3-5 侵入者
文字数 2,472文字
「本当にご馳走様でした」
頭を下げた夏波に、村山はひらひらと手を振った。
「良いんだよ若人。ハンバーグは家に帰ったらすぐ冷凍庫にブチ込んでね」
「はい。今日の晩御飯に1ついただきます」
「うんうん、ちゃんと食べて元気になりな」
満足そうに頷く村山。夏波はもう一度挨拶し、そして扉を閉める。
エレベーターで下にくだってマンションから出ると、西日が目に突き刺さった。
片手で日差しを遮りながら、夏波は足早に背の高いビルの陰に逃げ込む。
人通りの多い所を歩け。暗くなってからは出歩くな。とは、志賀を筆頭として、周りのほぼ全員から口を酸っぱく言いつけられている事柄だ。
村山との食事を早々に切り上げることになったのも、夏波が夜に出歩くことを彼女が良しとしなかったためである。
まるで小学生だな、と思いつつ、拉致犯が捕まっていない以上逆らう気にもなれない。寄り道もそこそこに、夏波は帰路を急いだ。
「ただいまー……と」
アパートの玄関扉を開け、内側の郵便受けに何も入っていない事を確認する。冷凍庫へ村山からもらったお土産を入れて、リュックサックをおろしながら部屋に立ち入った。
まだ夕暮れ時を抜け出していない時間帯だが、室内は薄暗い。カーテンは基本的に閉めっぱなし、部屋も東向きなので仕方のないことだろう。
電気のリモコンはどこだっただろうか。そう夏波が室内のテーブルに近寄った瞬間、ピッ、と電子音が鳴って電気がついた。
「おかえり」
心臓が音を立てて鳴る、どころか、夏波は文字通り飛び上がって肩を強張らせた。
声が聞こえてきたのはすぐ背後。
半分腰を抜かした状態で振り返ると、部屋の入口に男が1人、リモコンをゆらゆらとさせながら立ち尽くしていた。
声にならない悲鳴をあげながら、夏波は男から離れようと後ずさる。心臓が激しい音を立てすぎて、上手く呼吸もできなかった。
「ドッキリ大成功〜」
拉致犯の男だ、と脳が理解したのは、背中が壁にたどり着いてからだ。ずるずるとへたりこんで浅い呼吸を繰り返す夏波を見て、男はガシガシと後頭部を掻いた。
「あーあー、過呼吸はまずいね。はい、深呼吸ー」
男は大きく息を吸って、吐き出す仕草を取る。
思わずつられる形で息を大きく吸えば、ようやっと肺に空気が満ちた。何度か繰り返し、夏波は少しずつ呼吸を落ち着ける。
だが、心臓が落ち着く事はなく、上手く立ち上がる事も叶わない。
「驚かせたのは悪かったよ。でもまぁ、殺しに来たとかじゃないから、ね?」
気だるげで眠たそうな目を細め、男はニコリと笑う。
何かを発しなければと思う気持ちばかりがはやって、夏波は何度か口をぱくつかせた。
男はどさりと夏波のベッドに腰を下ろすと、足を組んでくつろぎ始める。
――あ、土足
追いつかなくなると現実逃避を始めるのは前々からだったが、こんな時でも夏波の思考はあらん方向へ逃げた。
一瞬男が面食らった様子で夏波を見ると、時間差で吹き出す。
「ビビリなのか肝座ってんのかどっちよ」
大笑いを始めた男を見て、初めて自分が思考を声に出していたのだと気がついた。
男が一頻り笑い終える頃には、ある程度落ち着きを取り戻し、夏波は壁に背中を預けたまま思考を巡らせる。
戦うにしろ逃げるにしろ、今の腰が抜けた状態ではどうにもならない。ある程度相手の出方を窺いつつ、時間を引き伸ばした方が得策だろうかと、生唾を飲む。
「ど、どうやって、ウチに……?」
震える声を何とか押し出して、夏波は問う。
男は「あぁ」と返し、黒いコートの内ポケットから1本の鍵を取り出し、フラフラと振ってみせた。
「鍵って、元さえありゃ意外と簡単に複製できるんだよね」
拉致された後の夏波の持ち物は倉庫内にあったので、鍵も含めて全て回収しているはずだ。
盗んだのではなく、型を取った、という事なのだろう。
「なにを、しに……」
「そりゃ、話をしに」
男はポケットに手を突っ込んで、涼しい顔で言ってのける。
