4-4 処分
文字数 8,852文字
剣は結局、頑として“弱点”を口にしなかった。唯一頼れるアテが閉ざされたとなると、最早耐え忍ぶしか道は無い。
警察学校において、大卒者の初任教養は6ヶ月。現在はその3ヶ月目で、残りもう3ヶ月をこの調子で過ごすのは流石に厳しい。
しかし、ここまで無視を続けたのに今更反応する事も気が引けて、4ヶ月目に突入する頃には、最早志賀と銀の根比べの様相を呈していた。
「オレは銀が折れるにモンエナ5本」
「いや、流石に志賀がキレる方が早いね。10本で」
――賭けてんじゃねぇ、警察見習い共!
内心でキレながらTシャツに腕を通し終え、志賀は更衣室のロッカーを乱雑に閉める。ひそひそとこちらを覗い見ながら話していた男子が、「ヤベ」と漏らし、そそくさとその場を離れた。
「あ、太陽!」
更衣室の前で待ち構えていた銀を、志賀はやはり無視する。
いつの間にか下の名前、それも呼び捨てで呼ばれ始めている事も、恐らくはツッコミ待ちなのだろう。反応したら負けだ。
「今日の夕飯なんだろね!」
志賀はいつまでも彼女の存在を無視し続けたが、彼女はお構いなしに、前に出た鶏肉が美味しかっただの、今日の講義の内容がどうだのと話を繰り広げる。頭の中身を全てぶちまけているのではないかと疑うほどだ。
当然内容など理解してはいないのだが。
「……あっ」
ふと、それまで1人楽しげに話していた銀の口が止まった。一瞬気になりはしたが、志賀が足を止めることはない。しかし隣を歩く銀は、じろじろと志賀の腕を横から見つめ続けている。
何なんだと声をかけるか、食堂に逃げ込むまで耐えるかで迷う所だ。――が、その思案は突如として中断を余儀なくされる。
不意に銀が手を伸ばし、志賀の腕に触れたのだ。流石に問答無用で手を伸ばしてきた事は久々で、志賀は大きく振り払い、銀を睨む。
「触んな」
しかし、銀は呆然と志賀を凝視するばかりで応答しない。
志賀が銀に触れられた箇所は、つい先程行った逮捕術の訓練時についたかすり傷だ。擦った程度で全く痛みはないが、触られると流石に焼けるような感覚がある。
「ご、ごめん……」
銀はやはり呆然と呟く。志賀はそんな彼女から早々に視線を外すと、それ以上の言葉は告げずに歩いた。
背後から足音はついてこない。
――鬱陶しい
銀の奇行はいつもの事だ。彼女の行動をいちいち気にしていては身が持たない。どうせ志賀の反応を引き出す為に行った事なのだろうと結論付け、歩き去る。
しかし、その日銀の姿を見たのはそれが最後だった。
翌日、
「おはよ!太陽!」
大きな挨拶をかます銀の調子は、ほぼ完全に元に戻っていた。いつも通り志賀に纏わりつき、楽しげに他愛の無い話を繰り広げる。
――何だったんだ
流石に気になる。が、問いかけてしまえば彼女の思うツボにハマるかもしれないと思うと、声をかける気も失せた。結局、志賀は志賀で平常を保つ事しかできないのだ。胸の中の靄は解消される事はなく、銀も昨日の奇妙な行動について言及する事はただの一度もなかった。
銀に対する感情が積み重なる事を嫌って、より一層距離を取ろうと試みても、彼女はやはりしつこく――むしろ以前よりもしつこさを増して――志賀に付き纏った。
話しかけ続ける銀と無視し続ける志賀の構図に周囲が慣れ始めたのは七月に入ってから。最早仲が良いのでは、などという悍ましい噂が流れ始めたのは、八月の盆休みを超えた頃合いだ。
いい加減無視ではなく話し合いをすべきなのではという思考が浮かぶ程、志賀は辟易していたが、銀は全くへこたれる様子を見せない。
根比べも終盤かと同期に噂され、剣に「いい加減折れろや」と笑われた八月下旬。
いつもの様に志賀の隣に陣取った銀の様子が、いつもより少しだけ沈んでいた。
黙々と食事を摂る2人の間にほとんど会話はない。いや、元々会話自体はないのだが、普段1人で喋り続けているはずの銀が、やけに静かなのである。キレの悪い世間話を繰り広げては、ふと黙り込んで食事をつつくを繰り返す彼女は、まるで何かがあったと言わんばかりだった。
けれど、やはり今更『何かあったのか』と問うのも癪で、志賀は何時もの通り無視をする。無視をするのだが、
――クソ、気になる
これまで毎日一定の調子を保っていた銀の異変に、ペースを乱されているのは明白だ。自分が銀にすっかり慣れてしまっていたのだという事実に、志賀は苛立った。
一体何が原因なのか。思考を巡らせるが、分かるはずもない。付きまとわれているとはいえ、そもそも教場――警察学校におけるクラス――が違う銀の事を、志賀がいちいち把握している訳がないのだ。できるだけ興味を持たないように振る舞っているのだから尚更である。
苛々と朝食を食べ進める志賀の隣で、銀はコトリと茶碗を置いた。
そして、
「あの……」
口を開き
「……何でもない」
すぐ噤む。
――コイツ、万が一計算でやってたらブッ潰す
結局、その日に銀のテンションが回復することはなかった。そのくせ志賀から離れようともしないので、苛立ちは募るばかりだ。
次の日も、その次の日も、銀は大人しかった。独り語りの量は格段に減り、ぼーっと何かを考え続けている。
そして金曜日。彼女は最後のコマが終わるなり
「またね」
と笑顔で手を振って、あっさりと女子寮へ駆け戻っていったのだ。
流石の志賀も頭を抱えざるを得なかった。
「あー……クッソ……」
寮に戻ってからも銀の事が頭から離れず、全く勉強に身が入らない。パキリ、とシャー芯が折れる音にすらささくれ立つ。
