると困るからよ」
出任せを、と口にしかけて飲み込んだ。
認めたくはないが、彼女は仮にも上司であり、この県警における名目上のNo.2 だ。ささいなことで揚げ足を取られてもつまらない。
口調は崩さず、しかし嫌悪感を露 わにして、志賀は答えた。
「自分達よりも、機捜特別班の方が得ている情報は多いはずですが」
「あら、そんな事無いけど?私達だって“能力”については知らない事ばっかり。発生原因も、何もかもが憶測止まりだから困ってるの」
憶測止まり、という事は、憶測そのものは立てる事ができているのだろう。遭遇した能力者の絶対数が少ない特殊対策室では、未だそれすら不明である。
同じ組織内だというのに向こう側からの情報共有がこれまで一切無かったことが、溝をくっきりと分けている事の証明とも言えた。ここでその溝を埋めるつもりならば救いはあるが、彼女の楽しげな表情から、望み薄だろうと志賀は悟っている。
「私達は、危険な能力者を駆除する事で、世間の秩序を保とうとしてる。それが彼らの為であり、それこそが今できる最善策だと信じてこれまでやってきた」
正面から宮藤は一歩志賀に近寄る。
「だから、本当に理解し難いのよ。貴方達の行動が」
「……というと」
「考えた事あるの?自分達の方が遥かに人が死ぬ選択を取ってるって」
口を引き結ぶ志賀に、宮藤は意外そうに目を丸くした。
「あら、心当たりはあるのね」
少し嬉しそうに笑う彼女は、見た目だけならばまるで天使のような容貌だった。副本部長という地位に就任しているという事は、年齢は角井と同世代のはずだが、全く老いを感じさせない。
宮藤の話に真っ向から対立する気になれないのは、彼女達にも一定の善があるからだ。
志賀と角井の行っている能力者の保護は、その能力者を救う事によって新たな犠牲者が出る可能性をどうしても孕んでいる。
一方で、宮藤の排除という選択は、能力者の殺害によりそれ以上の被害は出ない。
犠牲の数が零か百かになる危ない橋を渡っている特殊対策室に対して、宮藤は確実に一で止める手法を取っているのだ。
功利主義的には間違っていないのだろう。全を救う為に個を犠牲にする事は往々にして有り得る。だからこそ志賀は表立って宮藤を告発しようとはしなかった。けれど、個を完全に捨て去って、救う手立てを考えない彼女のやり方を受け入れる気にもならない。
「ねぇ。出会い方が少し違っていれば、私達って良い関係を結べたと思わない?」
「その仮定は無意味かと。過去に起こった出来事は変えられない」
そもそも、最初から宮藤が歩み寄りの姿勢を見せていればこうも悪印象を抱くことも無かった。何を今更、と、志賀は呆れ気味な口調で言い捨てる。
宮藤は口元をニコリと歪ませると、徐にスーツの胸元へ右手を滑り込ませた。
「私は貴方の事が心底嫌いだけど、そういう所は好きだったわよ」
引き出すのは、拳銃。型式はどう見ても警察支給のものではない。
宮藤と初めて出会ったあの日、女子高生の命を奪った物と同じだ。
しかし、志賀は一度たりとしてたじろぐ事なく、仏頂面を宮藤に向け続けていた。
「……ホーント、面白くない男」
軽い金属音を立てながら、宮藤は弾の確認を取り、射出準備を整える。
「何なの?他殺志願者な訳?前も笑ってて気持ち悪かったしさぁ。……それとも、県警本部内だから撃つわけないって思ってる?」
撃鉄を上げる音と共に、宮藤は笑った。そして銃口を志賀に向け、一歩ずつ歩み寄る。
「確かに、近くにいる何人かはきっと気付くでしょうね。ある程度人払いはしたし、運良く雨は降っているけれど、それでも警察本部内だもの。耳と鼻の良い人はきっと気付く」