「最初に君を拐ったのは、ほんの偶然だったんだけど。アレがすっ飛んで助けに来るような子だったみたいだから、丁度いいなぁってね」
「アレ……?」
「志賀太陽」
死ななくて良かったね。なんて、男は笑った。
「だらだら話してると面倒な事になりそうだし、とっとと本題入ろうか」
男は少しだけ前に身を乗り出して、両膝に肘をつき、そして指先を合わせた。
「君は、シロガネとか、カドイって名前な覚えはある?」
「それは……」
「知らないんだよね」
拉致された時に再三された質問だ。あの時は恐らく、夏波が本当に知らないのかを計っていたのだろうが、今回の問いかけは単なる確認のように思えた。
「じゃ、3年前の出来事は?何か覚えてない?」
ぼやけた質問に首を捻った。男は残念そうに肩を竦める。
「そうかぁ。実はさぁ、私もよくは覚えてないのよ」
笑顔を貼り付けている男に向けて、夏波は理解しきれず目を瞬かせた。
「変な話だと思う?でも仕方ない。何故なら、3年前に起こった出来事は、記録からも、記憶からも消えてしまっているから」
夏波は今度こそ首を傾げた。
男はそんな夏波を見て、優しげに口元を歪める。
「かくいう私もちょっと記憶喪失気味でね。思い出さなきゃならない事があるんだ。その為に、協力して欲しいなと思った訳よ。能力者である君にね」
夏波は最早顔を顰めることしかできなかった。
何故、と問う間も無く男は続ける。
「でもまさか自分を殺しかけた人間から電話があったって、まともに取り合わないだろう?だから色々考えた結果、直接来るのが早いかなと思った訳」
男はポケットから携帯端末を取り出して、何かを操作し、夏波に向けた。
〈死に方を教えます〉
不意に、男の持つ端末から無機質な声が流れ出る。
夏波の瞳が意図せず大きく見開かれた。男と端末を交互に見比べ、目を何度も瞬かせる。
それは確かに、かつての記憶を読み取った時に聞いた音と言葉。
「“鯨”……!?」
掠れて出た夏波の言葉を聞き、男は満足そうに口元を吊り上げた。
「夏波奏。ちょっと私と取引してもらえない?」
頭を下げた夏波に、村山はひらひらと手を振った。
「良いんだよ若人。ハンバーグは家に帰ったらすぐ冷凍庫にブチ込んでね」
「はい。今日の晩御飯に1ついただきます」
「うんうん、ちゃんと食べて元気になりな」
満足そうに頷く村山。夏波はもう一度挨拶し、そして扉を閉める。
エレベーターで下にくだってマンションから出ると、西日が目に突き刺さった。
片手で日差しを遮りながら、夏波は足早に背の高いビルの陰に逃げ込む。
人通りの多い所を歩け。暗くなってからは出歩くな。とは、志賀を筆頭として、周りのほぼ全員から口を酸っぱく言いつけられている事柄だ。
村山との食事を早々に切り上げることになったのも、夏波が夜に出歩くことを彼女が良しとしなかったためである。
まるで小学生だな、と思いつつ、拉致犯が捕まっていない以上逆らう気にもなれない。寄り道もそこそこに、夏波は帰路を急いだ。
「ただいまー……と」
アパートの玄関扉を開け、内側の郵便受けに何も入っていない事を確認する。冷凍庫へ村山からもらったお土産を入れて、リュックサックをおろしながら部屋に立ち入った。
まだ夕暮れ時を抜け出していない時間帯だが、室内は薄暗い。カーテンは基本的に閉めっぱなし、部屋も東向きなので仕方のないことだろう。
電気のリモコンはどこだっただろうか。そう夏波が室内のテーブルに近寄った瞬間、ピッ、と電子音が鳴って電気がついた。
「おかえり」
心臓が音を立てて鳴る、どころか、夏波は文字通り飛び上がって肩を強張らせた。
声が聞こえてきたのはすぐ背後。
半分腰を抜かした状態で振り返ると、部屋の入口に男が1人、リモコンをゆらゆらとさせながら立ち尽くしていた。
声にならない悲鳴をあげながら、夏波は男から離れようと後ずさる。心臓が激しい音を立てすぎて、上手く呼吸もできなかった。
「ドッキリ大成功〜」
拉致犯の男だ、と脳が理解したのは、背中が壁にたどり着いてからだ。ずるずるとへたりこんで浅い呼吸を繰り返す夏波を見て、男はガシガシと後頭部を掻いた。
