5-4 切欠
文字数 4,399文字
志賀はしばらく黙々と通路を歩き、やがて客席側の入口付近まで戻って来たところでようやく足を止めた。
「何でもっと早く言わなかったんだ」
ジロリ、と鋭い視線が夏波を捉える。
「な、何をですか?」
「何をって……お前、ミツキとの接触が苦痛になってるんだろうが」
思わず目を逸らした。
「そ、そんなことないです」
「あのな……」
その呆れ果てた声だけで、どんな表情をしているのかがありありと想像できる。
あぁ、こうしてすぐに態度に出すから「分かりやすい」と揶揄されるのだと、頭の片隅で誰かが嗤っていた。
「今まで俺がミツキとの関係性確認する度に『大丈夫だ』とか、『仲良くさせてもらってる』っつってたよな?」
「は、はい……」
「何がどう大丈夫なのか言ってみろ」
「そ、それは、えっと、ミツキさん、すごく良い人なんです。そりゃ、さっき志賀さんのことを無視したのは嫌でしたけど……。でも、普段は僕と仲良くしたいって、よく連絡もくれますし……」
「訊き方を変えてやる。お前の負担になってるか、なってないかの2択で答えろ」
押し黙る。
志賀の溜息が、そんな夏波に直撃した。
「それじゃこれまで確認取ってた意味がないだろうが。負担に感じてたんならさっさと報告しろ。苦手な人間にプライベートを費やせとまでは言わん」
「それは……そうなんですけど……」
「けど、なんだ」
鋭く切り込む志賀に萎縮しながら、夏波はおずおずと続ける。
「ミツキさんが悪い訳じゃ無いので……」
一瞬志賀の言葉が詰まり、口を曲げた。そのまま首を軽く左右に振って、徐に足を踏み出す。
大ホールへと吸い込まれていく人の流れは、いつの間にやら緩やかになっていた。
流れに沿って入り口をくぐれば、開けた球状の空間に身を包まれる。天井には巨大なモニターの塊がいくつか浮かんでおり、ホール内に詰め込まれる人間たちを静かに見下ろしていた。
さわさわと、小さな人の声が重なり合って空気を揺らしている。見知らぬ隣人たちは皆、ただ1人の登場を待ち望みながら、思い思いに時間を潰しているのだろう。
志賀はホールを軽く一望すると、その一番後ろに設置された立見席の手摺にもたれた。それに続こうとして、夏波は段差に躓いた。手摺の手前だけだ一段高くなっていたのだ。慌てて前に手を伸ばし、手摺に掴みかかる形で事なきを得る。
「……あ、危な……」
「入り口前に段差の注意書きあっただろ」
「そうでしたっけ……」
「ぼーっとしすぎだ」
物思いに耽って歩いたせいで気が付かなかった。
夏波に伸ばしかけていたのだろう手を引っ込め、志賀は肩を竦める。
「あのな、ミツキがどうとかじゃなく、お前がどうしたいかだろ」
「それは、そうなんですが……」
夏波の気弱な言葉に、志賀はまた息をつく。
「確かにミツキ本人から話を聞くに越したことはない。だが、嫌なことは嫌でいい。無理なもんは無理だといえ」
「……はい」
同じようなことで三科にも怒られた。村山にも諭された。
何度も言われたはずなのだ。自分を大切にしろ、と。
自分を卑下する事が、そうして言葉をくれる人達の好意を無下にする行いだと理解もしている。
『ご来場の皆様へお知らせいたします。携帯電話はマナーモードに設定し、音の出ないよう――』
頭上からアナウンスが落ちた。と同時に、会場内をざわめかせる声が一層静寂に吸われてゆく。
「はじまるぞ」
会場内の電気がゆらりと落ちた。どこからか期待に満ちた小さな歓声が上がる。
――僕は……
薄暗い空間に立ち尽くし、夏波は不安を渦巻かせていた。
*
俳優のトークイベントとは言っても、歌や楽器の演奏がふんだんに盛り込まれていた辺り、どちらかといえばアーティストのライブに近いのだろう。
