5-3 受け付けない
文字数 5,241文字
「うわ……凄い……」
銀の円柱状の建物が印象的な、仙台駅東口に位置するコンサートホール。その入口前には厚手の上着を着込んだ人間が長蛇の列を成していた。
幾人かの警備員が列の行き先をさばき、統制が崩れないよう誘導の声を張り上げている。が、それすら掻き消す程の喧騒が空気を鳴らしていた。
そんな状況を遠巻きに眺め、志賀は仏頂面のまま
「圧巻だな」
と、辟易した様子で呟く。
「俳優さんのトークライブってもっとこう、小規模なものかと思ってたんですけど、そんなことないんですね?」
「分からん。俺はこういうのに来たことがないんでな」
小規模などとは程遠い。ごった返す、というほど雑然としてはいないが、人は溢れかえっている。
談笑しながら、或いは手元の携帯端末をいじりながら、人々は少しずつ建物内へ足を踏み入れていた。しかし、全員が収まり切るには相当の時間がかかりそうだ。
「随分と進みが遅いが……。入り口で何か配ってるのか?」
「特典品があるみたいですね。とりあえず僕達も並びましょうか?」
幾重にも折り返す人の列。その最後尾を探し当て、夏波は少し嬉しそうに志賀に笑いかけた。
「お前……人混み苦手じゃないのか」
コートのポケットに両手を埋めて歩く志賀の顔色は、あからさまに悪い。
「志賀さんは苦手ですか?」
「得意じゃない」
素っ気なく答え、志賀はさっさと夏波の指さした方向へと足を向けた。
「僕は、こういう人混み何となく好きなんです」
「変わってんな」
「そうですかね?」
「嫌いな人間のほうが多いだろ」
「うーん……、確かに好きって人に会ったことはありませんけど……でも、こんなに沢山人がいるのに、誰も僕らのこと知らないんですよ?何となく『ふたりっきり』って感じがして面白くないですか?」
「何を言ってるのかさっぱり分からん」
志賀は肩をすくめ、薄く笑う。
「え……」
その瞬間、心臓の脈拍が一度詰まり、押し出されるようにして大きく鳴った。目を見開き、夏波は志賀を凝視する。
だが、すぐに仏頂面に戻った志賀に「何だ」と睨まれ、しどろもどろになりながら明後日の方向に視線を逃がした。
「な、なんでも、ないです、よ」
「お前……マジで誤魔化すの下手なんだな」
「い、いやだって……」
「だって、なんだ」
「えと……」
――笑ったところ、初めて見たので
と。単にそう返せばいいはずが、喉に言葉が引っかかって上手く出てこない。それが何故なのか自分でも分からず、夏波は軽くパニックを起こしながら口をへの字に曲げた。
そもそも、志賀が雑談らしい雑談に乗ってくれるようになったのも、先日夏波が泣きついて以降の話だ。夏波としては話してくれるのは嬉しいのだが、近頃どうしてか言葉に詰まることが増えてきてしまった。
それは決して、いつもの『嫌われたらどうしよう』という不安からくるものではない。ただ、照れ臭さに似た感情に邪魔されて、つっとつまってしまうのだ。
「この先入場のため、QRコードの確認を行います。お手持ちのチケット、もしくは携帯端末でのご提示の準備、お願いいたします」
前方でスタッフが声を張り上げている。夏波たちの後ろにも既に幾人もの人間が並んでおり、夏波はこれ幸いと話題を打ち切って、鞄の中を掻き回した。
「ほ、ほら、チケット準備した方が良いらしいですよ!」
「白々しいにも程ってモンがあるだろ」
「きゅ、QRコード!ってどれですかね!?」
夏波はかつてミツキから受け取ったチケットを取り出して忙しなくひっくり返す。しかし、「あれ……?」と呟くと、まじまじとそのチケットを凝視した。
「そんなのあります……?」
「あ?……俺のは載ってるが」
ポケットから無造作に出された志賀のチケットには、表面に白黒のまだら模様が記載されていた。
彼には以前夏波が正規の手続きを踏んで購入したものを渡してある。しかし、夏波がもらったチケットと見比べてみると、書かれている内容こそ同じであるものの、まだら模様が見当たらない。
ゆるゆると進み続ける人の流れから少し外れ、建物の入り口を見やれば、どうやら機械にチケットをかざして内部に立ち入る仕組みのようだと分かった。このまま進めば立ち往生が目に見える。
