1-10 協力者
文字数 7,142文字
病室を出た後、看護師には少し時間を置いてから伊霧匠の状況を伝えた。
受付に挨拶をして、時計を見上げる。10時。体感的にはもう昼に差し掛かっていてもおかしくないくらいだったのは、まだ外が暗い段階から動き出していたせいだろう。
病院を出て駐車場まで向かう道中、それまで考え込む仕草を見せていた志賀がふと口を開いた。
「お前、……あの日、伊霧匠に触ったか?」
「あの日って、蹴られた日ですか?」
「……そうだ」
苦々しく肯定し、罰が悪いということを隠そうとはしない。
志賀は基本誰に対しても横柄で当たりが強い、とは剣の談だが、今の所夏波がその風を受けている感覚はない。恐らく夏波に対する罪悪感によるものなのだろう。それは臆病者の夏波にとっては有り難い話でもある。
えーと、と前置きしてから、夏波は気を失う直前の記憶を手繰り寄せた。
「脈があるかを確認するために、触ったはずです」
砂のような感触にすぐ手を離したが、今思えばあれが塩だと言われたら、そうだったような気もする。人ならざる感覚に慄いて手を離せずにいるところを、志賀に蹴り飛ばされているはずだ。
「なら、やっぱお前の能力は治癒系の何かなのかもな」
「治癒、ですか?」
「あぁ」
志賀は応答すると、じろりと夏波を見上げて言った。
「さっきも言ったが、お前の身体には一度『塩化』が起こってる」
「あぁ……1回死んだっていう……」
それは宮藤もいる特殊対策室内で一度受けた話だ。
伊霧芽郁と遭遇した昨日の夜、夏波は自らの手が真っ白に染まっていく瞬間を目にしながら意識を失った。志賀の話ではその後、全身が一度完全に塩化しているのだという。しかし、死亡したと思って対処を始めようと一瞬目を離した隙に、夏波は元の人間の身体に戻っていた、らしい。無論夏波にはそんな記憶も感覚も無い。
「話を聞く限りじゃ、伊霧匠も能力の影響を受けているが、奴も問題なく生きている」
「確かに能力を無効化って言うより、受けた後回復した感じなんですかね……?でも、能力って手で触れたら無意識下でも必ず発動しちゃうものなんですよね? 治癒だとしたら、僕のこのほっぺの傷とかも治って良さそうなものですけど……」
そう言って、夏波は自分の右頬を指差した。テーピングで留められた大きなガーゼの下には、アスファルトに削り取られた跡がしっかりと残っている。志賀と出会う前に何度か素手で傷に触れているが、不可思議な力が発動する兆候はなかった。
「能力は無差別に発動してしまう場合が多い。だが稀に、一定の条件を満たさない限り発動しない場合もある。そういう能力なら、こうして手袋を着けて能力の発動を妨害できる」
「あ、この手袋ってそういう……」
志賀はこくりと頷いた。
「仮に人間に対してしか発動しない能力だったり、……そうだな、例えば俳優のミツキコウヘイも俺の知る能力者と同じだとすれば、アイツも手袋を着けさえすれば問題なく生活は送れる。常に手袋は浮いた状態になるだろうが、それより先には基本効果は及ばない。能力の延焼も、そうそう起こる事じゃ無いしな」
そういえば動画の中のミツキは最初手袋を着けていた気がする。常に装着していなければならない、というのが大変そうだが、物が無差別に浮き上がってしまうよりはずっとマシだろう。
「あの、……ずっと気になってたんですけど」
夏波は自らの両手に向けていた視線を、志賀の手元へと更に落とした。
「志賀さんと宮藤さんも、能力者、ってことなんですよね?」
そうだ、と返事が投げられる。
「俺と宮藤の能力がそれこそ条件付きだ。人間に対してしか発動しない。だから手袋を着けてさえいりゃ、並の人間に紛れて生きられる。……まあ、宮藤はたまに使う事になるが」
「どんな能力なんですか?」
「……催眠だな」
志賀は心底忌々しいとでも言いたげに吐き捨てた。「催眠?」とオウム返しをして見せても、志賀は答えない。それ以上の説明する気がないのだろう事は明白だ。
どうせならさっき超能力の説明をする時に披露してくれても良かったのに。なんて楽観的な考えが浮かぶが、何かしら事情があるのだろうと、夏波はそれ以上の詮索を試みなかった。
目当ての車の近くまで辿り着き、志賀はポケットから鍵を取り出してボタンを押した。ピピッと音がして扉のロックが外れる。