どの曲にも耳馴染みがあるのは、街中だけでなく、テレビやネットの各所で彼の曲が取り上げられているからだ。
イベントは観客の熱を帯びながら、しかし滞り無く進んでいく。
壇上のミツキがマイクに声を吹き込み、その声にその場の人間が歓声を上げる。しかし、その最中にミツキが能力を使うことはただの一度もなかった。
「今日は来てくれて本当にありがとう!」
ミツキの言葉に会場は一瞬さざめき、また静まる。
「今日来てくれた人の中には、僕を――というよりも、僕の能力を見に来た人も多いと思うんだ」
幾つか黄色い声がそれを否定したが、ミツキは笑って手を振り、続ける。
「ありがとう。勿論僕個人を見に来てくれた人も沢山いるって信じてる。でも、正直思うでしょ? 間近で”超能力”を見たいって」
観客たちはざわついた。青年は自分に注がれる群衆の視線をぐるりと見渡した。
「でもね、この力は僕が特別だから得られたものではないと思うんだ。皆にもきっと――そう、『切欠』みたいなものがあれば、こういう力は誰だって持つことができるのかもって」
彼はにこりと微笑みもう一度大きく手を振ると、その言葉を最後に何故か舞台裏へと消えてしまう。
雑然とした群衆の音がホールを包んでいた。暫く黙ってステージ上を凝視していても、しかしミツキは姿を表さない。
観客の騒めきは徐々に困惑の色を伴い、会場を飲み込んでいく。
「……何をするつもりなんでしょうか」
不安げな夏波の問いかけに志賀は答えなかった。けれど、今のこの沈黙が何かの事故だとも思えない。
「ボクは」
不意に正面のモニターに光が灯る。しかしそれは黒々とした画面を照らすばかりで、何かが映る様子がない。場内にはミツキの声が響き渡り、告げるのだ。
「皆の可能性を信じてる」
ゴト、と何か固いものが動く音。それは次第に大きくなり、会場のそこかしこで反響する。悲鳴の様な声が聞こえた。夏波もその異音に怯え、志賀の横に張り付く。
「な、何!?」
志賀は無言のままじっとモニターを見つめ続けている。
音は次第に大きく、太くなる。それがあわや耳を劈こうかというその時、
――がくんと、地面が揺れた。
「ッ――じ、地震……!?」
足元がガタガタと震えている。一瞬地震かと錯覚するような大きな揺れだが、違和感があった。夏波達がいるのは立ち見席。地震だとすれば手元の手摺りも同じ様に揺れていなければおかしい。が、振動しているのは足元だけで、建物そのものが揺れている感覚がないのだ。まるでアトラクションに乗っているかの様な揺れであると、夏波はすぐに気がついた。
「ど、どういう……」
困惑する内に会場が一気に明るくなる。それは開演前の明るさと同様で、演出による灯りではないようだ。会場内に再びマイクが入った音が響き、声が流れ出た。
〈お客様に申し上げます。只今の振動は演出によるものでございましたが、機械不良の為、誤動作が起きております。お怪我や体調に不安のあるお客様は、会場出て右の医務室までお申し出ください〉
会場に響くのは、女性の機械音声。周囲の客も夏波と同様困惑した様子でアナウンスを聞いており、状況は掴みきれない。
「え、演出……不具合……?」
不安げに隣を見やる。が、そこでようやく、隣に立っていたはずの志賀が、床にしゃがみ込んでいることに気がついた。
「志賀さん……!?」
慌てて夏波もしゃがんで志賀を覗き込む。志賀の頬には脂汗が浮き、大きく呼吸を繰り返している。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないですよ!」
ゆっくりと呼吸を繰り返す彼の背を、夏波は何度も手を往復させてさすった。
――こんなのが、演出?