「ど、どうしよう……もしかして偽物――な訳無いですよね、本人から貰ったものだし……」
「からかわれたか?」
「いや、まさか……」
三科でもあるまいし。そもそも、三科でもそんな質の悪いいたずらはしない。
これまでのミツキの態度を鑑みて、夏波をからかうためにチケットを渡したとは考えづらいものがある。
「あの、すみません」
チケットの準備を列に呼びかけていたスタッフが近くを通ったタイミングを見計らい、夏波は手を上げて呼び止めた。
「これ、……その、イベントの関係者の方にいただいたチケットなんですけど、QRコードが書いてなくて」
スタッフの女性は夏波の差し出すそれを受け取ってまじまじと見つめ、徐に紙を手で覆って覗き込んだ。
「こちらへどうぞ」
そしてニコリと微笑み、チケットを夏波に返すと、建物の方へと促す。一瞬呆気に取られた夏波が志賀を見やるが、
「行くぞ」
そう言って先に列を抜けたのは志賀の方だ。
「えっ、ちょ、ちょっと?!」
入り口を目前にして列から外れる志賀に、前後の人間の視線が集まる。しかし彼は全く意に介さない。スタッフも一瞬不思議そうな顔を浮かべてはいたが、すぐに夏波が付いてくるのを確認し、改めて先を歩き始めた。
「ど、……どういうことでしょう……?」
「どういうことも何も、お前はご丁寧に特別枠での招待なんだろ」
「何で分かるんですか?」
「お前のチケット、あのスタッフと同じように手で覆ってのぞいて見ろ」
判然としないまま、夏波は滋賀の言う通りにチケットを手で覆う。そしてその隙間から中を覗き込むと、薄ぼんやりと発行する文字が浮かんでいた。
「これ、蛍光塗料ですかね……?ス……ペ……、スペシャルゲスト……?」
夏波の言葉に、志賀はうんざりした様子で返す。
「QRで管理した方が早いし確実だろうに……。余程演出がかったやり方が好みと見える」
その言葉にどこか棘があるのは、志賀の気質によるものなのか、それともミツキに何か思うところがあるからなのか。夏波には分からない。
スタッフに連れられるまま、二人は関係者以外立入禁止と札の貼られた入り口から建物内に入り、廊下を進んでいく。人々の喧騒は相変わらず耳に届いているものの、奥に入り込むほどにそれはくぐもって、ざわめきほどの大きさに変わっていった。
やがて、女性スタッフはこちらに近づいてきたスーツ姿の男性と2、3言葉を交わすと、今度はその男性に付いて行くよう指示をする。
大人しく言われるがままに流され、辿り着いたのは、控室として使われているのだろう部屋の前だ。スーツの男性は躊躇なく扉をノックすると、返事を待ってからドアノブを捻った。
「ミツキさん、いらっしゃいましたよ」
声をかけるや否や、バタバタと内部から音がする。男性スタッフが内部に一歩立ち入った途端、
「夏波さん!」
それと入れ替わるかのように、内部からミツキが飛び出してきた。
「お待ちしてました!良かった、開演前にお会いできて!」
「わ、わっ、顔がッ!」
抱きつかんばかりに近づいたミツキの顔面が目前に迫り、夏波は思わず仰け反るようにして一歩下がる。ミツキは興奮気味に夏波の手を取ると、両手を握りながらまくし立てた。
「連絡にもなかなか反応なかったから心配で……!もし会いに来てくれなかったらどうしようって……」
「あ、あの……その」
と、そこで志賀がわざとらしく一つ咳払いをした。はっと顔を上げたミツキは目を丸くする。
「あっ……、し、志賀さん?な、なんで……」
「保護者同伴ってだけだ。お前らの関係にどうこう言うつもりで来たわけじゃない。……だが」
ちらり、と志賀は通路に視線を向けた。
この場には勿論関係者しかいないのだろうが、ミツキの事をよく知っている人間ばかりというわけでもない。単なるイベントスタッフや、日雇いのバイトも数多く混じっているはずなのだ。扉を開け放ち、夏波と密着――あまつさえ手を握っているこの状況は、明らかに人目を引いていた。
「ミ、ミツキさん、とりあえずあの……」
夏波は彼の手から逃れようと試みる。しかしミツキは離すどころかしっかりと手首を握り直し、夏波の手を嬉しそうに引いて室内に連れ込んだ。
「開演まで時間がないので、長くはお話できないんだけど」
「いえ、全然、ホントに、お構いなく……」