苛々する事そのものに疲れ始めた志賀は、致し方なく班長に許可を取って散歩に出る事にした。
金曜の夜からは、外出要請を出せば警察学校から外に出ることが可能なのだ。
とはいえ、目的地がある訳ではない。
生温い風。植え込みのどこかで虫が鳴いている。表通りに出ると車の走行音がひたすらこだまし、ライトがチラホラと視界を奪った。
胸がざわつく。銀の顔がちらつく。頭を振ってなんとか追い出し、足を前に進めた。
近場のコンビニに無意味に入って、適当な缶コーヒーを手に取る。そういえば歯磨き粉も切れかけていたなと思い、それも一緒にレジに通した。店員の気だるげな挨拶を背中に受けながら、ふらりと店の外に出て、そうして何気なく空を見上げる。
綺麗な月夜とは言えないなと、ざっくばらんな感想を抱いた。片割れ月の夜だ。灰色のボロ布のような雲が月の仄明かりを遮っている。深い紺色が地平の果てまで帳をおろし、街の灯りを煩そうに受け止めていた。
捻くれた景色の見方だと、志賀は自嘲する。もう少し詩情に富んでいれば気が紛れたものを、こんな調子では散歩ですら無意味だ。もう少し遠回りでもして帰ろうかと思っていたが、志賀はそれすら諦めて帰路を辿る。
その道すがら、ぼんやりと歩いていた志賀の目が、ふと見覚えのある後ろ姿を捉えた。
――銀
道路の反対側の歩道をトボトボと歩く銀の姿。彼女は私服に身を包み、中身の詰まっているのだろうリュックサックを背負っている。恐らく帰省か外泊をするつもりなのだ。
ということは、明日からの休暇は部屋に閉じこもっていなくとも銀に付きまとわれないということ。一月 前までなら確実に安堵していた。しかし今彼女の姿を見て湧き上がる感情は苛立ちだ。
――何なんだ
心を掻き乱される事を嫌って、銀から視線を外そうとする。しかし、そんな志賀の視界の端で銀は一瞬立ち止まると、キョロキョロと辺りを見渡し、そしてビルとビルの間に身を滑り込ませてしまった。
――何してんだ、アイツ
帰省するのなら、駅は彼女が歩いていた方向と反対方向だ。近くにバス停がある訳でもない。そもそもあんな大荷物を持って、一体何をしに路地裏へ入ったのか。
志賀の足はいつの間にか横断歩道を渡り、彼女の姿を追っていた。
路地は表通りの街灯の光を追い返しており、非常に薄暗い。背後からの車の走行音が吸い込まれるように暗闇へ消えていく。銀の姿は確認できない。――が
「落ち着いて!ね!」
志賀の耳が声を拾った。間違いない。昼間うんざりするほど聞いている銀の声だ。
志賀は暗闇に足を踏み入れた。声は近づくにつれよく聞こえ、そしてビルの裏手に出た所で、しゃがみこんだ銀の姿を視認できた。
「たす、……助けて……あたし、あたし何も……」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
銀は、制服を着た少女の頭を優しく撫でていた。少女が着ている制服はこの近くの高校のもので間違いないが、随分と薄汚れているように見える。
彼女らはビルの壁を背にして座り込み、うずくまるようにしてそこにいた。
「ちゃんと話聞くからね」
銀は穏やかに語りかけていたが、女子高生は顔を手で覆い、泣きじゃくり続けている。
ざり、と志賀の靴がコンクリートを鳴らした。
瞬間、銀が咄嗟に頭を上げ、強張った顔でこちらを見る。
「――太陽?」
志賀が黙って近づくと、銀の表情が少しばかり和らいだ。
しかし女子高生は首をすくめて銀に身を寄せ、自分の肩を抱く。怯えさせたのだと悟り、志賀はそこで歩みを止めた。
「……そいつは」
「あ、えと、何か悲鳴が聞こえて、こっちに来たらこの子がいて」
詳しい事は何も、と言いながら銀は首を横に振った。
「怪我はあるのか」
「擦り傷がたくさん……。服もボロボロだし、何があったか分からないけど相当錯乱してるから……」
「とりあえず、救急車呼ぶぞ」
そう言って、志賀はポケットから携帯端末を取り出す。電源をつけて番号を入力しようとした、――その時だ。
「必要ないわ」
冷たい声がその場に響いた。背後からだと分かって、志賀は首を回す。
「私達が対処しますので」
にこやかな笑みを浮かべて近付いてきたのは、黒いパンツスーツ姿の女性。長い黒髪をひとつ結びにし、背筋を伸ばして立つその姿は、まるで女優かモデルのようだと志賀は思う。
「対処……?」
思わず口に出したその言葉を、女性は肯定した。
「ええ。警察よ」
そう言うと、胸元から手帳を取り出して開いて見せる。
暗くてはっきりとは見えないが、暗闇に慣れた目が警察手帳である事だけを認識した。
ほっと安堵の息をついたのは銀だ。
「よ、良かった。助かります。あの――」
「いやぁァッ!!」
立ち上がろうとした銀の隣で、甲高い悲鳴がを上がった。何事かと目を向けると、女子高生はビルの壁に背中を押し付けながら立ち上がり、脱兎の如く逃げ出してしまう。
「あ、ちょっと!」
咄嗟に銀が手を伸ばすが、虚空を切った。追い縋って走り出す銀。それを追おうと志賀も足を踏み出し――目を見開く。
「銀ッ!!」
ほとんど反射だった。全力でコンクリートを蹴って銀に追いつくなり、覆いかぶさるようにして飛びつく。
瞬間、背後から何かが弾けるような低い音。銀と志賀が地面に倒れ込むと同時に、前を走っていた女子高生がけたたましい悲鳴を上げ、転んだ。
「い、ッ痛い!!やめてっ、あたし、違……!」
「何が違うの?」
銀の身体を押し倒す形で身を起こし、志賀は顔を上げる。背後からの靴音は、そんな志賀と銀の隣を悠々と通り過ぎると、腕だけで這いつくばる少女に近付いた。