ピタリと、銃口が志賀の心臓部分に当てがわれた。
宮藤が僅かにでも人差し指を動かせば、志賀の命は弾け飛ぶ。逆に志賀が体を動かして宮藤を跳ね除けようとしても、暴発の可能性すらある距離。
だが志賀は、彼女が撃つはずがないと確信していた。先程本人が言った通り、ここで志賀を殺すにはあまりにもデメリットが多い。
「無差別に能力を振りまく能力者なんて、山から降りてきた人食い熊と変わらない。その熊を駆除したら『可哀想』とか『他の方法があった』とか……蚊帳の外だからそういう馬鹿な事言うのかと思ったら、今度はその害獣に食べられかけてなお、『保護』とかさぁ」
宮藤の声のトーンが落ちる。憎々しげに、それでいて汚らわしい物を摘んでいるかのように、嫌悪感をたっぷりと含んだ語り口調で彼女は続けた。
「馬鹿みたい。そんな無駄にリソース割いてどうすんのって話。……ま、どうせ君も害獣側なんでしょうけど」
ひやり、と宮藤の手が志賀の頬を撫ぜた。
途端、身体が硬直し、志賀は奥歯を噛む。痛みはないが、身体全体が麻痺してコントロールの一切が効かない。
――能力か
宮藤と初めて会った時と同じだ。
彼女もまた能力者であると聞き及んでいたが、それが具体的にどのような効果を持つかまでは判然としていない。
触れた相手の麻痺、或いは混迷かと予測を立ててはいたものの、志賀の脳裏では得体の知れない警告音が鳴り響いていた。
「それで、君はどんな力を持ってるの?」
冷たい手のひらの感触だけが頬に残っている。思考回路も薄っすら灰がかっているが、答えてやる義理はないと答えは出ていた。――はずだった。
「――しょう、しつ」
口から自分の声が零れ落ちて、志賀は必死に口を噤めと身体に命じる。
「消失?……具体的には?」
「……ッ」
「あら……やっぱり能力者相手にはかかりが悪いのね?耐性でもあるのかしら」
答えるな。知られてはいけない。その一心だけで、勝手に流れ出そうになる言葉を何とか噛み殺す。
宮藤は不満げにため息をつくと、拳銃に安全装置をかけ、そして「こっちへ」と志賀の頬に触れたまま部屋の隅へと歩き出した。
「最近効きが悪くて困るのよね。前はちょっと触るだけで良かったのに、今は触り続けてないと言うこと聞いてくれないんだから」
志賀の足が、宮藤の歩幅をなぞるようにゆらりと前へ出る。
まるで、糸のついていないマリオネットのようで、逆らう権利など存在してはいないかようだった。意志と反した行動を取らされ、志賀の脳は軽いパニックを引き起こす。必死に思考を巡らせても、拒否をしても、足は止まらない。
――それに、……何だ、この匂い
これまで、ずっと強い香水の香りが嗅覚を鈍らせていた。それが普段宮藤の使う悪趣味な香水のせいだと気にしていなかったが――少しその匂いが強すぎる。
宮藤は大部屋の隅へと歩くと、「止まって」と指示を出す。彼女は、そこに積まれていた段ボールの山を足で軽く蹴散らした。すると奥からは、大型のスーツケースが顔を出す。段ボールは全て空のようで、このスーツケースを隠すためだけに置かれていたのだろう。
「何が入ってると思う?」
「知るか」
身体は動かない。ただ、宮藤の問いかけが成された瞬間、声だけが飛び出る。
「つれないわね」
しかし女は、最早穏やかとすら呼べる表情で、スーツケースを指さすのだ。
「開けてみて」
頭が理解を拒否した。それは本能的なものに近く、理屈があってのものではない。
「……なに、言って……」
「開けて?」
強制的に口が閉ざされ、志賀はスーツケースを凝視する事しかできなかった。
心臓が何度も大きく鳴っている。けれどそれすら自分の感覚ではないようで、耳に届く脈拍だけがその鼓動を知らせていた。