特に言及されなかった志賀は、何を言うでもなく内部に入って扉を閉め、入り口横の壁に背中を預けた。
ミツキは完全に、志賀の存在を無視することに決めたようだ。
「久しぶりに顔が見れて嬉しいよ。最近スケジュールが分刻みで全然会いに行けなくてさ」
「大変なのは知ってますから、そんな……。むしろ突然お邪魔する形になってしまってすみません。まさかお会いできるとは思ってなくて……」
「ボクがどうしても会いたかったんだ。だから、スタッフ全員に、いつであっても必ず連れてきてってお願いして回ったんだよ。ちょっと特別感があって良いでしょ?」
できたら事前に知らせてほしかった、というのが素直な感想だが、言えば落ち込むことが目に見えているので、ぎこちない笑顔で受け流す。
ミツキはお構いなしに、夏波の両手を握ったまま、いささか興奮気味に話を続けた。
「できるだけ多くの人を呼びたいなって思って、曲を出してみたり、テレビで声掛けの場を設けさせてもらったりで頑張ったんだ。今日を心から待ち望んでた。だからね、きっと夏波さんも、気に入ってくれると思うんだよ!」
「う、歌とかも披露されるんですか?」
「あぁ、そっか、公演内容はシークレットにしてたんだった。でも、歌以外にも色々あるからさ!上手くいくといいんだけど」
てれてれとミツキははにかんで、夏波を上目遣いで見た。
この大規模なライブ会場に押し掛けたファンに見られたらどうなるか分かったものではない状況に、軽い頭痛さえ覚える。
「そろそろ開演時間だが、良いのか」
ため息混じりの声。
顔を上げたミツキが、僅かに眉を顰めて志賀を見る。
しかし先に反応したのは、困ったように様子を眺めていた男性スタッフだ。志賀の言葉にこれ幸いと頷き
「そうですね。ミツキさん、そろそろスタンバイしないと……」
と促した。
一瞬ミツキの手の力が緩んだ隙に、夏波はするりと彼の手を抜け出し、後ずさって笑顔を浮かべる。
「お忙しいところにすみませんでした。僕らも席に向かうので……」
「そっか……」
不満げだ。しかし、時計を確認してミツキは息をつく。と、すぐさま取り直すように首を振り、笑顔を顔に貼り付けた。
「ねぇ、この公演が終わったら、また会いにきてくれないかな?その……できたらふたりきりで会いたいんだけど」
「えっ?」
その誘いに、思わず呆気にとられる。
――ふたりきりでって……
それはつまり『志賀が邪魔だ』と言っているのだと、流石の夏波でも理解ができた。
喉の奥に苦い何かが引っ掛かるが、必死に飲み下す。
「今日ですか?」
「うん。明日には東京に戻らなきゃいけないし、きっと忙しくなっちゃうから今日がいいんだ。そんなに時間は取らせないからさ。……だめかな?」
背後の志賀がどんな顔をしているのか気になって仕方がない。出来ることなら確認したいが、美月の圧がそれを許そうとはしなかった。
「イベントの感想も聞きたいし、何より君の顔が見たい」
「そ、その……」
「ね、お願い」
ミツキにじっと見つめられ、夏波は視線を逸らす。
夏波の心には暗雲が立ち込めるばかりだ。ため息を愛想笑いで濁す夏波に、ミツキはゆっくりと手を伸ばした。瞬間的に拒否感が胸に渦巻いたが、まさか振り払うわけにも行かず、身を強張らせる。
しかし、
「おい」
部屋の端からかかった声に、その手は止まった。
「今日は予定あんだろ」
「えっ……」
「行くぞ」
振り返ると、志賀が扉のドアノブに手をかけてこちらに顔を向けていた。だが、夏波と目が合うなりふいと背け、さっさと扉を引き開けてしまう。
夏波はそんな志賀に引き寄せられるように、ふらりと足を踏み出した。
「夏波さん」
背後でミツキがなおも手を伸ばす気配。その手をできるだけ自然に避けつつ、早口で捲し立てる。
「ご、ごめんなさい。そういえば今日僕予定あって……っ!だからその、また今度!僕もそろそろお暇します!ライブ、頑張ってくださいね!」
「あ、待っ……」
呆気にとられるミツキを置いて、志賀の後を追った。ペコリと頭を下げ、扉で彼の視線をシャットアウトする。
助かった、と。そう思ってしまったことに小さく心を痛めながらも、夏波はパタパタと志賀の背に追いつく。
「……」
楽屋に取り残されたミツキが、不満気に扉を睨みつけていたことなど、知るよしもなく。