「わざとじゃ、……ない……触ったらいきなり……ッ」
「お父さんが溶けちゃった?それは可哀想ね。……お父さんが」
ガチ、とスライドを引く。警察を名乗ったはずの女の手には、どう見ても警察支給のものではない拳銃が握られていた。先程の射出音を聞く限り、サプレッサー付きのものだ。
女はゆっくりと、倒れた女子高生へ拳銃を持った腕を伸ばすと、何の衒いもなく撃ち込んだ。
息を飲んで、思わず銀の目を塞ぐ。それに何の意味がないとしても、何故かそうしなければと本能が働いた。
女子高生は断末魔すらあげず、ぐたりと横たわる。
「な、何、今の……!?」
志賀に馬乗りにされて顔に手を当てられた銀が、焦ったような声を上げる。銀の目を塞いだまま、その身体からゆっくりと下りると、志賀は小声で囁いた。
「おい」
「な、なに?」
「起き上がったら、何も見ずに真っ直ぐ走れ」
「え、ど、どういう事……?」
もしも銀に目の前の惨状を確認させてしまうと、逃げるという選択を取れなくなる可能性がある。それならばもういっそ、何も見せずに逃がした方が確実だ。
「いいから、黙って言う事聞け」
「……言う事聞いたら、僕の話も聞いてくれる?」
下敷きになっていた銀の口調があまりにも子どもっぽく、志賀は一瞬だけ呆気に取られる。が、意固地になっている場合ではないと、半ば投げやりに「ああ」と返事をした。
低い射出音。志賀の目の前で、女は止めとばかりに倒れた女子高生に向けて発砲する。
志賀はゆっくり銀の体を助け起こすと、後ろを向かせる。そして顔から手を外し、彼女の背中をドン、と力強く押した。
「う、うわ!?」
つんのめりながらも、銀は志賀に言われた通り真っ直ぐ走る。
二人の動向に気が付いた女は、顔を顰めながらもう一度拳銃のスライドを引いた。
「……面倒ね」
銀の背中に銃口が向けられる。その射線上に立ちはだかりながら、志賀は体勢を低くして女に走り寄った。タックルの要領で飛び込み、女の下半身に掴みかかって体勢を崩す。
「このガキ……ッ」
銃底で志賀の頭を殴りつけようと女は腕を振るったが、志賀は左手首で受け止めた。そのまま彼女の手首を取って地面に押さえつけ、その手から銃をねじり取る。
――しかし、
「……触ったわね」
拳銃を投げ捨てようとした志賀の身体が、硬直した。
「んだ……これ……」
「あら、意識があるの?」
指の先から眼球まで、何もかもを動かすことが叶わない。手から拳銃を取り落とすなり、女は志賀を投げ飛ばし、立ち上がった。志賀の体は地面に転がって、その瞬間麻痺のような硬直が解かれる。起き上がろうと腕をつくが、顔を上げた志賀の眼前には銃口が向けられていた。
「珍しい」
奥の赤い口紅が、片割れ月を描いた。女の両手が拳銃に添えられる。その指に力が籠もった瞬間に、志賀の命など直様弾け飛ぶのだろう。
――あぁ、やっと
瞼を落とす。心臓はやけに落ち着き払っていた。口元が無意識に吊り上がり、笑みが零れる。
“許される死に方”だと思ったのだ。銀を逃がすために死んだのだとすれば、――きっと許されると。
「……何で笑ってるの?」
何も答える気にはならなかった。
女はしばらく志賀の返答を待っていたようだが、やがて鼻を鳴らす。
「まぁ……どうでも――」
「待て、宮藤君!」
女の言葉を遮って、第三者の声がその場に響いた。
志賀は驚いて目を開くと、咄嗟に声の主を探す。目の前の女も同じ様に首を回しており、やがて2人は一様に同じ場所へと視線を落ち着けた。
「何をしてるんだ、……君は」
ビルとビルの狭間で、藍色のスーツ姿の男が一人立っていた。暗がりで分かるのは、その男が四十代後半、或いは五十代前半程度の年齢であること。そして彼がここまで息せき切って駆けつけてきたのだろうということだ。
「……角井」
宮藤と呼ばれた女は、その男性を認めるなり忌々しげに舌を打った。銃口は志賀に向けたままで、宮藤はゆっくりと立ち上がる。そして、ニコリと能面のような笑みを浮かべて口を開いた。
「どうしてここに?」
「……決まってるだろう。保護の為だ」
「あら、まだそんな甘っちょろい事を仰ってるんですか」
角井と呼ばれた男性は、呼吸を整えながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。
そして、女子高生の沈む血溜まりを目にするとわずかに息を飲んだ。
「……殺したのか」
「前々から言ってますけど、他にどんな手が?代替案出してから言ってもらえます?」
疑問系ばかりの冷ややかな声。男性は顔を歪めて悔しそうに歯噛みすると、壁にもたれて様子を窺っている志賀に視線を向ける。
「だが、……そちらの子を殺す必要はないだろう」
「これは……見られちゃったんですもの。必要措置です」
「何が必要措置だ。一般市民だぞ……!」
「だったらどーしろってのよ!?ぽっと出が偉そうなこと言わないでもらえる!?」
ヒステリックに叫び出す宮藤に、男性は人差し指を一本立て、静かにするようにと指示を出す。宮藤は至極不満そうではあったが、顔を引きつらせながらも銃をしまった。そして彼女は耳につけていたワイヤレスイヤホンのようなものを操作すると、小声で何かを呟き始める。
それを確認した角井は、ほぅと息を吐き出し、背後を振り返って声をかけた。
「銀君、もう出てきて大丈――」
「太陽!!」
男が台詞を言い終わる間もなく、ビルの影から一人の人影が飛び出す。
「し、ろがね……?」
思わず名前を呼ぶ。