「じゃぁ、志賀さんの能力は?」
できるだけさりげない風を装って、夏波は問う。が、正直真っ先に切り出したかったのはこの質問だった。
志賀が能力を持っていないはずはない。しかし、本人はおろか宮藤ですらそれを話題に挙げないものだから、ずっとタイミングを計りかねていたのだ。若干の好奇心を覗かせながらも、夏波は彼の返事を待った。
志賀は無言で車に歩み、助手席に乗り込む直前に吐き捨てる。
「人を殺す力だ」
バン、と音を立てて、志賀は内部から扉を閉めやった。慌てて運転席の方に回り、夏波も座席に座る。じろり、と志賀が夏波の方を見た。
「それ以上をお前が知る必要はない」
「う……」
バッサリと断ち切られ、夏波は思わず眉尻を下げた。志賀の明確な拒絶に楯突ける程、夏波の心臓は強くない。歩み寄りだとか相互理解だとかで言い詰める事も考えたが、こういう相手にはかえって逆効果だろう。
あからさまにしゅんと肩をすぼめた夏波を見て、志賀は呆れたようにため息を吐く。
「……俺たちが持っているのは、扱いきれない凶器だ」
「え……?」
金属の擦れる音を立てながら、車の鍵が目の前に放り投げられる。慌てて両手でキャッチして、鍵の飛んできた方向を見た。
「触れた人間を自分の意志と関係なく殺す。それだけの力にすぎん。お前は例外中の例外なんだ。
俺の能力がどんなものでも、お前にとって危険なものであることに変わりはない。だから知らなくても良い」
こちらを見ず、窓のヘリに肘を付きながら話す志賀。そりゃそうなんですけど、と不満を漏らしかけて、ふと気づく。
――もしかして、さっきの「お前が知る必要はない」を言い直してる?
思えばこれまでも志賀が言い直しをする事は度々あった。それも大抵夏波が怯んだりしょげたりするタイミングでだ。言い方に棘があるのは、もしかすると彼自身も不本意なのかもしれない。存外気を使ってくれている、と感じるのは都合のいい解釈なのだろうか。
「……ところで、これ僕が運転する感じですか?」
「そうだが?」
あっけらかんとした返事。
「次どこ行くかとかは……」
「この住所に向かえ」
レジスターに設置されていたホルダーに、志賀は自分の端末を置いた。顔を近づけ確認すると、表示されているのはここから15分程で着く場所だ。
「伊霧芽郁は探さないんですか?」
「無闇に探し回っても無駄足踏むだけだ。協力を募る」
協力?
首を傾いだ夏波の背筋を、ぞわりと何かが這いつくばった。目をすがめた悪どい表情を浮かべながら、志賀はちらりと夏波を一瞥する。
「使えるモンは使わんとな」
――あ、違う。
この人、僕の事都合の良い手駒って思ってるだけっぽい。
淡く抱いていた志賀への親近感は、少しだけ薄まった。
*
「お前な……面の皮が厚いにも程ってモンがあるだろ」
完全に呆れた表情で、剣佐助は志賀と夏波を見下ろした。鋭い眼光は間違い無く志賀に降り注いでいるものの、小さくなっていたのは夏波の方である。
志賀に指示されるがまま車を走らせて辿り着いたのは、街の北側にあるごく小さな駐在所だった。建物内にいるのも退職間際の老警官1人で、ゆっくりとマウスを動かしながらノートパソコンを操作している。
駐車場に停められた見慣れた車を発見した瞬間、このままハンドルを切って逃げ出してやろうかと思った。だが、そんな事をしてもなんの解決にもならないと腹を括り、現状に至る。腹は括ったが、気まずい事には変わりない。
「夏波ー!元気そうで良かったよぉー!」
車から降りて抱き着いてきたのは村山だった。動きやすそうなズボンを身に纏った私服姿だからなのか、周りの目などお構いなしである。
「出勤したら夏波の席は空っぽだしさぁ、特対に異動したって辞令の紙貼ってあるし、連絡つかないし、隊長半ギレだし……もう機捜全員で心配してたんだよ?」
「まぁ、心配っつーか……モロ殺気立ってたっつーか……」
顔をしかめて呟いた剣に、夏波は更に身を縮こまらせた。
まさかこんなに早く先輩2人と顔を合わせることになるとは。彼らと共に酒を飲んだのは、ほんの十数時間前の話なのだ。夏波自身、異動の事実を完全に受け入れられているかと訊かれたなら『全く受け入れられていない』が答えになる。あくまでも応援要員なので事が終わったらすぐ戻れる、なんて今まで何となく思っていたが、いざこの2人の話を聞くと一気に『自分はもう機捜ではないのだ』という実感が湧き始めた。