銀の円柱状の建物が印象的な、仙台駅東口に位置するコンサートホール。その入口前には厚手の上着を着込んだ人間が長蛇の列を成していた。
幾人かの警備員が列の行き先をさばき、統制が崩れないよう誘導の声を張り上げている。が、それすら掻き消す程の喧騒が空気を鳴らしていた。
そんな状況を遠巻きに眺め、志賀は仏頂面のまま
「圧巻だな」
と、辟易した様子で呟く。
「俳優さんのトークライブってもっとこう、小規模なものかと思ってたんですけど、そんなことないんですね?」
「分からん。俺はこういうのに来たことがないんでな」
小規模などとは程遠い。ごった返す、というほど雑然としてはいないが、人は溢れかえっている。
談笑しながら、或いは手元の携帯端末をいじりながら、人々は少しずつ建物内へ足を踏み入れていた。しかし、全員が収まり切るには相当の時間がかかりそうだ。
「随分と進みが遅いが……。入り口で何か配ってるのか?」
「特典品があるみたいですね。とりあえず僕達も並びましょうか?」
幾重にも折り返す人の列。その最後尾を探し当て、夏波は少し嬉しそうに志賀に笑いかけた。
「お前……人混み苦手じゃないのか」
コートのポケットに両手を埋めて歩く志賀の顔色は、あからさまに悪い。
「志賀さんは苦手ですか?」
「得意じゃない」
素っ気なく答え、志賀はさっさと夏波の指さした方向へと足を向けた。
「僕は、こういう人混み何となく好きなんです」
「変わってんな」
「そうですかね?」
「嫌いな人間のほうが多いだろ」
「うーん……、確かに好きって人に会ったことはありませんけど……でも、こんなに沢山人がいるのに、誰も僕らのこと知らないんですよ?何となく『ふたりっきり』って感じがして面白くないですか?」
「何を言ってるのかさっぱり分からん」
志賀は肩をすくめ、薄く笑う。
「え……」
その瞬間、心臓の脈拍が一度詰まり、押し出されるようにして大きく鳴った。目を見開き、夏波は志賀を凝視する。
だが、すぐに仏頂面に戻った志賀に「何だ」と睨まれ、しどろもどろになりながら明後日の方向に視線を逃がした。
「な、なんでも、ないです、よ」
「お前……マジで誤魔化すの下手なんだな」
「い、いやだって……」
「だって、なんだ」
「えと……」
――笑ったところ、初めて見たので
と。単にそう返せばいいはずが、喉に言葉が引っかかって上手く出てこない。それが何故なのか自分でも分からず、夏波は軽くパニックを起こしながら口をへの字に曲げた。
そもそも、志賀が雑談らしい雑談に乗ってくれるようになったのも、先日夏波が泣きついて以降の話だ。夏波としては話してくれるのは嬉しいのだが、近頃どうしてか言葉に詰まることが増えてきてしまった。
それは決して、いつもの『嫌われたらどうしよう』という不安からくるものではない。ただ、照れ臭さに似た感情に邪魔されて、つっとつまってしまうのだ。
「この先入場のため、QRコードの確認を行います。お手持ちのチケット、もしくは携帯端末でのご提示の準備、お願いいたします」
前方でスタッフが声を張り上げている。夏波たちの後ろにも既に幾人もの人間が並んでおり、夏波はこれ幸いと話題を打ち切って、鞄の中を掻き回した。
「ほ、ほら、チケット準備した方が良いらしいですよ!」
「白々しいにも程ってモンがあるだろ」
「きゅ、QRコード!ってどれですかね!?」
夏波はかつてミツキから受け取ったチケットを取り出して忙しなくひっくり返す。しかし、「あれ……?」と呟くと、まじまじとそのチケットを凝視した。
「そんなのあります……?」
「あ?……俺のは載ってるが」
ポケットから無造作に出された志賀のチケットには、表面に白黒のまだら模様が記載されていた。
彼には以前夏波が正規の手続きを踏んで購入したものを渡してある。しかし、夏波がもらったチケットと見比べてみると、書かれている内容こそ同じであるものの、まだら模様が見当たらない。
ゆるゆると進み続ける人の流れから少し外れ、建物の入り口を見やれば、どうやら機械にチケットをかざして内部に立ち入る仕組みのようだと分かった。このまま進めば立ち往生が目に見える。
「ど、どうしよう……もしかして偽物――な訳無いですよね、本人から貰ったものだし……」