――匂いが
匂いが強い。何かの匂いを覆い隠すかのように、過剰に撒かれた香水の匂い。
一歩近づいた。呼吸が乱れている。しかし苦しさはない。自分の意志と反して、身体は目についた一つのスーツケースへと歩み寄る。
――見るな
触ってはいけない。見てはいけない。どんなに、どんなに唱えても、自分の身体を制御できない。
宮藤の嬉しそうな笑い声が耳に届いて不快だった。けれどその意味を介すことなく、志賀はゆっくりとケースの上蓋を押し開ける。
見えたものをただ言葉にするのであれば簡単だった。
あぁ、皆まで語らずとも、想像がつく範囲の事なのかもしれない。
そこには死体が入っていた。1人の人間の死体が入っていた。
身体を無理に畳まれて、強い香水で血の香りを誤魔化した、真紅に染まる女の死体だ。
悲鳴すらあげられなかった。胸を掻きむしる事すら叶わない。
先程宮藤が自分にかけた言葉の意味が、一拍遅れて解される。
「正解は、君の大好きな害獣でしたー」
銀知佳が、硬く目を閉じそこにいた。
キーボードを打っていた手を止めて、志賀は顔を上げた。
警察礼服に身を包んだ角井が、胸元のネクタイを締め直しながら頷く。
「あぁ。あまり良い予感はしないが、無視する訳にもね……」
「どういう風の吹き回しだ?何か事件があるわけでも無いんだろ?」
「そうなんだ。あくまでも情報共有がしたい、と」
「ますますキナ臭えな」
「私もそう思うよ」
朝一番、角井が志賀に告げたのは、宮藤由利から志賀太陽に対して会議の出席要請が出たという話だった。
当然といえば当然だが、これまで会議や話し合いの対応を行っていたのは角井であり、志賀が関わった事は殆ど無い。宮藤個人から呼び出しを食らったとしても、それは大抵が言いがかりと理不尽な怒りをぶつけられる場でしかなく、まともな話し合いとは程遠かった。
「厳密に言えば、特殊対策室から誰か1人を出せって話なんだが……彼女だって、私が今日出られない事は織り込み済みだろうからね」
志賀はガシガシと自分の黒髪をかき乱す。
「実質、俺指名、か……」
今日は銀の所属する警察学校で卒業式が執り行われる予定なのだ。刑事部部長である角井が出席する事は随分前から決まっていたはずだが、宮藤が指定した会議の日時は今日の10時から。卒業式もまた10時から執り行われるため、角井が応じるのは流石に難しい。無論日時変更も申し出たらしいが、宮藤は『特殊対策室から1人来ればいい』と頑なに譲らなかったのだそうだ。
――図々しい
ため息を禁じ得ず、志賀は頭を押さえた。
「……まぁ、行くしかないか」
「大丈夫かい……?」
「大丈夫じゃねぇが、」
「じゃないんだ」
「ここで下手に拒否って揚げ足取られても癪だろ」
「ま、まぁそうかもしれないけれど……。志賀君ってホント正直だよね……」
ここ最近で、特殊対策室を取り巻く状況は随分好転した。
能力者を保護するという点において、極僅かだが賛同者も得始めている。
その状況を宮藤が良く思っているとは到底思えないものの、とはいえ、彼女とて『自分に楯突くのなら代案を出せ』と言っていた人間だ。排除以外の選択が浮き出てきた今、宮藤が考えを改め、歩み寄りを見せる可能性もゼロではない。――というのは、かなり希望的観測が過ぎるか。
「場所は本部の第5会議室だそうだよ。私も式が終わり次第できるだけ早く戻ってくるから、何かあったかはその時に報告してもらえるかな」
「……分かった」
志賀の頷きに角井も同じ動作を返し、腕時計を見やる。
「そろそろ向かうよ。……銀君と少しだけ会う予定もあるんだが、何か伝えておくかい?」