夏波の顔は青白さを通り越して最早土気色だ。
「本当にすみません……散々お世話になったのに挨拶の一言もなく……お礼も言わずに……」
「あっ、そうじゃないマジでそういう意味じゃない」
村山につられる形で、剣までぶんぶんと大きく首を横に振った。
「一応訊くけど、内示はあったけど隠してた、とかじゃないんだよね?」
「あ、当たり前です!今日の午前3時に突然辞令を言い渡されただけで……」
「何でそうなるの?」
「僕にもさっぱり……」
改めて口に出してみると、尋常ではない理不尽さである。何なら休日出勤までさせられているのだが、その程度はかわいい仕打ちのように思えてくるから恐ろしい。
村山は「可哀想に……」と夏波の頭をしきりに撫で続け、剣も捨てられた猫を見るかのような何とも言えない面持ちを向けていた。
「後で必ず挨拶に伺いますので……」
受けた恩が大きすぎて、高級菓子折り一つで事足りる気がしていないが。
「本当に戻って来られないの? 隊長もご立腹だったから、抗議すればもしかしたら……」
「署長判断だ。変更はない」
横から切り込んだ志賀を、村山はじとりと半目で見た。常に涼しい顔をしている村山にしては珍しい表情だ。
「やってくれるよねぇ、志賀君。ウチの可愛い可愛い後輩をいきなり掻っ攫った上、人質に取るなんてさ」
「ひ、人質?」
人聞きの悪過ぎる単語に反応すると、村山は志賀と夏波の間を割くようにして真ん中に立った。だが、尖った声で続けたのは、正面から全員を見下ろす形になっている剣である。
「コイツが俺達を呼び出した文言、マジで最低だからな」
「最低……? 一体何言ったら剣さんに最低って言われるんですか?」
志賀はあっけらかんと答えた。
「手前の後輩をいじめてほしくなきゃ、俺に協力しろ」
「あ、なるほど、最低だ」
うるせぇな、と夏波を睨む。
「お前に直接泣き落としさせなかっただけ有り難く思え」
「恐縮ですが、今後鬼と悪魔どちらでお呼びすれば……?」
「殴られたいらしいな」
拳を握る志賀に、ぴゃっ、と奇妙な悲鳴を上げて距離を取る夏波。
2人の言い合いに挟まれていた村山が、わざとらしいため息をついた。
「虐められてる感じじゃなくて良かったけど。でも」
ずい、と顔を近づけ志賀に詰め寄る。
「夏波に何かあったら即、ウチの佐助君ぶつけるからね」
「何で俺なんすか」
「そんで主席VS次席、因縁の対決って煽った挙げ句チケット売るから」
「何のだ」
剣が村山の首根っこを掴んで自分の隣に引き戻した。それでも村山は頬を膨らませながら敵対心を露わにしている。剣は心配そうに夏波を見た。
「夏波、何かあったらすぐに連絡寄越せよ。別部署だからって遠慮されると、こっちが悲しくなる。……ちゃんと頼ってくれ」
「剣さん……ありがとうございます……」
挨拶も引き継ぎもなく突然居なくなった罪悪感と、こんな状態で会ってしまったという気まずさが、剣の言葉でゆるりと薄らいだ。他の機捜の先輩達もこんな風に自分を心配してくれているのだろうか。心を打たれて目頭が熱くなったところで、それを打ち壊す冷淡な声が割り入る。
「早速だが頼らせてもらう。本題に入るぞ」
「お前に言ってねぇんだわ」
「密行ついでで構わん。これに似た痕跡見つけたら即連絡よこせ」
「聞けや」
我が道を行く志賀の暴挙に呆れ返りながらも、剣と村山は突き付けられた携帯端末の画面を覗き見る。
写っているのは、先日夏波が撮影した『塩化している電柱』だ。
「何これ?」
「毒みたいなモンだ。こうやって白くなってる物を見つけたら触らずに連絡入れろ。俺たちが処理する」
「毒って……」
こうも堂々とした嘘では、驚く暇 もない。話がややこしくなるのを避けているのだろうが、村山と剣の怪訝な顔は避けられなかった。本当か、と問うように二人は夏波を見るが、ニコリとぎこちなく笑って事なきを得る。
「仕方ない……。思ったより手間かかることじゃないし、後輩の為に引き受けるよ。といっても、あくまでもついでだからね。正式に上から司令が出てない以上、それメインには勿論動かないよ」
「構わん。市内を密行してる機捜全員に伝えろ。それから、交通部の連中にも同じ内容で連絡回しとけ」