足元に目をやれば、一部の床はホール内の本来の床とは材質が違う様に見える。先程夏波がつまづいた段差も、この足元を揺らす装置のために作られたものだろう。
辺りを見渡せば、志賀と同じ様に蹲る人や、不安げな表情を浮かべる者が少ないながらに散見された。
――おかしい
不具合だとアナウンスは言っていた。いや、ステージ裏の騒ぎが表まで聞こえてくる様子から、恐らくそれは真実なのだろう。
けれど少なく無い人間が、先の揺れを地震だと誤認したはずだ。事前に揺れる事が分かっていたミツキならば、警告を入れる事も出来た。それが一体何故。
「ごめんなさい!皆大丈夫ですか!?」
頭上から、マイクを通したミツキの声が落ちてきた。
その声に安堵する者が殆どで、医務室に向かう影は然程見受けられない。隣にいる志賀も呼吸は落ち着き、夏波に礼を言って立ち上がっている。
「怖い思いをさせてしまいましたね……。本当はアトラクションみたいな仕掛けを作って、皆に楽しんでもらおうと思っただけなんです。本当にごめんなさい」
ステージ上には、いつの間にかミツキが立っていた。スポットライトなども無く、会場のオレンジの灯りに照らされて、青年は必死に頭を下げている。やがて彼はステージから降り、最前列の人間に話しかけたり、通路を歩いたりして客の安否確認を行なっている様だった。
「――白々しい」
志賀はそう吐き捨てると、立ち見席を離れて背後の出入り口に足を向ける。夏波もそれを慌てて追いかけ、ホール内から抜け出した。
外には夏波達と同様に、途中で離脱した人間が数名程いる様だった。通路脇に設置されていたベンチに腰をかけ、志賀は呟く。
「あれは……不具合なんかじゃない。あの揺れ自体も、ミツキが警告をしなかったのも、全て意図があるはずだ」
志賀の意見には概ね同意だが、その意図はどうにも掴みきれない。
『皆の可能性を信じてる』
ミツキの言葉を脳内で反芻する。酷く真っすぐとした言い方だったが、起こった事は先の揺れだ。ふたりは顔を合わせ、唸った。
「ミツキ本人に聞いてみる必要があるな」
「そ、そうですね。でもさっき会うの断っちゃって……」
夏波が言葉を返す最中、不意に大ホールの出入り口からバタンと音がして誰かが飛び出した。ロビー内全員の視線が集まる程の音だ。夏波も咄嗟にそちらに目を向けて、目を見開いた。
「匠君……!?」
見間違えようはずもない。伊霧匠だ。中学生にしては些か背の高い少年が、ロビーを突っ切って駆け抜けていく。その様子はあまりに急迫としており、夏波に気付く事もない。
「待っ……」
待って、と言う間もなく、彼はあっという間にホールの外へと飛び出してしまった。自動ドアの向こうに見える景色はもうすっかり薄暗く、夜が押し迫っている事が分かる。
「ど、どうしたんだろう……」
「夏波」
背後から志賀の呼ぶ声。振り向くと、彼は開け放たれた大ホールの入り口に立ち、ただ一点を凝視している。
一瞬、それが何なのかの理解が追いつかなかった。両開きの大きな扉の内側取って部分が白く染まっている。
「え……」
驚いて駆け寄れば、薄らとした冷気に当てられた。志賀が手袋をつけた手で扉をなぞる。固い何かが崩れる音を立てて、足元に透明な欠片が零れ落ちた。
「――凍ってる……?」
愕然と呟く夏波に、志賀は静かに頷く。
ホール内では、煩いほどの拍手が鳴り響いていた。
「何でもっと早く言わなかったんだ」
ジロリ、と鋭い視線が夏波を捉える。
「な、何をですか?」
「何をって……お前、ミツキとの接触が苦痛になってるんだろうが」
思わず目を逸らした。
「そ、そんなことないです」
「あのな……」
その呆れ果てた声だけで、どんな表情をしているのかがありありと想像できる。
あぁ、こうしてすぐに態度に出すから「分かりやすい」と揶揄されるのだと、頭の片隅で誰かが嗤っていた。
「今まで俺がミツキとの関係性確認する度に『大丈夫だ』とか、『仲良くさせてもらってる』っつってたよな?」
「は、はい……」
「何がどう大丈夫なのか言ってみろ」
「そ、それは、えっと、ミツキさん、すごく良い人なんです。そりゃ、さっき志賀さんのことを無視したのは嫌でしたけど……。でも、普段は僕と仲良くしたいって、よく連絡もくれますし……」
「訊き方を変えてやる。お前の負担になってるか、なってないかの2択で答えろ」
押し黙る。
志賀の溜息が、そんな夏波に直撃した。
「それじゃこれまで確認取ってた意味がないだろうが。負担に感じてたんならさっさと報告しろ。苦手な人間にプライベートを費やせとまでは言わん」
「それは……そうなんですけど……」
「けど、なんだ」
鋭く切り込む志賀に萎縮しながら、夏波はおずおずと続ける。
「ミツキさんが悪い訳じゃ無いので……」
一瞬志賀の言葉が詰まり、口を曲げた。そのまま首を軽く左右に振って、徐に足を踏み出す。
大ホールへと吸い込まれていく人の流れは、いつの間にやら緩やかになっていた。
流れに沿って入り口をくぐれば、開けた球状の空間に身を包まれる。天井には巨大なモニターの塊がいくつか浮かんでおり、ホール内に詰め込まれる人間たちを静かに見下ろしていた。
さわさわと、小さな人の声が重なり合って空気を揺らしている。見知らぬ隣人たちは皆、ただ1人の登場を待ち望みながら、思い思いに時間を潰しているのだろう。