駆け寄ってきた銀は、目を丸くする志賀のそばに膝をつくと、目に一杯涙を溜めて抱きついた。
「うわ、なんだお前ッ、離せ!」
志賀の懇願は聞き届けられず、銀はきつく志賀に抱きつく――というよりも、もはや組み付いている。頭を何度か叩き、引き剥がすようにして止めさせると、銀は嗚咽を漏らしながら服の袖で涙を拭い始めた。
緊迫感の欠片もない彼女の様子に拍子抜けしつつ、志賀は問いかける。
「お前……何で戻ってきたんだ」
戻って来ないように、極力状況を伝えずに逃したつもりだった。しかし銀はぼろぼろと涙を落としながら、弱々しく志賀を睨む。
「僕だって、逃されたんだって、事くらい、分かるよ。あんな音と、匂いがしてたら……」
「……そうか」
既に鼻が慣れてしまっているが、この場には硝煙の匂いが薄っすらと漂っている。警察学校の射撃訓練場で何度かかいだ、火薬独特の煙臭さだ。そして、幾らサプレッサー付きと言っても、銃声が完全に消え去る訳ではない。低く短く弾けた音が拳銃によるものだと、あの時点で銀は把握していたのだろう。
「ごめん……ごめんね……」
「……何で謝ってんだ」
「だって、……置いてっちゃったっ……、一緒に逃げるのかと思ってたから、……し、死んじゃってたら、どうしようって……」
どう返せばいいか分からず、志賀は口を閉ざした。
銀は、まさか志賀がその場に残って応戦するとは思っていなかったのだろう。しかしそれに気付いて振り向いた所で、状況が変わる訳ではない。表通りまで逃げ切って、人を連れて戻ってきたのだとすれば、結果的に彼女の判断は正しかったと言える。
――俺としては、失敗だったが
あのまま引き金が引かれていたらどんなに良かったか。
そう思わざるを得なかった。
許されると思える死に方など、なかなか無いのだ。
だが、これで志賀が頭を撃ち抜かれて死んでいたとしたら、今目の前で大粒の涙を流している銀が果たしてどう思うのだろう。
ともすれば、志賀と同じように罪悪感を抱えて生きる事になりはしなかったか。
――ままならないな
だからこそ、難しいのだ。
何もかもを投げ捨てて、しがらみさえ取っ払ってしまえば楽なのに。しかし、自分のせいで自分と同じ苦しみを人に与える事は本意ではない。
志賀は大きくため息を吐き出しつつ、泣きじゃくる銀を困った様に見つめていた。
「それで?どうなさるおつもりですか?」
何処かとの通信を終えた宮藤が口を開く。銀と志賀がはたと顔を持ち上げると、宮藤の冷たい視線がこちらを刺していた。
「というか、コイツ……どっかで見たことあると思ったら、あの時の害獣じゃないですか」
銀を睨む宮藤の目が、更に細まる。銀は怯えるようにして志賀に身体を寄せ、小さく縮こまった。ぽろりとこぼれた涙が、志賀の手袋に落ちる。その途端、じわじわと侵食するように、怒りの感情が志賀の胸を焦がした。
そんな宮藤の視線を遮るようにして、スーツの男が志賀と銀の前に立ちはだかる。
「彼女を侮辱するのはやめてもらおうか」
「侮辱ねー……。まぁ、本当に危害がないのなら、駆除の必要はありませんものね」
本当に、の部分を強調して、宮藤は嘲笑 う。
「けど、そっちのガキはどうするの?見られちゃったのに」
角井はちらりと志賀を一瞥した後、ゆるゆると首を振って宮藤を睨み返した。
「彼もウチで引き取る」
「へぇー、そんな薄汚れたガキを?娘さんの代わりにでもするんですか?」
皮肉げに言う宮藤を、志賀は鼻で笑う。
「はっ……そのガキに得物奪われた雑魚がよくほざく」
「ちょ、ちょっと……!」
銀が慌てた様子で志賀の口を塞ぐが、時すでに遅しだ。宮藤は忌々しげに志賀を睨んで、その整った容姿を歪めた。角井を押し退け、志賀の目の前にしゃがみ込むと、薄暗い笑みの浮かんだ顔を近付ける。
「面白いわねぇ、貴方。さっきも気持ち悪い顔して笑ってたし、ね?」
「距離感バグってんのか?気色悪ィんだよ。そんなに近づくと若作りがバレるぞ、おばさん」
銀の手を外して応答すれば、今度こそ宮藤は志賀を睨みつけた。
「減らず口を……」
そうして手を持ち上げる宮藤の腕を、角井が掴んで止める。
「言ったはずだ。彼もウチで引き取る。君が勝手に手を出すのなら――」
「あー、ハイハイ、分かりました。……ほら、そろそろウチのが来るんで。さっさとどっか行って」
宮藤が角井の手を払うのとほぼ同時に、幾人かの私服警官がぞろぞろとその場に足を踏み入れた。宮藤は彼らに手早く指示を飛ばすと、既に事切れた女子高生の遺体の搬送準備に取り掛かる。
「銀君。それから……君も、悪いが着いてきてもらえるかい」
呆然とその様子を眺めていた二人に、スーツ姿の男が手を差し伸べた。
銀は涙を拭って頷くと、その手を握って立ち上がる。しかし志賀は仏頂面を変えることなく、怪訝そうに男を見上げた。
「何なんだ、アンタは」
「あぁ、そうだね。名乗らなくてすまなかった」
そう言って、男は胸ポケットから手帳を取り出す。
「私は宮城県警刑事部部長、角井 俊 。……よろしく頼むよ」
薄っすらと雲の切れ間から顔を出した片割れ月が、その旭日章を照らし出していた。
警察学校において、大卒者の初任教養は6ヶ月。現在はその3ヶ月目で、残りもう3ヶ月をこの調子で過ごすのは流石に厳しい。
しかし、ここまで無視を続けたのに今更反応する事も気が引けて、4ヶ月目に突入する頃には、最早志賀と銀の根比べの様相を呈していた。
「オレは銀が折れるにモンエナ5本」
「いや、流石に志賀がキレる方が早いね。10本で」
――賭けてんじゃねぇ、警察見習い共!