「機捜はまだしも、交通部は志賀がやりゃいいじゃねえか」
「この前の“神隠し”の一件で、あそこには俺からの連絡がまともに回らない事が分かった」
「お前が交通部のやり方無視して強引に処理したから、しっかり反感買っただけだろ……」
「お前らがやらないならコイツにやらせるだけだが」
突然志賀に指を指され、夏波はキョトンと目を点にさせる。一瞬の沈黙の後、目の前の先輩2人が同時に志賀へと詰め寄った。
「おッ前、配属数時間の新人に自分の尻拭いさせんじゃねーよ!!」
「ただでさえ理不尽真っ只中なこの子を、これ以上矢面に立たせないでくれるかな!?」
「可愛い後輩が傷つく所を見たくないならお前らがやれ」
「とんでもねーなコイツ!!」
剣と村山の声が重なる。
夏波は手を組み、志賀の言葉がどうか単なる脅しでありますようにと願うことしかできない。ただでさえ怒られるのが苦手なのに、初手から悪印象とかどんなハードモードだ。
村山と剣はお互い顔を合わせると、「仕方がない」と脱力した。
「今回は情報共有と仲介までやってやるよ。夏波に免じてな」
「その代わり、夏波に酷い事したら二度と個人的な協力はしないよ? いいね?」
「まぁ、殺しはせん」
真顔で胸倉を掴みに行きかけた剣を慌てて押し止め、拳を握る村山をなだめ、夏波は最早暴君と化している志賀を車へと追いやった。
志賀も志賀とて目的は達したとばかりに助手席に乗り込んでいったので大した手間ではなかったのだが、心労は募るばかりである。
何度も頭を下げてお礼と謝罪を口にする夏波に、村山はいつもの笑顔を取り戻しながらも心配そうに問うた。
「夏波、本当に大丈夫? 何かあったらすぐに言うんだよ?」
「あ、いえ、志賀さんああ言ってますけど、結構気を遣ってもらってるみたいなので……今の所は……」
あくまでも勘違いでなければだが。
「まぁ、志賀君の事もそりゃそうなんだけど……その……」
「……? どうしました?」
村山は視線を彷徨わせて、剣に着地させる。彼もどうやら思い当たる事があるようで、言いづらそうに眉を顰めた。
「お前、三科と連絡は取ったのか?」
半ばうめき声のような短い悲鳴を上げ、夏波は自分の頭を抱えた。失念していたわけではない。携帯端末が塩と化してしまったために、連絡手段がないのだ。
「……いえ、まだ……あの、昨日の夜にスマホ壊れちゃって」
「あぁ、だから連絡つかなかったの」
得心がいったとばかりに村山は目を瞬かせた。恐らく何度も連絡を入れてくれたのだろう。少し顔を伏せて、夏波は恐る恐る問いかける。
「三科……もう知ってるんですかね……」
「うん、今朝連絡来たからね。『夏波と連絡が取れない!』って大騒ぎだよ。私も連絡取れた訳じゃないし、適当な情報流すと話こじれそうだから返してないけど」
「悪いが、俺はお前が特殊対策室に異動になったって事は伝えたぞ。連絡取れないからって安否まで気にし始めてたからな」
今日の三科は非番のはずで、酔が覚めずに寝てくれていればと思ったが、そうは問屋が卸さないらしい。
申し訳無さで押し潰されそうだった。もしも自分が三科の立場だったとしたら、異動の事実を聞かされていない時点で3日は寝込んでしまいそうだ。
「すみませんが、三科に言伝をお願いできますか」
「オーケー。何て言う?」
「えっと……じゃあ、端末が壊れちゃった事と、直接事情を説明したいから、今日の夜に寮に行くって事をお伝えいただけると……」
「分かった、送っておくね」
村山が夏波の肩をポンポンと優しく叩きながら、端末に文字を入力していく。夏波がつめていた息を吐き出すと同時に
「おい、何やってんだ」
と、警察車両から志賀の声が飛んできた。
「い、今行きます! あの、村山さん、剣さん、また後でご挨拶に伺いますね!」
「うん、待ってるよ。でも無理はしないでね」
「何かあったら言え。後、端末変えたら連絡先教えろよ。登録し直すから」
「はい、ありがとうございます!」
夏波は改めてペコリと頭を下げ、新たな同僚の待つ車へと駆け寄った。志賀は相変わらず不貞腐れた顔で窓の外を眺めるばかりで、夏波の方を見ようとはしない。
――今更だけど、僕、うまくやれるのかな
一抹どころの騒ぎではない、胸中を埋め尽くす不安の最中、夏波は車のエンジンをかける。