薄く切られるかのような痛みが胸に走った気がした。志賀は即座に首を振って、パソコン画面に目を戻す。
「必要ない」
「そ、そうか……?」
即答されるとは思っていなかったのか、角井は困惑しつつも鞄を持った。
「じゃぁ、行ってくるよ」
そう声をかけて部屋の扉を引き開ける。彼に相槌を打つなり、志賀の背中がざわりと泡立った。
「角井」
自分の口から、思いがけず呼び止める声が飛ぶ。角井は不思議そうに振り返り
「どうした?」
志賀は返す言葉が続かず、呆然と
「……いや」
首を振った。
角井はニコリと笑ってみせ、そして今度こそ特殊対策室を後にする。
何故角井を呼び止めたのかは分からない。強いて言うのであれば、虫の知らせだ。かつての災害で感じた、妹に対する不安に近い。しかしそれが何によるものなのか判然としない以上、志賀にできる事など無いのだ。
*
その日は篠突く豪雨の日だった。時折雷が鳴り響く中、志賀は服に着いた雨粒を払い除けながら県警本部内に立ち入る。
第五会議室は本部内でもかなり奥まった位置に存在しており、午前中だというのにひどく静まり返っていた。
志賀は両開きの白い扉の前に立ち、無造作にノックをする。
「どうぞ」
鈴の鳴る様な声に吐き気を覚えながら、志賀は扉を押し開けた。
最初に感じたのは、きついフローラルな香水の香りだ。
扉の先は、酷く閑散とした灰色の空間だった。本来は白く、ある程度清潔な室内なのだろうが、窓のブラインドカーテンが降り、電気が消えているせいでかなり暗い。整然と並んだ長テーブルは全て奥の壁を向いており、普段は捜査会議用に使用されているのだろうと分かった。が、内部に誰かがいる様子がない。
「こんにちは、志賀太陽」
一歩踏み入れた志賀のすぐ隣から、突如として声がかけられる。志賀は思わず飛び退いて、背後を振り返った。
「あははっ、びっくりした?」
まるで少女のような歓声を上げながら、扉の影から現れたのは、黒いスーツに身を包んだ宮藤由利の姿だった。
――悪趣味な
内心で悪態をつきつつ、宮藤を睨みつける。だが宮藤は意にも介さず、「あーあ、怖い顔」なんておどけた様子で、部屋の一番後ろに設置されたテーブルへ歩み寄った。
雨が窓を叩き、室内は少しだけ騒がしい。
「遅刻せずによく来れましたねぇ?」
「……要件をできるだけ簡潔に述べていただけますか」
剣呑とした雰囲気を隠そうともせず、志賀は吐き捨てた。宮藤は面白くなさそうに肩を竦め、しかし笑顔は崩さない。今日は随分と機嫌が良さそうだ。どうせロクでもない理由なのだろうと、志賀はただ相手の応答を待つ。
「最初に角井部長に言った通りよ。情報共有を行いたいの」
「会議と聞いていましたが、何故我々2人だけなのか、説明いただけますか」
「そりゃ、外部に漏れると困るからよ」
出任せを、と口にしかけて飲み込んだ。
認めたくはないが、彼女は仮にも上司であり、この県警における名目上の
口調は崩さず、しかし嫌悪感を
「自分達よりも、機捜特別班の方が得ている情報は多いはずですが」
「あら、そんな事無いけど?私達だって“能力”については知らない事ばっかり。発生原因も、何もかもが憶測止まりだから困ってるの」
憶測止まり、という事は、憶測そのものは立てる事ができているのだろう。遭遇した能力者の絶対数が少ない特殊対策室では、未だそれすら不明である。
同じ組織内だというのに向こう側からの情報共有がこれまで一切無かったことが、溝をくっきりと分けている事の証明とも言えた。ここでその溝を埋めるつもりならば救いはあるが、彼女の楽しげな表情から、望み薄だろうと志賀は悟っている。
「私達は、危険な能力者を駆除する事で、世間の秩序を保とうとしてる。それが彼らの為であり、それこそが今できる最善策だと信じてこれまでやってきた」