内心でキレながらTシャツに腕を通し終え、志賀は更衣室のロッカーを乱雑に閉める。ひそひそとこちらを覗い見ながら話していた男子が、「ヤベ」と漏らし、そそくさとその場を離れた。
「あ、太陽!」
更衣室の前で待ち構えていた銀を、志賀はやはり無視する。
いつの間にか下の名前、それも呼び捨てで呼ばれ始めている事も、恐らくはツッコミ待ちなのだろう。反応したら負けだ。
「今日の夕飯なんだろね!」
志賀はいつまでも彼女の存在を無視し続けたが、彼女はお構いなしに、前に出た鶏肉が美味しかっただの、今日の講義の内容がどうだのと話を繰り広げる。頭の中身を全てぶちまけているのではないかと疑うほどだ。
当然内容など理解してはいないのだが。
「……あっ」
ふと、それまで1人楽しげに話していた銀の口が止まった。一瞬気になりはしたが、志賀が足を止めることはない。しかし隣を歩く銀は、じろじろと志賀の腕を横から見つめ続けている。
何なんだと声をかけるか、食堂に逃げ込むまで耐えるかで迷う所だ。――が、その思案は突如として中断を余儀なくされる。
不意に銀が手を伸ばし、志賀の腕に触れたのだ。流石に問答無用で手を伸ばしてきた事は久々で、志賀は大きく振り払い、銀を睨む。
「触んな」
しかし、銀は呆然と志賀を凝視するばかりで応答しない。
志賀が銀に触れられた箇所は、つい先程行った逮捕術の訓練時についたかすり傷だ。擦った程度で全く痛みはないが、触られると流石に焼けるような感覚がある。
「ご、ごめん……」
銀はやはり呆然と呟く。志賀はそんな彼女から早々に視線を外すと、それ以上の言葉は告げずに歩いた。
背後から足音はついてこない。
――鬱陶しい
銀の奇行はいつもの事だ。彼女の行動をいちいち気にしていては身が持たない。どうせ志賀の反応を引き出す為に行った事なのだろうと結論付け、歩き去る。
しかし、その日銀の姿を見たのはそれが最後だった。
翌日、
「おはよ!太陽!」
大きな挨拶をかます銀の調子は、ほぼ完全に元に戻っていた。いつも通り志賀に纏わりつき、楽しげに他愛の無い話を繰り広げる。
――何だったんだ
流石に気になる。が、問いかけてしまえば彼女の思うツボにハマるかもしれないと思うと、声をかける気も失せた。結局、志賀は志賀で平常を保つ事しかできないのだ。胸の中の靄は解消される事はなく、銀も昨日の奇妙な行動について言及する事はただの一度もなかった。
銀に対する感情が積み重なる事を嫌って、より一層距離を取ろうと試みても、彼女はやはりしつこく――むしろ以前よりもしつこさを増して――志賀に付き纏った。
話しかけ続ける銀と無視し続ける志賀の構図に周囲が慣れ始めたのは七月に入ってから。最早仲が良いのでは、などという悍ましい噂が流れ始めたのは、八月の盆休みを超えた頃合いだ。
いい加減無視ではなく話し合いをすべきなのではという思考が浮かぶ程、志賀は辟易していたが、銀は全くへこたれる様子を見せない。
根比べも終盤かと同期に噂され、剣に「いい加減折れろや」と笑われた八月下旬。
いつもの様に志賀の隣に陣取った銀の様子が、いつもより少しだけ沈んでいた。
黙々と食事を摂る2人の間にほとんど会話はない。いや、元々会話自体はないのだが、普段1人で喋り続けているはずの銀が、やけに静かなのである。キレの悪い世間話を繰り広げては、ふと黙り込んで食事をつつくを繰り返す彼女は、まるで何かがあったと言わんばかりだった。
けれど、やはり今更『何かあったのか』と問うのも癪で、志賀は何時もの通り無視をする。無視をするのだが、
――クソ、気になる
これまで毎日一定の調子を保っていた銀の異変に、ペースを乱されているのは明白だ。自分が銀にすっかり慣れてしまっていたのだという事実に、志賀は苛立った。
一体何が原因なのか。思考を巡らせるが、分かるはずもない。付きまとわれているとはいえ、そもそも教場――警察学校におけるクラス――が違う銀の事を、志賀がいちいち把握している訳がないのだ。できるだけ興味を持たないように振る舞っているのだから尚更である。
苛々と朝食を食べ進める志賀の隣で、銀はコトリと茶碗を置いた。
そして、
「あの……」
口を開き
「……何でもない」
すぐ噤む。
――コイツ、万が一計算でやってたらブッ潰す
結局、その日に銀のテンションが回復することはなかった。そのくせ志賀から離れようともしないので、苛立ちは募るばかりだ。
次の日も、その次の日も、銀は大人しかった。独り語りの量は格段に減り、ぼーっと何かを考え続けている。
そして金曜日。彼女は最後のコマが終わるなり
「またね」
と笑顔で手を振って、あっさりと女子寮へ駆け戻っていったのだ。
流石の志賀も頭を抱えざるを得なかった。
「あー……クッソ……」
寮に戻ってからも銀の事が頭から離れず、全く勉強に身が入らない。パキリ、とシャー芯が折れる音にすらささくれ立つ。
苛々する事そのものに疲れ始めた志賀は、致し方なく班長に許可を取って散歩に出る事にした。
金曜の夜からは、外出要請を出せば警察学校から外に出ることが可能なのだ。
とはいえ、目的地がある訳ではない。
生温い風。植え込みのどこかで虫が鳴いている。表通りに出ると車の走行音がひたすらこだまし、ライトがチラホラと視界を奪った。