夜に三科の住む寮に行ったら、まずは謝らないと。その後どんな話になるかのシュミレーションを何度も頭の中で繰り返す。それが全くの無駄になるなど、この時の夏波には知る由もない事だった。
受付に挨拶をして、時計を見上げる。10時。体感的にはもう昼に差し掛かっていてもおかしくないくらいだったのは、まだ外が暗い段階から動き出していたせいだろう。
病院を出て駐車場まで向かう道中、それまで考え込む仕草を見せていた志賀がふと口を開いた。
「お前、……あの日、伊霧匠に触ったか?」
「あの日って、蹴られた日ですか?」
「……そうだ」
苦々しく肯定し、罰が悪いということを隠そうとはしない。
志賀は基本誰に対しても横柄で当たりが強い、とは剣の談だが、今の所夏波がその風を受けている感覚はない。恐らく夏波に対する罪悪感によるものなのだろう。それは臆病者の夏波にとっては有り難い話でもある。
えーと、と前置きしてから、夏波は気を失う直前の記憶を手繰り寄せた。
「脈があるかを確認するために、触ったはずです」
砂のような感触にすぐ手を離したが、今思えばあれが塩だと言われたら、そうだったような気もする。人ならざる感覚に慄いて手を離せずにいるところを、志賀に蹴り飛ばされているはずだ。
「なら、やっぱお前の能力は治癒系の何かなのかもな」
「治癒、ですか?」
「あぁ」
志賀は応答すると、じろりと夏波を見上げて言った。
「さっきも言ったが、お前の身体には一度『塩化』が起こってる」
「あぁ……1回死んだっていう……」
それは宮藤もいる特殊対策室内で一度受けた話だ。
伊霧芽郁と遭遇した昨日の夜、夏波は自らの手が真っ白に染まっていく瞬間を目にしながら意識を失った。志賀の話ではその後、全身が一度完全に塩化しているのだという。しかし、死亡したと思って対処を始めようと一瞬目を離した隙に、夏波は元の人間の身体に戻っていた、らしい。無論夏波にはそんな記憶も感覚も無い。
「話を聞く限りじゃ、伊霧匠も能力の影響を受けているが、奴も問題なく生きている」
「確かに能力を無効化って言うより、受けた後回復した感じなんですかね……?でも、能力って手で触れたら無意識下でも必ず発動しちゃうものなんですよね? 治癒だとしたら、僕のこのほっぺの傷とかも治って良さそうなものですけど……」
そう言って、夏波は自分の右頬を指差した。テーピングで留められた大きなガーゼの下には、アスファルトに削り取られた跡がしっかりと残っている。志賀と出会う前に何度か素手で傷に触れているが、不可思議な力が発動する兆候はなかった。
「能力は無差別に発動してしまう場合が多い。だが稀に、一定の条件を満たさない限り発動しない場合もある。そういう能力なら、こうして手袋を着けて能力の発動を妨害できる」
「あ、この手袋ってそういう……」
志賀はこくりと頷いた。
「仮に人間に対してしか発動しない能力だったり、……そうだな、例えば俳優のミツキコウヘイも俺の知る能力者と同じだとすれば、アイツも手袋を着けさえすれば問題なく生活は送れる。常に手袋は浮いた状態になるだろうが、それより先には基本効果は及ばない。能力の延焼も、そうそう起こる事じゃ無いしな」
そういえば動画の中のミツキは最初手袋を着けていた気がする。常に装着していなければならない、というのが大変そうだが、物が無差別に浮き上がってしまうよりはずっとマシだろう。
「あの、……ずっと気になってたんですけど」
夏波は自らの両手に向けていた視線を、志賀の手元へと更に落とした。
「志賀さんと宮藤さんも、能力者、ってことなんですよね?」
そうだ、と返事が投げられる。
「俺と宮藤の能力がそれこそ条件付きだ。人間に対してしか発動しない。だから手袋を着けてさえいりゃ、並の人間に紛れて生きられる。……まあ、宮藤はたまに使う事になるが」
「どんな能力なんですか?」
「……催眠だな」
志賀は心底忌々しいとでも言いたげに吐き捨てた。「催眠?」とオウム返しをして見せても、志賀は答えない。それ以上の説明する気がないのだろう事は明白だ。
どうせならさっき超能力の説明をする時に披露してくれても良かったのに。なんて楽観的な考えが浮かぶが、何かしら事情があるのだろうと、夏波はそれ以上の詮索を試みなかった。
目当ての車の近くまで辿り着き、志賀はポケットから鍵を取り出してボタンを押した。ピピッと音がして扉のロックが外れる。
