1-12 被害
文字数 2,196文字
住宅街の只中にある小さな公園。そこに隣接するように赤いランプのついた小さな建物がある。それが通町交番だ。
二人が現場に到着したのは、16時を少し回った頃合だった。現場は既に封鎖され、通りすがりの野次馬や近所の住民が遠目から様子を伺い見ている。
正面のコンビニに駐車許可を取りに行っていた夏波は、志賀から一歩遅れて交番に走る。交番の入り口は横に引くタイプのガラス戸で、手前の地面には現場保存の白いテープが貼られていた。踏まないように注意しつつ覗くと、赤黒い染みの様な物が白テープに囲まれている。
「……血?」
「夏波、こっちだ」
顔を上げると、奥の部屋から剣が顔を出し、手招きをしていた。
通町交番は入り口から見える作業場と、休憩用と思わしき部屋、そしてトイレの三部屋しかない極小さな交番のようだ。
慌ただしく作業をしている数名の鑑識に挨拶をしつつ、剣の元へ歩く。
「すみません、遅くなりまし……た」
休憩部屋に立ち入るなり、思わず声を失いかけた。
そこに広がっていたのは、目が眩むような世界だ。床は至る所が白い砂のようなものに埋め尽くされ、その中央に例の写真の彫刻が横たわっている。
剣は夏波の到着と同時に、志賀に向けて仔細を話し始めた。
「……本来ここで交番勤務をしているはずの警官1名と連絡が取れん。入口に血も落ちていたし、こんな悪趣味な物もあるし、誘拐の可能性を加味して鑑識は呼んだ。……一応お前が言った通り、誰も触らないように指示してある」
「村山はどうした」
「周辺住民の地取りだ」
「そうか」
剣の言葉に頷いてから、志賀は塩の彫刻の横にしゃがむ。全てが白く染まっていて上手く判別はつかないが、恐らく三十代くらいの男性だ。服装から警官であることは明白で、腕や足の一部が砕け散ってしまっている。
「あの、僕……」
「駄目だ」
触ってみます、と言う前に否定された。だが、流石にここで食い下がらない訳にも行かない。
――もし、僕の能力が、こうなってしまった人を元に戻せるなら
「元には戻せない」
一瞬、志賀に思考を読まれたのかと肩を飛び上がらせた。しかし、彼はじっと横たわる男性を見つめているだけで、夏波を見ていた訳ではない。
「でもっ……!」
「そもそも条件が定かじゃない。今度こそお前がこうなる可能性もあるんだ」
「……それでも、試したいです」
人が生き返るかもしれないのだ。今回ばかりは折れるわけにはいかなかった。
真剣な面持ちで訴えると、志賀はやがて「勝手に触られるくらいなら」と渋々ながらに折れる。
そのやり取りに終始疑問符を浮かべていたのは剣で、心配そうに夏波を見やっていた。
「おい」
近付こうとした剣を遮る形で志賀が立ちはだかる。夏波はその間に右の手袋を外すと、そっと倒れた男性の腕に触れた。しかしいくら待っても何の変化も起こらない。心の底から願っても、天の神様に祈っても、そこにあるのはもはや人であったかすら定かではない遺体だけだ。
「……もういいだろ。延焼起こったらどうするつもりだ。手ェ離せ」
志賀の指示に従って、夏波は力なく腕を下ろす。夏波に例の延焼とやらが見られない事だけが救いなのだろうか。
その場にいた剣と鑑識は、それを困ったように見ていた。本来なら、夏波の行動は現場保存をしているのだから触るなと厳重注意を受けるものだ。だが、夏波が触れたことで塩の塊の一部が若干量崩れ、これが人間の身体ではないことが明白となった。単なるいたずらにしては規模と悪趣味が過ぎるものの、今捜査しているのが何なのか懐疑的になるのも仕方のない事である。
胸に鉛が詰められたかのような感覚に、夏波は視線を落とす。
ふと、その横にしゃがみこんだ志賀が遺体に向けて手を合わせた。瞼を落としている彼に倣って、夏波も同じように合掌する。
「能力は奇跡を起こす力なんかじゃない」
長い沈黙の後、目を開いた夏波の頭上に声が落ちた。見上げれば、志賀が天井からの明かりを遮って夏波を見下ろしていた。彼は夏波と目が合うなり、ふいと顔を反らし背を向けてしまう。
「それがどんなに良い力に見えても、だ」
夏波が声をかける前に志賀はその場にいた鑑識に呼ばれ、そちらへと足を向ける。鑑識は搬送についての指示を仰いでいるようだった。
夏波は再び、目の前の遺体を見た。
そう、“遺体”なのだ。この人は間違いなく、亡くなった人間だ。だが、例えばこの人に家族がいたとして、この遺体を見たらどう思うのだろうか。
――僕なら、信じられない。
信じたくないのではない。信じられない。例え警察がどんなに真面目な面持ちでそれを伝えてきたとしても、人間が塩になっただなんて信じる事はできないだろう。
いや、そもそも警察ですら、今目の前に居る彼を“遺体”として判断はしない。このままただの悪趣味な彫刻として処理し、その後居なくなった彼を行方不明として家族に伝える。その可能性の方が高いのではないだろうか。そうなれば、家族は一生帰ってくることのない彼を待つことになる。
伊霧匠に、志賀が『両親は亡くなった』と言い切った理由が今更腑に落ちた。
――なら、どうして僕と彼は
ゆっくりと、もう一度だけ先程触れた部分へと右手を伸ばした。自分のせいで欠けてしまった場所。もう二度と同じように修復できない傷。人間であれば、決してこんなことは起こらないのに。