「からかわれたか?」
「いや、まさか……」
三科でもあるまいし。そもそも、三科でもそんな質の悪いいたずらはしない。
これまでのミツキの態度を鑑みて、夏波をからかうためにチケットを渡したとは考えづらいものがある。
「あの、すみません」
チケットの準備を列に呼びかけていたスタッフが近くを通ったタイミングを見計らい、夏波は手を上げて呼び止めた。
「これ、……その、イベントの関係者の方にいただいたチケットなんですけど、QRコードが書いてなくて」
スタッフの女性は夏波の差し出すそれを受け取ってまじまじと見つめ、徐に紙を手で覆って覗き込んだ。
「こちらへどうぞ」
そしてニコリと微笑み、チケットを夏波に返すと、建物の方へと促す。一瞬呆気に取られた夏波が志賀を見やるが、
「行くぞ」
そう言って先に列を抜けたのは志賀の方だ。
「えっ、ちょ、ちょっと?!」
入り口を目前にして列から外れる志賀に、前後の人間の視線が集まる。しかし彼は全く意に介さない。スタッフも一瞬不思議そうな顔を浮かべてはいたが、すぐに夏波が付いてくるのを確認し、改めて先を歩き始めた。
「ど、……どういうことでしょう……?」
「どういうことも何も、お前はご丁寧に特別枠での招待なんだろ」
「何で分かるんですか?」
「お前のチケット、あのスタッフと同じように手で覆ってのぞいて見ろ」
判然としないまま、夏波は滋賀の言う通りにチケットを手で覆う。そしてその隙間から中を覗き込むと、薄ぼんやりと発行する文字が浮かんでいた。
「これ、蛍光塗料ですかね……?ス……ペ……、スペシャルゲスト……?」
夏波の言葉に、志賀はうんざりした様子で返す。
「QRで管理した方が早いし確実だろうに……。余程演出がかったやり方が好みと見える」
その言葉にどこか棘があるのは、志賀の気質によるものなのか、それともミツキに何か思うところがあるからなのか。夏波には分からない。
スタッフに連れられるまま、二人は関係者以外立入禁止と札の貼られた入り口から建物内に入り、廊下を進んでいく。人々の喧騒は相変わらず耳に届いているものの、奥に入り込むほどにそれはくぐもって、ざわめきほどの大きさに変わっていった。
やがて、女性スタッフはこちらに近づいてきたスーツ姿の男性と2、3言葉を交わすと、今度はその男性に付いて行くよう指示をする。
大人しく言われるがままに流され、辿り着いたのは、控室として使われているのだろう部屋の前だ。スーツの男性は躊躇なく扉をノックすると、返事を待ってからドアノブを捻った。
「ミツキさん、いらっしゃいましたよ」
声をかけるや否や、バタバタと内部から音がする。男性スタッフが内部に一歩立ち入った途端、
「夏波さん!」
それと入れ替わるかのように、内部からミツキが飛び出してきた。
「お待ちしてました!良かった、開演前にお会いできて!」
「わ、わっ、顔がッ!」
抱きつかんばかりに近づいたミツキの顔面が目前に迫り、夏波は思わず仰け反るようにして一歩下がる。ミツキは興奮気味に夏波の手を取ると、両手を握りながらまくし立てた。
「連絡にもなかなか反応なかったから心配で……!もし会いに来てくれなかったらどうしようって……」
「あ、あの……その」
と、そこで志賀がわざとらしく一つ咳払いをした。はっと顔を上げたミツキは目を丸くする。
「あっ……、し、志賀さん?な、なんで……」
「保護者同伴ってだけだ。お前らの関係にどうこう言うつもりで来たわけじゃない。……だが」
ちらり、と志賀は通路に視線を向けた。
この場には勿論関係者しかいないのだろうが、ミツキの事をよく知っている人間ばかりというわけでもない。単なるイベントスタッフや、日雇いのバイトも数多く混じっているはずなのだ。扉を開け放ち、夏波と密着――あまつさえ手を握っているこの状況は、明らかに人目を引いていた。
「ミ、ミツキさん、とりあえずあの……」
夏波は彼の手から逃れようと試みる。しかしミツキは離すどころかしっかりと手首を握り直し、夏波の手を嬉しそうに引いて室内に連れ込んだ。
「開演まで時間がないので、長くはお話できないんだけど」
「いえ、全然、ホントに、お構いなく……」