「じゃぁ、志賀さんの能力は?」
できるだけさりげない風を装って、夏波は問う。が、正直真っ先に切り出したかったのはこの質問だった。
志賀が能力を持っていないはずはない。しかし、本人はおろか宮藤ですらそれを話題に挙げないものだから、ずっとタイミングを計りかねていたのだ。若干の好奇心を覗かせながらも、夏波は彼の返事を待った。
志賀は無言で車に歩み、助手席に乗り込む直前に吐き捨てる。
「人を殺す力だ」
バン、と音を立てて、志賀は内部から扉を閉めやった。慌てて運転席の方に回り、夏波も座席に座る。じろり、と志賀が夏波の方を見た。
「それ以上をお前が知る必要はない」
「う……」
バッサリと断ち切られ、夏波は思わず眉尻を下げた。志賀の明確な拒絶に楯突ける程、夏波の心臓は強くない。歩み寄りだとか相互理解だとかで言い詰める事も考えたが、こういう相手にはかえって逆効果だろう。
あからさまにしゅんと肩をすぼめた夏波を見て、志賀は呆れたようにため息を吐く。
「……俺たちが持っているのは、扱いきれない凶器だ」
「え……?」
金属の擦れる音を立てながら、車の鍵が目の前に放り投げられる。慌てて両手でキャッチして、鍵の飛んできた方向を見た。
「触れた人間を自分の意志と関係なく殺す。それだけの力にすぎん。お前は例外中の例外なんだ。
俺の能力がどんなものでも、お前にとって危険なものであることに変わりはない。だから知らなくても良い」
こちらを見ず、窓のヘリに肘を付きながら話す志賀。そりゃそうなんですけど、と不満を漏らしかけて、ふと気づく。
――もしかして、さっきの「お前が知る必要はない」を言い直してる?
思えばこれまでも志賀が言い直しをする事は度々あった。それも大抵夏波が怯んだりしょげたりするタイミングでだ。言い方に棘があるのは、もしかすると彼自身も不本意なのかもしれない。存外気を使ってくれている、と感じるのは都合のいい解釈なのだろうか。
「……ところで、これ僕が運転する感じですか?」
「そうだが?」
あっけらかんとした返事。
「次どこ行くかとかは……」
「この住所に向かえ」
レジスターに設置されていたホルダーに、志賀は自分の端末を置いた。顔を近づけ確認すると、表示されているのはここから15分程で着く場所だ。
「伊霧芽郁は探さないんですか?」
「無闇に探し回っても無駄足踏むだけだ。協力を募る」
協力?
首を傾いだ夏波の背筋を、ぞわりと何かが這いつくばった。目をすがめた悪どい表情を浮かべながら、志賀はちらりと夏波を一瞥する。
「使えるモンは使わんとな」
――あ、違う。
この人、僕の事都合の良い手駒って思ってるだけっぽい。
淡く抱いていた志賀への親近感は、少しだけ薄まった。
*
「お前な……面の皮が厚いにも程ってモンがあるだろ」
完全に呆れた表情で、剣佐助は志賀と夏波を見下ろした。鋭い眼光は間違い無く志賀に降り注いでいるものの、小さくなっていたのは夏波の方である。
志賀に指示されるがまま車を走らせて辿り着いたのは、街の北側にあるごく小さな駐在所だった。建物内にいるのも退職間際の老警官1人で、ゆっくりとマウスを動かしながらノートパソコンを操作している。
駐車場に停められた見慣れた車を発見した瞬間、このままハンドルを切って逃げ出してやろうかと思った。だが、そんな事をしてもなんの解決にもならないと腹を括り、現状に至る。腹は括ったが、気まずい事には変わりない。
「夏波ー!元気そうで良かったよぉー!」
車から降りて抱き着いてきたのは村山だった。動きやすそうなズボンを身に纏った私服姿だからなのか、周りの目などお構いなしである。
「出勤したら夏波の席は空っぽだしさぁ、特対に異動したって辞令の紙貼ってあるし、連絡つかないし、隊長半ギレだし……もう機捜全員で心配してたんだよ?」
「まぁ、心配っつーか……モロ殺気立ってたっつーか……」
顔をしかめて呟いた剣に、夏波は更に身を縮こまらせた。
まさかこんなに早く先輩2人と顔を合わせることになるとは。彼らと共に酒を飲んだのは、ほんの十数時間前の話なのだ。夏波自身、異動の事実を完全に受け入れられているかと訊かれたなら『全く受け入れられていない』が答えになる。あくまでも応援要員なので事が終わったらすぐ戻れる、なんて今まで何となく思っていたが、いざこの2人の話を聞くと一気に『自分はもう機捜ではないのだ』という実感が湧き始めた。