正面から宮藤は一歩志賀に近寄る。
「だから、本当に理解し難いのよ。貴方達の行動が」
「……というと」
「考えた事あるの?自分達の方が遥かに人が死ぬ選択を取ってるって」
口を引き結ぶ志賀に、宮藤は意外そうに目を丸くした。
「あら、心当たりはあるのね」
少し嬉しそうに笑う彼女は、見た目だけならばまるで天使のような容貌だった。副本部長という地位に就任しているという事は、年齢は角井と同世代のはずだが、全く老いを感じさせない。
宮藤の話に真っ向から対立する気になれないのは、彼女達にも一定の善があるからだ。
志賀と角井の行っている能力者の保護は、その能力者を救う事によって新たな犠牲者が出る可能性をどうしても孕んでいる。
一方で、宮藤の排除という選択は、能力者の殺害によりそれ以上の被害は出ない。
犠牲の数が零か百かになる危ない橋を渡っている特殊対策室に対して、宮藤は確実に一で止める手法を取っているのだ。
功利主義的には間違っていないのだろう。全を救う為に個を犠牲にする事は往々にして有り得る。だからこそ志賀は表立って宮藤を告発しようとはしなかった。けれど、個を完全に捨て去って、救う手立てを考えない彼女のやり方を受け入れる気にもならない。
「ねぇ。出会い方が少し違っていれば、私達って良い関係を結べたと思わない?」
「その仮定は無意味かと。過去に起こった出来事は変えられない」
そもそも、最初から宮藤が歩み寄りの姿勢を見せていればこうも悪印象を抱くことも無かった。何を今更、と、志賀は呆れ気味な口調で言い捨てる。
宮藤は口元をニコリと歪ませると、徐にスーツの胸元へ右手を滑り込ませた。
「私は貴方の事が心底嫌いだけど、そういう所は好きだったわよ」
引き出すのは、拳銃。型式はどう見ても警察支給のものではない。
宮藤と初めて出会ったあの日、女子高生の命を奪った物と同じだ。
しかし、志賀は一度たりとしてたじろぐ事なく、仏頂面を宮藤に向け続けていた。
「……ホーント、面白くない男」
軽い金属音を立てながら、宮藤は弾の確認を取り、射出準備を整える。
「何なの?他殺志願者な訳?前も笑ってて気持ち悪かったしさぁ。……それとも、県警本部内だから撃つわけないって思ってる?」
撃鉄を上げる音と共に、宮藤は笑った。そして銃口を志賀に向け、一歩ずつ歩み寄る。
「確かに、近くにいる何人かはきっと気付くでしょうね。ある程度人払いはしたし、運良く雨は降っているけれど、それでも警察本部内だもの。耳と鼻の良い人はきっと気付く」
ピタリと、銃口が志賀の心臓部分に当てがわれた。
宮藤が僅かにでも人差し指を動かせば、志賀の命は弾け飛ぶ。逆に志賀が体を動かして宮藤を跳ね除けようとしても、暴発の可能性すらある距離。
だが志賀は、彼女が撃つはずがないと確信していた。先程本人が言った通り、ここで志賀を殺すにはあまりにもデメリットが多い。
「無差別に能力を振りまく能力者なんて、山から降りてきた人食い熊と変わらない。その熊を駆除したら『可哀想』とか『他の方法があった』とか……蚊帳の外だからそういう馬鹿な事言うのかと思ったら、今度はその害獣に食べられかけてなお、『保護』とかさぁ」
宮藤の声のトーンが落ちる。憎々しげに、それでいて汚らわしい物を摘んでいるかのように、嫌悪感をたっぷりと含んだ語り口調で彼女は続けた。
「馬鹿みたい。そんな無駄にリソース割いてどうすんのって話。……ま、どうせ君も害獣側なんでしょうけど」
ひやり、と宮藤の手が志賀の頬を撫ぜた。
途端、身体が硬直し、志賀は奥歯を噛む。痛みはないが、身体全体が麻痺してコントロールの一切が効かない。