特に言及されなかった志賀は、何を言うでもなく内部に入って扉を閉め、入り口横の壁に背中を預けた。
ミツキは完全に、志賀の存在を無視することに決めたようだ。
「久しぶりに顔が見れて嬉しいよ。最近スケジュールが分刻みで全然会いに行けなくてさ」
「大変なのは知ってますから、そんな……。むしろ突然お邪魔する形になってしまってすみません。まさかお会いできるとは思ってなくて……」
「ボクがどうしても会いたかったんだ。だから、スタッフ全員に、いつであっても必ず連れてきてってお願いして回ったんだよ。ちょっと特別感があって良いでしょ?」
できたら事前に知らせてほしかった、というのが素直な感想だが、言えば落ち込むことが目に見えているので、ぎこちない笑顔で受け流す。
ミツキはお構いなしに、夏波の両手を握ったまま、いささか興奮気味に話を続けた。
「できるだけ多くの人を呼びたいなって思って、曲を出してみたり、テレビで声掛けの場を設けさせてもらったりで頑張ったんだ。今日を心から待ち望んでた。だからね、きっと夏波さんも、気に入ってくれると思うんだよ!」
「う、歌とかも披露されるんですか?」
「あぁ、そっか、公演内容はシークレットにしてたんだった。でも、歌以外にも色々あるからさ!上手くいくといいんだけど」
てれてれとミツキははにかんで、夏波を上目遣いで見た。
この大規模なライブ会場に押し掛けたファンに見られたらどうなるか分かったものではない状況に、軽い頭痛さえ覚える。
「そろそろ開演時間だが、良いのか」
ため息混じりの声。
顔を上げたミツキが、僅かに眉を顰めて志賀を見る。
しかし先に反応したのは、困ったように様子を眺めていた男性スタッフだ。志賀の言葉にこれ幸いと頷き
「そうですね。ミツキさん、そろそろスタンバイしないと……」
と促した。
一瞬ミツキの手の力が緩んだ隙に、夏波はするりと彼の手を抜け出し、後ずさって笑顔を浮かべる。
「お忙しいところにすみませんでした。僕らも席に向かうので……」
「そっか……」
不満げだ。しかし、時計を確認してミツキは息をつく。と、すぐさま取り直すように首を振り、笑顔を顔に貼り付けた。
「ねぇ、この公演が終わったら、また会いにきてくれないかな?その……できたらふたりきりで会いたいんだけど」
「えっ?」
その誘いに、思わず呆気にとられる。
――ふたりきりでって……
それはつまり『志賀が邪魔だ』と言っているのだと、流石の夏波でも理解ができた。
喉の奥に苦い何かが引っ掛かるが、必死に飲み下す。
「今日ですか?」
「うん。明日には東京に戻らなきゃいけないし、きっと忙しくなっちゃうから今日がいいんだ。そんなに時間は取らせないからさ。……だめかな?」
背後の志賀がどんな顔をしているのか気になって仕方がない。出来ることなら確認したいが、美月の圧がそれを許そうとはしなかった。
「イベントの感想も聞きたいし、何より君の顔が見たい」
「そ、その……」
「ね、お願い」
ミツキにじっと見つめられ、夏波は視線を逸らす。
夏波の心には暗雲が立ち込めるばかりだ。ため息を愛想笑いで濁す夏波に、ミツキはゆっくりと手を伸ばした。瞬間的に拒否感が胸に渦巻いたが、まさか振り払うわけにも行かず、身を強張らせる。
しかし、
「おい」
部屋の端からかかった声に、その手は止まった。
「今日は予定あんだろ」
「えっ……」
「行くぞ」
振り返ると、志賀が扉のドアノブに手をかけてこちらに顔を向けていた。だが、夏波と目が合うなりふいと背け、さっさと扉を引き開けてしまう。
夏波はそんな志賀に引き寄せられるように、ふらりと足を踏み出した。
「夏波さん」
背後でミツキがなおも手を伸ばす気配。その手をできるだけ自然に避けつつ、早口で捲し立てる。
「ご、ごめんなさい。そういえば今日僕予定あって……っ!だからその、また今度!僕もそろそろお暇します!ライブ、頑張ってくださいね!」
「あ、待っ……」
呆気にとられるミツキを置いて、志賀の後を追った。ペコリと頭を下げ、扉で彼の視線をシャットアウトする。
助かった、と。そう思ってしまったことに小さく心を痛めながらも、夏波はパタパタと志賀の背に追いつく。
「……」
楽屋に取り残されたミツキが、不満気に扉を睨みつけていたことなど、知るよしもなく。