夏波の顔は青白さを通り越して最早土気色だ。
「本当にすみません……散々お世話になったのに挨拶の一言もなく……お礼も言わずに……」
「あっ、そうじゃないマジでそういう意味じゃない」
村山につられる形で、剣までぶんぶんと大きく首を横に振った。
「一応訊くけど、内示はあったけど隠してた、とかじゃないんだよね?」
「あ、当たり前です!今日の午前3時に突然辞令を言い渡されただけで……」
「何でそうなるの?」
「僕にもさっぱり……」
改めて口に出してみると、尋常ではない理不尽さである。何なら休日出勤までさせられているのだが、その程度はかわいい仕打ちのように思えてくるから恐ろしい。
村山は「可哀想に……」と夏波の頭をしきりに撫で続け、剣も捨てられた猫を見るかのような何とも言えない面持ちを向けていた。
「後で必ず挨拶に伺いますので……」
受けた恩が大きすぎて、高級菓子折り一つで事足りる気がしていないが。
「本当に戻って来られないの? 隊長もご立腹だったから、抗議すればもしかしたら……」
「署長判断だ。変更はない」
横から切り込んだ志賀を、村山はじとりと半目で見た。常に涼しい顔をしている村山にしては珍しい表情だ。
「やってくれるよねぇ、志賀君。ウチの可愛い可愛い後輩をいきなり掻っ攫った上、人質に取るなんてさ」
「ひ、人質?」
人聞きの悪過ぎる単語に反応すると、村山は志賀と夏波の間を割くようにして真ん中に立った。だが、尖った声で続けたのは、正面から全員を見下ろす形になっている剣である。
「コイツが俺達を呼び出した文言、マジで最低だからな」
「最低……? 一体何言ったら剣さんに最低って言われるんですか?」
志賀はあっけらかんと答えた。
「手前の後輩をいじめてほしくなきゃ、俺に協力しろ」
「あ、なるほど、最低だ」
うるせぇな、と夏波を睨む。
「お前に直接泣き落としさせなかっただけ有り難く思え」
「恐縮ですが、今後鬼と悪魔どちらでお呼びすれば……?」
「殴られたいらしいな」
拳を握る志賀に、ぴゃっ、と奇妙な悲鳴を上げて距離を取る夏波。
2人の言い合いに挟まれていた村山が、わざとらしいため息をついた。
「虐められてる感じじゃなくて良かったけど。でも」
ずい、と顔を近づけ志賀に詰め寄る。
「夏波に何かあったら即、ウチの佐助君ぶつけるからね」
「何で俺なんすか」
「そんで主席VS次席、因縁の対決って煽った挙げ句チケット売るから」
「何のだ」
剣が村山の首根っこを掴んで自分の隣に引き戻した。それでも村山は頬を膨らませながら敵対心を露わにしている。剣は心配そうに夏波を見た。
「夏波、何かあったらすぐに連絡寄越せよ。別部署だからって遠慮されると、こっちが悲しくなる。……ちゃんと頼ってくれ」
「剣さん……ありがとうございます……」
挨拶も引き継ぎもなく突然居なくなった罪悪感と、こんな状態で会ってしまったという気まずさが、剣の言葉でゆるりと薄らいだ。他の機捜の先輩達もこんな風に自分を心配してくれているのだろうか。心を打たれて目頭が熱くなったところで、それを打ち壊す冷淡な声が割り入る。
「早速だが頼らせてもらう。本題に入るぞ」
「お前に言ってねぇんだわ」
「密行ついでで構わん。これに似た痕跡見つけたら即連絡よこせ」
「聞けや」
我が道を行く志賀の暴挙に呆れ返りながらも、剣と村山は突き付けられた携帯端末の画面を覗き見る。
写っているのは、先日夏波が撮影した『塩化している電柱』だ。
「何これ?」
「毒みたいなモンだ。こうやって白くなってる物を見つけたら触らずに連絡入れろ。俺たちが処理する」
「毒って……」
こうも堂々とした嘘では、驚く
「仕方ない……。思ったより手間かかることじゃないし、後輩の為に引き受けるよ。といっても、あくまでもついでだからね。正式に上から司令が出てない以上、それメインには勿論動かないよ」
「構わん。市内を密行してる機捜全員に伝えろ。それから、交通部の連中にも同じ内容で連絡回しとけ」
「機捜はまだしも、交通部は志賀がやりゃいいじゃねえか」
「この前の“神隠し”の一件で、あそこには俺からの連絡がまともに回らない事が分かった」