志賀はホールを軽く一望すると、その一番後ろに設置された立見席の手摺にもたれた。それに続こうとして、夏波は段差に躓いた。手摺の手前だけだ一段高くなっていたのだ。慌てて前に手を伸ばし、手摺に掴みかかる形で事なきを得る。
「……あ、危な……」
「入り口前に段差の注意書きあっただろ」
「そうでしたっけ……」
「ぼーっとしすぎだ」
物思いに耽って歩いたせいで気が付かなかった。
夏波に伸ばしかけていたのだろう手を引っ込め、志賀は肩を竦める。
「あのな、ミツキがどうとかじゃなく、お前がどうしたいかだろ」
「それは、そうなんですが……」
夏波の気弱な言葉に、志賀はまた息をつく。
「確かにミツキ本人から話を聞くに越したことはない。だが、嫌なことは嫌でいい。無理なもんは無理だといえ」
「……はい」
同じようなことで三科にも怒られた。村山にも諭された。
何度も言われたはずなのだ。自分を大切にしろ、と。
自分を卑下する事が、そうして言葉をくれる人達の好意を無下にする行いだと理解もしている。
『ご来場の皆様へお知らせいたします。携帯電話はマナーモードに設定し、音の出ないよう――』
頭上からアナウンスが落ちた。と同時に、会場内をざわめかせる声が一層静寂に吸われてゆく。
「はじまるぞ」
会場内の電気がゆらりと落ちた。どこからか期待に満ちた小さな歓声が上がる。
――僕は……
薄暗い空間に立ち尽くし、夏波は不安を渦巻かせていた。
*
俳優のトークイベントとは言っても、歌や楽器の演奏がふんだんに盛り込まれていた辺り、どちらかといえばアーティストのライブに近いのだろう。
どの曲にも耳馴染みがあるのは、街中だけでなく、テレビやネットの各所で彼の曲が取り上げられているからだ。
イベントは観客の熱を帯びながら、しかし滞り無く進んでいく。
壇上のミツキがマイクに声を吹き込み、その声にその場の人間が歓声を上げる。しかし、その最中にミツキが能力を使うことはただの一度もなかった。
「今日は来てくれて本当にありがとう!」
ミツキの言葉に会場は一瞬さざめき、また静まる。
「今日来てくれた人の中には、僕を――というよりも、僕の能力を見に来た人も多いと思うんだ」
幾つか黄色い声がそれを否定したが、ミツキは笑って手を振り、続ける。
「ありがとう。勿論僕個人を見に来てくれた人も沢山いるって信じてる。でも、正直思うでしょ? 間近で”超能力”を見たいって」
観客たちはざわついた。青年は自分に注がれる群衆の視線をぐるりと見渡した。
「でもね、この力は僕が特別だから得られたものではないと思うんだ。皆にもきっと――そう、『切欠』みたいなものがあれば、こういう力は誰だって持つことができるのかもって」
彼はにこりと微笑みもう一度大きく手を振ると、その言葉を最後に何故か舞台裏へと消えてしまう。
雑然とした群衆の音がホールを包んでいた。暫く黙ってステージ上を凝視していても、しかしミツキは姿を表さない。
観客の騒めきは徐々に困惑の色を伴い、会場を飲み込んでいく。
「……何をするつもりなんでしょうか」
不安げな夏波の問いかけに志賀は答えなかった。けれど、今のこの沈黙が何かの事故だとも思えない。
「ボクは」
不意に正面のモニターに光が灯る。しかしそれは黒々とした画面を照らすばかりで、何かが映る様子がない。場内にはミツキの声が響き渡り、告げるのだ。
「皆の可能性を信じてる」
ゴト、と何か固いものが動く音。それは次第に大きくなり、会場のそこかしこで反響する。悲鳴の様な声が聞こえた。夏波もその異音に怯え、志賀の横に張り付く。
「な、何!?」
志賀は無言のままじっとモニターを見つめ続けている。
音は次第に大きく、太くなる。それがあわや耳を劈こうかというその時、
――がくんと、地面が揺れた。
「ッ――じ、地震……!?」
足元がガタガタと震えている。一瞬地震かと錯覚するような大きな揺れだが、違和感があった。夏波達がいるのは立ち見席。地震だとすれば手元の手摺りも同じ様に揺れていなければおかしい。が、振動しているのは足元だけで、建物そのものが揺れている感覚がないのだ。まるでアトラクションに乗っているかの様な揺れであると、夏波はすぐに気がついた。
「ど、どういう……」
困惑する内に会場が一気に明るくなる。それは開演前の明るさと同様で、演出による灯りではないようだ。会場内に再びマイクが入った音が響き、声が流れ出た。
〈お客様に申し上げます。只今の振動は演出によるものでございましたが、機械不良の為、誤動作が起きております。お怪我や体調に不安のあるお客様は、会場出て右の医務室までお申し出ください〉
会場に響くのは、女性の機械音声。周囲の客も夏波と同様困惑した様子でアナウンスを聞いており、状況は掴みきれない。
「え、演出……不具合……?」
不安げに隣を見やる。が、そこでようやく、隣に立っていたはずの志賀が、床にしゃがみ込んでいることに気がついた。
「志賀さん……!?」
慌てて夏波もしゃがんで志賀を覗き込む。志賀の頬には脂汗が浮き、大きく呼吸を繰り返している。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないですよ!」
ゆっくりと呼吸を繰り返す彼の背を、夏波は何度も手を往復させてさすった。
――こんなのが、演出?