胸がざわつく。銀の顔がちらつく。頭を振ってなんとか追い出し、足を前に進めた。
近場のコンビニに無意味に入って、適当な缶コーヒーを手に取る。そういえば歯磨き粉も切れかけていたなと思い、それも一緒にレジに通した。店員の気だるげな挨拶を背中に受けながら、ふらりと店の外に出て、そうして何気なく空を見上げる。
綺麗な月夜とは言えないなと、ざっくばらんな感想を抱いた。片割れ月の夜だ。灰色のボロ布のような雲が月の仄明かりを遮っている。深い紺色が地平の果てまで帳をおろし、街の灯りを煩そうに受け止めていた。
捻くれた景色の見方だと、志賀は自嘲する。もう少し詩情に富んでいれば気が紛れたものを、こんな調子では散歩ですら無意味だ。もう少し遠回りでもして帰ろうかと思っていたが、志賀はそれすら諦めて帰路を辿る。
その道すがら、ぼんやりと歩いていた志賀の目が、ふと見覚えのある後ろ姿を捉えた。
――銀
道路の反対側の歩道をトボトボと歩く銀の姿。彼女は私服に身を包み、中身の詰まっているのだろうリュックサックを背負っている。恐らく帰省か外泊をするつもりなのだ。
ということは、明日からの休暇は部屋に閉じこもっていなくとも銀に付きまとわれないということ。
――何なんだ
心を掻き乱される事を嫌って、銀から視線を外そうとする。しかし、そんな志賀の視界の端で銀は一瞬立ち止まると、キョロキョロと辺りを見渡し、そしてビルとビルの間に身を滑り込ませてしまった。
――何してんだ、アイツ
帰省するのなら、駅は彼女が歩いていた方向と反対方向だ。近くにバス停がある訳でもない。そもそもあんな大荷物を持って、一体何をしに路地裏へ入ったのか。
志賀の足はいつの間にか横断歩道を渡り、彼女の姿を追っていた。
路地は表通りの街灯の光を追い返しており、非常に薄暗い。背後からの車の走行音が吸い込まれるように暗闇へ消えていく。銀の姿は確認できない。――が
「落ち着いて!ね!」
志賀の耳が声を拾った。間違いない。昼間うんざりするほど聞いている銀の声だ。
志賀は暗闇に足を踏み入れた。声は近づくにつれよく聞こえ、そしてビルの裏手に出た所で、しゃがみこんだ銀の姿を視認できた。
「たす、……助けて……あたし、あたし何も……」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
銀は、制服を着た少女の頭を優しく撫でていた。少女が着ている制服はこの近くの高校のもので間違いないが、随分と薄汚れているように見える。
彼女らはビルの壁を背にして座り込み、うずくまるようにしてそこにいた。
「ちゃんと話聞くからね」
銀は穏やかに語りかけていたが、女子高生は顔を手で覆い、泣きじゃくり続けている。
ざり、と志賀の靴がコンクリートを鳴らした。
瞬間、銀が咄嗟に頭を上げ、強張った顔でこちらを見る。
「――太陽?」
志賀が黙って近づくと、銀の表情が少しばかり和らいだ。
しかし女子高生は首をすくめて銀に身を寄せ、自分の肩を抱く。怯えさせたのだと悟り、志賀はそこで歩みを止めた。
「……そいつは」
「あ、えと、何か悲鳴が聞こえて、こっちに来たらこの子がいて」
詳しい事は何も、と言いながら銀は首を横に振った。
「怪我はあるのか」
「擦り傷がたくさん……。服もボロボロだし、何があったか分からないけど相当錯乱してるから……」
「とりあえず、救急車呼ぶぞ」
そう言って、志賀はポケットから携帯端末を取り出す。電源をつけて番号を入力しようとした、――その時だ。
「必要ないわ」
冷たい声がその場に響いた。背後からだと分かって、志賀は首を回す。
「私達が対処しますので」
にこやかな笑みを浮かべて近付いてきたのは、黒いパンツスーツ姿の女性。長い黒髪をひとつ結びにし、背筋を伸ばして立つその姿は、まるで女優かモデルのようだと志賀は思う。
「対処……?」
思わず口に出したその言葉を、女性は肯定した。
「ええ。警察よ」
そう言うと、胸元から手帳を取り出して開いて見せる。
暗くてはっきりとは見えないが、暗闇に慣れた目が警察手帳である事だけを認識した。
ほっと安堵の息をついたのは銀だ。
「よ、良かった。助かります。あの――」
「いやぁァッ!!」
立ち上がろうとした銀の隣で、甲高い悲鳴がを上がった。何事かと目を向けると、女子高生はビルの壁に背中を押し付けながら立ち上がり、脱兎の如く逃げ出してしまう。
「あ、ちょっと!」
咄嗟に銀が手を伸ばすが、虚空を切った。追い縋って走り出す銀。それを追おうと志賀も足を踏み出し――目を見開く。
「銀ッ!!」
ほとんど反射だった。全力でコンクリートを蹴って銀に追いつくなり、覆いかぶさるようにして飛びつく。
瞬間、背後から何かが弾けるような低い音。銀と志賀が地面に倒れ込むと同時に、前を走っていた女子高生がけたたましい悲鳴を上げ、転んだ。
「い、ッ痛い!!やめてっ、あたし、違……!」
「何が違うの?」
銀の身体を押し倒す形で身を起こし、志賀は顔を上げる。背後からの靴音は、そんな志賀と銀の隣を悠々と通り過ぎると、腕だけで這いつくばる少女に近付いた。
「わざとじゃ、……ない……触ったらいきなり……ッ」