「お前が交通部のやり方無視して強引に処理したから、しっかり反感買っただけだろ……」
「お前らがやらないならコイツにやらせるだけだが」
突然志賀に指を指され、夏波はキョトンと目を点にさせる。一瞬の沈黙の後、目の前の先輩2人が同時に志賀へと詰め寄った。
「おッ前、配属数時間の新人に自分の尻拭いさせんじゃねーよ!!」
「ただでさえ理不尽真っ只中なこの子を、これ以上矢面に立たせないでくれるかな!?」
「可愛い後輩が傷つく所を見たくないならお前らがやれ」
「とんでもねーなコイツ!!」
剣と村山の声が重なる。
夏波は手を組み、志賀の言葉がどうか単なる脅しでありますようにと願うことしかできない。ただでさえ怒られるのが苦手なのに、初手から悪印象とかどんなハードモードだ。
村山と剣はお互い顔を合わせると、「仕方がない」と脱力した。
「今回は情報共有と仲介までやってやるよ。夏波に免じてな」
「その代わり、夏波に酷い事したら二度と個人的な協力はしないよ? いいね?」
「まぁ、殺しはせん」
真顔で胸倉を掴みに行きかけた剣を慌てて押し止め、拳を握る村山をなだめ、夏波は最早暴君と化している志賀を車へと追いやった。
志賀も志賀とて目的は達したとばかりに助手席に乗り込んでいったので大した手間ではなかったのだが、心労は募るばかりである。
何度も頭を下げてお礼と謝罪を口にする夏波に、村山はいつもの笑顔を取り戻しながらも心配そうに問うた。
「夏波、本当に大丈夫? 何かあったらすぐに言うんだよ?」
「あ、いえ、志賀さんああ言ってますけど、結構気を遣ってもらってるみたいなので……今の所は……」
あくまでも勘違いでなければだが。
「まぁ、志賀君の事もそりゃそうなんだけど……その……」
「……? どうしました?」
村山は視線を彷徨わせて、剣に着地させる。彼もどうやら思い当たる事があるようで、言いづらそうに眉を顰めた。
「お前、三科と連絡は取ったのか?」
半ばうめき声のような短い悲鳴を上げ、夏波は自分の頭を抱えた。失念していたわけではない。携帯端末が塩と化してしまったために、連絡手段がないのだ。
「……いえ、まだ……あの、昨日の夜にスマホ壊れちゃって」
「あぁ、だから連絡つかなかったの」
得心がいったとばかりに村山は目を瞬かせた。恐らく何度も連絡を入れてくれたのだろう。少し顔を伏せて、夏波は恐る恐る問いかける。
「三科……もう知ってるんですかね……」
「うん、今朝連絡来たからね。『夏波と連絡が取れない!』って大騒ぎだよ。私も連絡取れた訳じゃないし、適当な情報流すと話こじれそうだから返してないけど」
「悪いが、俺はお前が特殊対策室に異動になったって事は伝えたぞ。連絡取れないからって安否まで気にし始めてたからな」
今日の三科は非番のはずで、酔が覚めずに寝てくれていればと思ったが、そうは問屋が卸さないらしい。
申し訳無さで押し潰されそうだった。もしも自分が三科の立場だったとしたら、異動の事実を聞かされていない時点で3日は寝込んでしまいそうだ。
「すみませんが、三科に言伝をお願いできますか」
「オーケー。何て言う?」
「えっと……じゃあ、端末が壊れちゃった事と、直接事情を説明したいから、今日の夜に寮に行くって事をお伝えいただけると……」
「分かった、送っておくね」
村山が夏波の肩をポンポンと優しく叩きながら、端末に文字を入力していく。夏波がつめていた息を吐き出すと同時に
「おい、何やってんだ」
と、警察車両から志賀の声が飛んできた。
「い、今行きます! あの、村山さん、剣さん、また後でご挨拶に伺いますね!」
「うん、待ってるよ。でも無理はしないでね」
「何かあったら言え。後、端末変えたら連絡先教えろよ。登録し直すから」
「はい、ありがとうございます!」
夏波は改めてペコリと頭を下げ、新たな同僚の待つ車へと駆け寄った。志賀は相変わらず不貞腐れた顔で窓の外を眺めるばかりで、夏波の方を見ようとはしない。
――今更だけど、僕、うまくやれるのかな
一抹どころの騒ぎではない、胸中を埋め尽くす不安の最中、夏波は車のエンジンをかける。
夜に三科の住む寮に行ったら、まずは謝らないと。その後どんな話になるかのシュミレーションを何度も頭の中で繰り返す。それが全くの無駄になるなど、この時の夏波には知る由もない事だった。