足元に目をやれば、一部の床はホール内の本来の床とは材質が違う様に見える。先程夏波がつまづいた段差も、この足元を揺らす装置のために作られたものだろう。
辺りを見渡せば、志賀と同じ様に蹲る人や、不安げな表情を浮かべる者が少ないながらに散見された。
――おかしい
不具合だとアナウンスは言っていた。いや、ステージ裏の騒ぎが表まで聞こえてくる様子から、恐らくそれは真実なのだろう。
けれど少なく無い人間が、先の揺れを地震だと誤認したはずだ。事前に揺れる事が分かっていたミツキならば、警告を入れる事も出来た。それが一体何故。
「ごめんなさい!皆大丈夫ですか!?」
頭上から、マイクを通したミツキの声が落ちてきた。
その声に安堵する者が殆どで、医務室に向かう影は然程見受けられない。隣にいる志賀も呼吸は落ち着き、夏波に礼を言って立ち上がっている。
「怖い思いをさせてしまいましたね……。本当はアトラクションみたいな仕掛けを作って、皆に楽しんでもらおうと思っただけなんです。本当にごめんなさい」
ステージ上には、いつの間にかミツキが立っていた。スポットライトなども無く、会場のオレンジの灯りに照らされて、青年は必死に頭を下げている。やがて彼はステージから降り、最前列の人間に話しかけたり、通路を歩いたりして客の安否確認を行なっている様だった。
「――白々しい」
志賀はそう吐き捨てると、立ち見席を離れて背後の出入り口に足を向ける。夏波もそれを慌てて追いかけ、ホール内から抜け出した。
外には夏波達と同様に、途中で離脱した人間が数名程いる様だった。通路脇に設置されていたベンチに腰をかけ、志賀は呟く。
「あれは……不具合なんかじゃない。あの揺れ自体も、ミツキが警告をしなかったのも、全て意図があるはずだ」
志賀の意見には概ね同意だが、その意図はどうにも掴みきれない。
『皆の可能性を信じてる』
ミツキの言葉を脳内で反芻する。酷く真っすぐとした言い方だったが、起こった事は先の揺れだ。ふたりは顔を合わせ、唸った。
「ミツキ本人に聞いてみる必要があるな」
「そ、そうですね。でもさっき会うの断っちゃって……」
夏波が言葉を返す最中、不意に大ホールの出入り口からバタンと音がして誰かが飛び出した。ロビー内全員の視線が集まる程の音だ。夏波も咄嗟にそちらに目を向けて、目を見開いた。
「匠君……!?」
見間違えようはずもない。伊霧匠だ。中学生にしては些か背の高い少年が、ロビーを突っ切って駆け抜けていく。その様子はあまりに急迫としており、夏波に気付く事もない。
「待っ……」
待って、と言う間もなく、彼はあっという間にホールの外へと飛び出してしまった。自動ドアの向こうに見える景色はもうすっかり薄暗く、夜が押し迫っている事が分かる。
「ど、どうしたんだろう……」
「夏波」
背後から志賀の呼ぶ声。振り向くと、彼は開け放たれた大ホールの入り口に立ち、ただ一点を凝視している。
一瞬、それが何なのかの理解が追いつかなかった。両開きの大きな扉の内側取って部分が白く染まっている。
「え……」
驚いて駆け寄れば、薄らとした冷気に当てられた。志賀が手袋をつけた手で扉をなぞる。固い何かが崩れる音を立てて、足元に透明な欠片が零れ落ちた。
「――凍ってる……?」
愕然と呟く夏波に、志賀は静かに頷く。
ホール内では、煩いほどの拍手が鳴り響いていた。