触れた。その直後だった。
二人が現場に到着したのは、16時を少し回った頃合だった。現場は既に封鎖され、通りすがりの野次馬や近所の住民が遠目から様子を伺い見ている。
正面のコンビニに駐車許可を取りに行っていた夏波は、志賀から一歩遅れて交番に走る。交番の入り口は横に引くタイプのガラス戸で、手前の地面には現場保存の白いテープが貼られていた。踏まないように注意しつつ覗くと、赤黒い染みの様な物が白テープに囲まれている。
「……血?」
「夏波、こっちだ」
顔を上げると、奥の部屋から剣が顔を出し、手招きをしていた。
通町交番は入り口から見える作業場と、休憩用と思わしき部屋、そしてトイレの三部屋しかない極小さな交番のようだ。
慌ただしく作業をしている数名の鑑識に挨拶をしつつ、剣の元へ歩く。
「すみません、遅くなりまし……た」
休憩部屋に立ち入るなり、思わず声を失いかけた。
そこに広がっていたのは、目が眩むような世界だ。床は至る所が白い砂のようなものに埋め尽くされ、その中央に例の写真の彫刻が横たわっている。
剣は夏波の到着と同時に、志賀に向けて仔細を話し始めた。
「……本来ここで交番勤務をしているはずの警官1名と連絡が取れん。入口に血も落ちていたし、こんな悪趣味な物もあるし、誘拐の可能性を加味して鑑識は呼んだ。……一応お前が言った通り、誰も触らないように指示してある」
「村山はどうした」
「周辺住民の地取りだ」
「そうか」
剣の言葉に頷いてから、志賀は塩の彫刻の横にしゃがむ。全てが白く染まっていて上手く判別はつかないが、恐らく三十代くらいの男性だ。服装から警官であることは明白で、腕や足の一部が砕け散ってしまっている。
「あの、僕……」
「駄目だ」
触ってみます、と言う前に否定された。だが、流石にここで食い下がらない訳にも行かない。
――もし、僕の能力が、こうなってしまった人を元に戻せるなら
「元には戻せない」
一瞬、志賀に思考を読まれたのかと肩を飛び上がらせた。しかし、彼はじっと横たわる男性を見つめているだけで、夏波を見ていた訳ではない。
「でもっ……!」
「そもそも条件が定かじゃない。今度こそお前がこうなる可能性もあるんだ」
「……それでも、試したいです」
人が生き返るかもしれないのだ。今回ばかりは折れるわけにはいかなかった。
真剣な面持ちで訴えると、志賀はやがて「勝手に触られるくらいなら」と渋々ながらに折れる。
そのやり取りに終始疑問符を浮かべていたのは剣で、心配そうに夏波を見やっていた。
「おい」
近付こうとした剣を遮る形で志賀が立ちはだかる。夏波はその間に右の手袋を外すと、そっと倒れた男性の腕に触れた。しかしいくら待っても何の変化も起こらない。心の底から願っても、天の神様に祈っても、そこにあるのはもはや人であったかすら定かではない遺体だけだ。
「……もういいだろ。延焼起こったらどうするつもりだ。手ェ離せ」
志賀の指示に従って、夏波は力なく腕を下ろす。夏波に例の延焼とやらが見られない事だけが救いなのだろうか。
その場にいた剣と鑑識は、それを困ったように見ていた。本来なら、夏波の行動は現場保存をしているのだから触るなと厳重注意を受けるものだ。だが、夏波が触れたことで塩の塊の一部が若干量崩れ、これが人間の身体ではないことが明白となった。単なるいたずらにしては規模と悪趣味が過ぎるものの、今捜査しているのが何なのか懐疑的になるのも仕方のない事である。
胸に鉛が詰められたかのような感覚に、夏波は視線を落とす。
ふと、その横にしゃがみこんだ志賀が遺体に向けて手を合わせた。瞼を落としている彼に倣って、夏波も同じように合掌する。
「能力は奇跡を起こす力なんかじゃない」
長い沈黙の後、目を開いた夏波の頭上に声が落ちた。見上げれば、志賀が天井からの明かりを遮って夏波を見下ろしていた。彼は夏波と目が合うなり、ふいと顔を反らし背を向けてしまう。
「それがどんなに良い力に見えても、だ」
夏波が声をかける前に志賀はその場にいた鑑識に呼ばれ、そちらへと足を向ける。鑑識は搬送についての指示を仰いでいるようだった。
夏波は再び、目の前の遺体を見た。
そう、“遺体”なのだ。この人は間違いなく、亡くなった人間だ。だが、例えばこの人に家族がいたとして、この遺体を見たらどう思うのだろうか。
――僕なら、信じられない。
信じたくないのではない。信じられない。例え警察がどんなに真面目な面持ちでそれを伝えてきたとしても、人間が塩になっただなんて信じる事はできないだろう。
いや、そもそも警察ですら、今目の前に居る彼を“遺体”として判断はしない。このままただの悪趣味な彫刻として処理し、その後居なくなった彼を行方不明として家族に伝える。その可能性の方が高いのではないだろうか。そうなれば、家族は一生帰ってくることのない彼を待つことになる。
伊霧匠に、志賀が『両親は亡くなった』と言い切った理由が今更腑に落ちた。
――なら、どうして僕と彼は
ゆっくりと、もう一度だけ先程触れた部分へと右手を伸ばした。自分のせいで欠けてしまった場所。もう二度と同じように修復できない傷。人間であれば、決してこんなことは起こらないのに。
触れた。その直後だった。