「お父さんが溶けちゃった?それは可哀想ね。……お父さんが」
ガチ、とスライドを引く。警察を名乗ったはずの女の手には、どう見ても警察支給のものではない拳銃が握られていた。先程の射出音を聞く限り、サプレッサー付きのものだ。
女はゆっくりと、倒れた女子高生へ拳銃を持った腕を伸ばすと、何の衒いもなく撃ち込んだ。
息を飲んで、思わず銀の目を塞ぐ。それに何の意味がないとしても、何故かそうしなければと本能が働いた。
女子高生は断末魔すらあげず、ぐたりと横たわる。
「な、何、今の……!?」
志賀に馬乗りにされて顔に手を当てられた銀が、焦ったような声を上げる。銀の目を塞いだまま、その身体からゆっくりと下りると、志賀は小声で囁いた。
「おい」
「な、なに?」
「起き上がったら、何も見ずに真っ直ぐ走れ」
「え、ど、どういう事……?」
もしも銀に目の前の惨状を確認させてしまうと、逃げるという選択を取れなくなる可能性がある。それならばもういっそ、何も見せずに逃がした方が確実だ。
「いいから、黙って言う事聞け」
「……言う事聞いたら、僕の話も聞いてくれる?」
下敷きになっていた銀の口調があまりにも子どもっぽく、志賀は一瞬だけ呆気に取られる。が、意固地になっている場合ではないと、半ば投げやりに「ああ」と返事をした。
低い射出音。志賀の目の前で、女は止めとばかりに倒れた女子高生に向けて発砲する。
志賀はゆっくり銀の体を助け起こすと、後ろを向かせる。そして顔から手を外し、彼女の背中をドン、と力強く押した。
「う、うわ!?」
つんのめりながらも、銀は志賀に言われた通り真っ直ぐ走る。
二人の動向に気が付いた女は、顔を顰めながらもう一度拳銃のスライドを引いた。
「……面倒ね」
銀の背中に銃口が向けられる。その射線上に立ちはだかりながら、志賀は体勢を低くして女に走り寄った。タックルの要領で飛び込み、女の下半身に掴みかかって体勢を崩す。
「このガキ……ッ」
銃底で志賀の頭を殴りつけようと女は腕を振るったが、志賀は左手首で受け止めた。そのまま彼女の手首を取って地面に押さえつけ、その手から銃をねじり取る。
――しかし、
「……触ったわね」
拳銃を投げ捨てようとした志賀の身体が、硬直した。
「んだ……これ……」
「あら、意識があるの?」
指の先から眼球まで、何もかもを動かすことが叶わない。手から拳銃を取り落とすなり、女は志賀を投げ飛ばし、立ち上がった。志賀の体は地面に転がって、その瞬間麻痺のような硬直が解かれる。起き上がろうと腕をつくが、顔を上げた志賀の眼前には銃口が向けられていた。
「珍しい」
奥の赤い口紅が、片割れ月を描いた。女の両手が拳銃に添えられる。その指に力が籠もった瞬間に、志賀の命など直様弾け飛ぶのだろう。
――あぁ、やっと
瞼を落とす。心臓はやけに落ち着き払っていた。口元が無意識に吊り上がり、笑みが零れる。
“許される死に方”だと思ったのだ。銀を逃がすために死んだのだとすれば、――きっと許されると。
「……何で笑ってるの?」
何も答える気にはならなかった。
女はしばらく志賀の返答を待っていたようだが、やがて鼻を鳴らす。
「まぁ……どうでも――」
「待て、宮藤君!」
女の言葉を遮って、第三者の声がその場に響いた。
志賀は驚いて目を開くと、咄嗟に声の主を探す。目の前の女も同じ様に首を回しており、やがて2人は一様に同じ場所へと視線を落ち着けた。
「何をしてるんだ、……君は」
ビルとビルの狭間で、藍色のスーツ姿の男が一人立っていた。暗がりで分かるのは、その男が四十代後半、或いは五十代前半程度の年齢であること。そして彼がここまで息せき切って駆けつけてきたのだろうということだ。
「……角井」
宮藤と呼ばれた女は、その男性を認めるなり忌々しげに舌を打った。銃口は志賀に向けたままで、宮藤はゆっくりと立ち上がる。そして、ニコリと能面のような笑みを浮かべて口を開いた。
「どうしてここに?」
「……決まってるだろう。保護の為だ」
「あら、まだそんな甘っちょろい事を仰ってるんですか」
角井と呼ばれた男性は、呼吸を整えながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。
そして、女子高生の沈む血溜まりを目にするとわずかに息を飲んだ。
「……殺したのか」
「前々から言ってますけど、他にどんな手が?代替案出してから言ってもらえます?」
疑問系ばかりの冷ややかな声。男性は顔を歪めて悔しそうに歯噛みすると、壁にもたれて様子を窺っている志賀に視線を向ける。
「だが、……そちらの子を殺す必要はないだろう」
「これは……見られちゃったんですもの。必要措置です」
「何が必要措置だ。一般市民だぞ……!」
「だったらどーしろってのよ!?ぽっと出が偉そうなこと言わないでもらえる!?」
ヒステリックに叫び出す宮藤に、男性は人差し指を一本立て、静かにするようにと指示を出す。宮藤は至極不満そうではあったが、顔を引きつらせながらも銃をしまった。そして彼女は耳につけていたワイヤレスイヤホンのようなものを操作すると、小声で何かを呟き始める。
それを確認した角井は、ほぅと息を吐き出し、背後を振り返って声をかけた。
