1-16 最後の言葉
文字数 963文字
志賀はふと足を止めた。背後を着いてきていたはずの足音が、不意に途絶えたからだ。
「家を出る前に、姉ちゃんと大喧嘩したんです」
消毒液のツンと鼻を突くような匂い。しんと静まり返った清潔な白い廊下には、明け方の陽の光が窓から流れるように差し込んでいる。志賀はゆっくりと振り返り、廊下に立ち尽くした伊霧匠を見つめた。
「そん時はすげぇムカついて、もう二度と顔も見たくねぇって本気で思いました。心の底から『こんな奴、死んじまえ』って、言いました」
掠れ、今にも消え入りそうな声だった。ただ胸のうちにある物を外に放り投げているだけのような、空虚な口ぶりで彼は言う。
「なんで、あんな事言っちまったんだろう」
彼の表情は光に白く塗りつぶされ、志賀の立つ場所からでは窺い知ることができない。
伊霧芽郁の遺体確認を行って病室に戻る道すがら。周囲に人の気配はひとつもありはしなかった。
「……何で、姉ちゃん、死んじゃったんだろう。……何でオレ……最期に伝えたのが『死ね』だったんだろう……」
志賀は何も言わず、伊霧匠を見つめる。肩も声も震わせることなく、彼は永遠に答えの返ってこない問いかけを続けた。
亡くなった人間が何も答えない事を、志賀は痛いほどよく知っている。
――十年前のあの日から、ずっと。
あの時と明確に違うのは、彼女が自ら死を選んだという事。あの時と同じであるのは、亡くなった彼女もまた不条理に巻き込まれたのだという事。
目の前の少年は、これから先生きている限り問いかけ続けることになる。
どうしてその言葉を言ってしまったのか。どうして彼女は死を選んだのか。どうして、自分は何もできなかったのか。
そしてきっと、永遠に付き纏うのだ。取り返しの付かないことに対する後悔と、自分だけが生きて“しまっている”という罪悪感が。
志賀は薄っすらと口を開きかけ、すぐに噤んだ。伊霧匠に何か言葉を渡したかった。けれど、かけられる言葉など自分の中には何もないのだ。
――アイツなら、なんて言ってたんだろうか。
脳裏に浮かんだその疑問をすぐに打ち消す。あまりにも意味の無い思考だと。
窓の陽の光は志賀にも降り注ぎ、少しずつ目を焼くような眩しさを伴っている。だが、それでも志賀はその場を動かず、陽だまりの中を伊霧匠と共に立ちつくしていた。
第一章 望まなければ
終
「家を出る前に、姉ちゃんと大喧嘩したんです」
消毒液のツンと鼻を突くような匂い。しんと静まり返った清潔な白い廊下には、明け方の陽の光が窓から流れるように差し込んでいる。志賀はゆっくりと振り返り、廊下に立ち尽くした伊霧匠を見つめた。
「そん時はすげぇムカついて、もう二度と顔も見たくねぇって本気で思いました。心の底から『こんな奴、死んじまえ』って、言いました」
掠れ、今にも消え入りそうな声だった。ただ胸のうちにある物を外に放り投げているだけのような、空虚な口ぶりで彼は言う。
「なんで、あんな事言っちまったんだろう」
彼の表情は光に白く塗りつぶされ、志賀の立つ場所からでは窺い知ることができない。
伊霧芽郁の遺体確認を行って病室に戻る道すがら。周囲に人の気配はひとつもありはしなかった。
「……何で、姉ちゃん、死んじゃったんだろう。……何でオレ……最期に伝えたのが『死ね』だったんだろう……」
志賀は何も言わず、伊霧匠を見つめる。肩も声も震わせることなく、彼は永遠に答えの返ってこない問いかけを続けた。
亡くなった人間が何も答えない事を、志賀は痛いほどよく知っている。
――十年前のあの日から、ずっと。
あの時と明確に違うのは、彼女が自ら死を選んだという事。あの時と同じであるのは、亡くなった彼女もまた不条理に巻き込まれたのだという事。
目の前の少年は、これから先生きている限り問いかけ続けることになる。
どうしてその言葉を言ってしまったのか。どうして彼女は死を選んだのか。どうして、自分は何もできなかったのか。
そしてきっと、永遠に付き纏うのだ。取り返しの付かないことに対する後悔と、自分だけが生きて“しまっている”という罪悪感が。
志賀は薄っすらと口を開きかけ、すぐに噤んだ。伊霧匠に何か言葉を渡したかった。けれど、かけられる言葉など自分の中には何もないのだ。
――アイツなら、なんて言ってたんだろうか。
脳裏に浮かんだその疑問をすぐに打ち消す。あまりにも意味の無い思考だと。
窓の陽の光は志賀にも降り注ぎ、少しずつ目を焼くような眩しさを伴っている。だが、それでも志賀はその場を動かず、陽だまりの中を伊霧匠と共に立ちつくしていた。
第一章 望まなければ
終