「あーあー、過呼吸はまずいね。はい、深呼吸ー」
男は大きく息を吸って、吐き出す仕草を取る。
思わずつられる形で息を大きく吸えば、ようやっと肺に空気が満ちた。何度か繰り返し、夏波は少しずつ呼吸を落ち着ける。
だが、心臓が落ち着く事はなく、上手く立ち上がる事も叶わない。
「驚かせたのは悪かったよ。でもまぁ、殺しに来たとかじゃないから、ね?」
気だるげで眠たそうな目を細め、男はニコリと笑う。
何かを発しなければと思う気持ちばかりがはやって、夏波は何度か口をぱくつかせた。
男はどさりと夏波のベッドに腰を下ろすと、足を組んでくつろぎ始める。
――あ、土足
追いつかなくなると現実逃避を始めるのは前々からだったが、こんな時でも夏波の思考はあらん方向へ逃げた。
一瞬男が面食らった様子で夏波を見ると、時間差で吹き出す。
「ビビリなのか肝座ってんのかどっちよ」
大笑いを始めた男を見て、初めて自分が思考を声に出していたのだと気がついた。
男が一頻り笑い終える頃には、ある程度落ち着きを取り戻し、夏波は壁に背中を預けたまま思考を巡らせる。
戦うにしろ逃げるにしろ、今の腰が抜けた状態ではどうにもならない。ある程度相手の出方を窺いつつ、時間を引き伸ばした方が得策だろうかと、生唾を飲む。
「ど、どうやって、ウチに……?」
震える声を何とか押し出して、夏波は問う。
男は「あぁ」と返し、黒いコートの内ポケットから1本の鍵を取り出し、フラフラと振ってみせた。
「鍵って、元さえありゃ意外と簡単に複製できるんだよね」
拉致された後の夏波の持ち物は倉庫内にあったので、鍵も含めて全て回収しているはずだ。
盗んだのではなく、型を取った、という事なのだろう。
「なにを、しに……」
「そりゃ、話をしに」
男はポケットに手を突っ込んで、涼しい顔で言ってのける。
「最初に君を拐ったのは、ほんの偶然だったんだけど。アレがすっ飛んで助けに来るような子だったみたいだから、丁度いいなぁってね」
「アレ……?」
「志賀太陽」
死ななくて良かったね。なんて、男は笑った。
「だらだら話してると面倒な事になりそうだし、とっとと本題入ろうか」
男は少しだけ前に身を乗り出して、両膝に肘をつき、そして指先を合わせた。
「君は、シロガネとか、カドイって名前な覚えはある?」
「それは……」
「知らないんだよね」
拉致された時に再三された質問だ。あの時は恐らく、夏波が本当に知らないのかを計っていたのだろうが、今回の問いかけは単なる確認のように思えた。
「じゃ、3年前の出来事は?何か覚えてない?」
ぼやけた質問に首を捻った。男は残念そうに肩を竦める。
「そうかぁ。実はさぁ、私もよくは覚えてないのよ」
笑顔を貼り付けている男に向けて、夏波は理解しきれず目を瞬かせた。
「変な話だと思う?でも仕方ない。何故なら、3年前に起こった出来事は、記録からも、記憶からも消えてしまっているから」
夏波は今度こそ首を傾げた。
男はそんな夏波を見て、優しげに口元を歪める。
「かくいう私もちょっと記憶喪失気味でね。思い出さなきゃならない事があるんだ。その為に、協力して欲しいなと思った訳よ。能力者である君にね」
夏波は最早顔を顰めることしかできなかった。
何故、と問う間も無く男は続ける。
「でもまさか自分を殺しかけた人間から電話があったって、まともに取り合わないだろう?だから色々考えた結果、直接来るのが早いかなと思った訳」
男はポケットから携帯端末を取り出して、何かを操作し、夏波に向けた。
〈死に方を教えます〉
不意に、男の持つ端末から無機質な声が流れ出る。
夏波の瞳が意図せず大きく見開かれた。男と端末を交互に見比べ、目を何度も瞬かせる。
それは確かに、かつての記憶を読み取った時に聞いた音と言葉。
「“鯨”……!?」
掠れて出た夏波の言葉を聞き、男は満足そうに口元を吊り上げた。
「夏波奏。ちょっと私と取引してもらえない?」