――能力か
宮藤と初めて会った時と同じだ。
彼女もまた能力者であると聞き及んでいたが、それが具体的にどのような効果を持つかまでは判然としていない。
触れた相手の麻痺、或いは混迷かと予測を立ててはいたものの、志賀の脳裏では得体の知れない警告音が鳴り響いていた。
「それで、君はどんな力を持ってるの?」
冷たい手のひらの感触だけが頬に残っている。思考回路も薄っすら灰がかっているが、答えてやる義理はないと答えは出ていた。――はずだった。
「――しょう、しつ」
口から自分の声が零れ落ちて、志賀は必死に口を噤めと身体に命じる。
「消失?……具体的には?」
「……ッ」
「あら……やっぱり能力者相手にはかかりが悪いのね?耐性でもあるのかしら」
答えるな。知られてはいけない。その一心だけで、勝手に流れ出そうになる言葉を何とか噛み殺す。
宮藤は不満げにため息をつくと、拳銃に安全装置をかけ、そして「こっちへ」と志賀の頬に触れたまま部屋の隅へと歩き出した。
「最近効きが悪くて困るのよね。前はちょっと触るだけで良かったのに、今は触り続けてないと言うこと聞いてくれないんだから」
志賀の足が、宮藤の歩幅をなぞるようにゆらりと前へ出る。
まるで、糸のついていないマリオネットのようで、逆らう権利など存在してはいないかようだった。意志と反した行動を取らされ、志賀の脳は軽いパニックを引き起こす。必死に思考を巡らせても、拒否をしても、足は止まらない。
――それに、……何だ、この匂い
これまで、ずっと強い香水の香りが嗅覚を鈍らせていた。それが普段宮藤の使う悪趣味な香水のせいだと気にしていなかったが――少しその匂いが強すぎる。
宮藤は大部屋の隅へと歩くと、「止まって」と指示を出す。彼女は、そこに積まれていた段ボールの山を足で軽く蹴散らした。すると奥からは、大型のスーツケースが顔を出す。段ボールは全て空のようで、このスーツケースを隠すためだけに置かれていたのだろう。
「何が入ってると思う?」
「知るか」
身体は動かない。ただ、宮藤の問いかけが成された瞬間、声だけが飛び出る。
「つれないわね」
しかし女は、最早穏やかとすら呼べる表情で、スーツケースを指さすのだ。
「開けてみて」
頭が理解を拒否した。それは本能的なものに近く、理屈があってのものではない。
「……なに、言って……」
「開けて?」
強制的に口が閉ざされ、志賀はスーツケースを凝視する事しかできなかった。
心臓が何度も大きく鳴っている。けれどそれすら自分の感覚ではないようで、耳に届く脈拍だけがその鼓動を知らせていた。
――匂いが
匂いが強い。何かの匂いを覆い隠すかのように、過剰に撒かれた香水の匂い。
一歩近づいた。呼吸が乱れている。しかし苦しさはない。自分の意志と反して、身体は目についた一つのスーツケースへと歩み寄る。
――見るな
触ってはいけない。見てはいけない。どんなに、どんなに唱えても、自分の身体を制御できない。
宮藤の嬉しそうな笑い声が耳に届いて不快だった。けれどその意味を介すことなく、志賀はゆっくりとケースの上蓋を押し開ける。
見えたものをただ言葉にするのであれば簡単だった。
あぁ、皆まで語らずとも、想像がつく範囲の事なのかもしれない。
そこには死体が入っていた。1人の人間の死体が入っていた。
身体を無理に畳まれて、強い香水で血の香りを誤魔化した、真紅に染まる女の死体だ。
悲鳴すらあげられなかった。胸を掻きむしる事すら叶わない。
先程宮藤が自分にかけた言葉の意味が、一拍遅れて解される。
「正解は、君の大好きな害獣でしたー」
銀知佳が、硬く目を閉じそこにいた。