「銀君、もう出てきて大丈――」
「太陽!!」
男が台詞を言い終わる間もなく、ビルの影から一人の人影が飛び出す。
「し、ろがね……?」
思わず名前を呼ぶ。
駆け寄ってきた銀は、目を丸くする志賀のそばに膝をつくと、目に一杯涙を溜めて抱きついた。
「うわ、なんだお前ッ、離せ!」
志賀の懇願は聞き届けられず、銀はきつく志賀に抱きつく――というよりも、もはや組み付いている。頭を何度か叩き、引き剥がすようにして止めさせると、銀は嗚咽を漏らしながら服の袖で涙を拭い始めた。
緊迫感の欠片もない彼女の様子に拍子抜けしつつ、志賀は問いかける。
「お前……何で戻ってきたんだ」
戻って来ないように、極力状況を伝えずに逃したつもりだった。しかし銀はぼろぼろと涙を落としながら、弱々しく志賀を睨む。
「僕だって、逃されたんだって、事くらい、分かるよ。あんな音と、匂いがしてたら……」
「……そうか」
既に鼻が慣れてしまっているが、この場には硝煙の匂いが薄っすらと漂っている。警察学校の射撃訓練場で何度かかいだ、火薬独特の煙臭さだ。そして、幾らサプレッサー付きと言っても、銃声が完全に消え去る訳ではない。低く短く弾けた音が拳銃によるものだと、あの時点で銀は把握していたのだろう。
「ごめん……ごめんね……」
「……何で謝ってんだ」
「だって、……置いてっちゃったっ……、一緒に逃げるのかと思ってたから、……し、死んじゃってたら、どうしようって……」
どう返せばいいか分からず、志賀は口を閉ざした。
銀は、まさか志賀がその場に残って応戦するとは思っていなかったのだろう。しかしそれに気付いて振り向いた所で、状況が変わる訳ではない。表通りまで逃げ切って、人を連れて戻ってきたのだとすれば、結果的に彼女の判断は正しかったと言える。
――俺としては、失敗だったが
あのまま引き金が引かれていたらどんなに良かったか。
そう思わざるを得なかった。
許されると思える死に方など、なかなか無いのだ。
だが、これで志賀が頭を撃ち抜かれて死んでいたとしたら、今目の前で大粒の涙を流している銀が果たしてどう思うのだろう。
ともすれば、志賀と同じように罪悪感を抱えて生きる事になりはしなかったか。
――ままならないな
だからこそ、難しいのだ。
何もかもを投げ捨てて、しがらみさえ取っ払ってしまえば楽なのに。しかし、自分のせいで自分と同じ苦しみを人に与える事は本意ではない。
志賀は大きくため息を吐き出しつつ、泣きじゃくる銀を困った様に見つめていた。
「それで?どうなさるおつもりですか?」
何処かとの通信を終えた宮藤が口を開く。銀と志賀がはたと顔を持ち上げると、宮藤の冷たい視線がこちらを刺していた。
「というか、コイツ……どっかで見たことあると思ったら、あの時の害獣じゃないですか」
銀を睨む宮藤の目が、更に細まる。銀は怯えるようにして志賀に身体を寄せ、小さく縮こまった。ぽろりとこぼれた涙が、志賀の手袋に落ちる。その途端、じわじわと侵食するように、怒りの感情が志賀の胸を焦がした。
そんな宮藤の視線を遮るようにして、スーツの男が志賀と銀の前に立ちはだかる。
「彼女を侮辱するのはやめてもらおうか」
「侮辱ねー……。まぁ、本当に危害がないのなら、駆除の必要はありませんものね」
本当に、の部分を強調して、宮藤は
「けど、そっちのガキはどうするの?見られちゃったのに」
角井はちらりと志賀を一瞥した後、ゆるゆると首を振って宮藤を睨み返した。
「彼もウチで引き取る」
「へぇー、そんな薄汚れたガキを?娘さんの代わりにでもするんですか?」
皮肉げに言う宮藤を、志賀は鼻で笑う。
「はっ……そのガキに得物奪われた雑魚がよくほざく」
「ちょ、ちょっと……!」
銀が慌てた様子で志賀の口を塞ぐが、時すでに遅しだ。宮藤は忌々しげに志賀を睨んで、その整った容姿を歪めた。角井を押し退け、志賀の目の前にしゃがみ込むと、薄暗い笑みの浮かんだ顔を近付ける。
「面白いわねぇ、貴方。さっきも気持ち悪い顔して笑ってたし、ね?」
「距離感バグってんのか?気色悪ィんだよ。そんなに近づくと若作りがバレるぞ、おばさん」
銀の手を外して応答すれば、今度こそ宮藤は志賀を睨みつけた。
「減らず口を……」
そうして手を持ち上げる宮藤の腕を、角井が掴んで止める。
「言ったはずだ。彼もウチで引き取る。君が勝手に手を出すのなら――」
「あー、ハイハイ、分かりました。……ほら、そろそろウチのが来るんで。さっさとどっか行って」
宮藤が角井の手を払うのとほぼ同時に、幾人かの私服警官がぞろぞろとその場に足を踏み入れた。宮藤は彼らに手早く指示を飛ばすと、既に事切れた女子高生の遺体の搬送準備に取り掛かる。
「銀君。それから……君も、悪いが着いてきてもらえるかい」
呆然とその様子を眺めていた二人に、スーツ姿の男が手を差し伸べた。
銀は涙を拭って頷くと、その手を握って立ち上がる。しかし志賀は仏頂面を変えることなく、怪訝そうに男を見上げた。
「何なんだ、アンタは」
「あぁ、そうだね。名乗らなくてすまなかった」
そう言って、男は胸ポケットから手帳を取り出す。
「私は宮城県警刑事部部長、
薄っすらと雲の切れ間から顔を出した片割れ月が、その旭日章を照らし出していた。