【或る人と或る退魔師】

文字数 2,334文字

 ぴー。ぴー。
 しゅー。しゅー。
 規則正しい電子音は、その人の心の臓がまだ生きていることを示している。
 規則正しい蒸気の音は、その人の肺の腑がまだ生きていることを示している。
 黒いワンピースに、白いカーディガンを身にまとっている「その人」は、それらを聞いてもちっとも嬉しくない。
 ううん、嬉しくないんじゃない。
「虚しい」のだ。
 たくさんたくさん、泣いた。
 もう涙が出ないほど。
 たくさんたくさん、励まされた。
 これ以上頑張って笑顔を作るので疲れきっているほど。
 だから。
「この人」が生きているというバイタルサインを聞いても、「その人」は何一つ笑顔にはなれなかった。

 ……

「この人」とは、大学のキャンパスで出会った。
 医学部。同じ、学部だった。

「お医者さんになるんだ」

「この人」はいつも、そう語った。

「勤めるなら、大学病院」
「開業医じゃない」
「大きな病院で、働くんだ」
「脳外科医になるんだ」
「脳の難しい手術をして、助からないはずの子供の命を助けるんだ」
「大人じゃない」
「『子供』だ」
「子供を、助けるんだ……」

 医者にはなりたかったけど、それほど明確なビジョンを持ってなかった「その人」の目には、その手に大きな夢を抱える「この人」が、子供好きの優しい人なんだなあ、と好意的に映った。
 けれど、何処か暗い影が落ちている。

(いつかぐしゃりと壊れてしまいそう)

 そう感じて、放っておけなかった。

 ……

 間もなく二人は恋に落ちた。
 大学が「この人」の方が近かったから。
 そんな口実をぶら下げて、「その人」は「この人」の家に押しかけた。

「わたし、こう見えて自炊できるのよ」
「お部屋、掃除してあげる」
「レポート、一緒に書こう」

 猛アタックした。
 大好きだった。
 隣にいてこの上ない幸せを感じられた。

 ……

 ある夜、晩ご飯を作ってあげた。
 一つ上のお姉ちゃんが、お父さんが生きてた頃、よく作ってくれた、思い出の料理だった。
 別に、どうと言うことは無い、ありふれた普通の晩ご飯……のはずだった。
 その思い出の料理は、何度も作ってもらってたから、特に力んでた訳でもない。
 ただ、「この人」はそれを見つめたまま、固まってしまった。

「ほら、わたし、お父さんが小さい頃死んじゃったっていったじゃない?」
「お父さんが死んじゃう前、たった一人のお姉ちゃんがね、わたしによく作ってくれてたの」
「だから、思い出の味ってやつかな。わたしの」
「……ねえ」

「この人」が聞いてきた。

「そのお姉さんの名前って、■■■じゃ……」
「そうだけど? あれ、言ってたっけ……でももう何年も……」

 ふわり。
 なぜかユリの香りがした。
 そして。
 がちゃん。
「この人」は、ゆっくりと後ろに倒れた。
「その人」は医者の卵だ。
 すぐにわかった。
 脳の疾患だと。

(前に言っていなかった? 子供の頃、脳腫瘍で何年も入院していた、と。まさか)
(あの病院に入院してたの?お姉ちゃんと同じ、八王子の、あの古い病院に)

 大学病院に運んだ。
 自分たちの大学だ。
 最先端の、脳外科医が揃ってる。
 きっと治してくれる。きっと……

 ……

 ……そう信じてから、もう二年。
 どんなに呼びかけても。
 どんなに手を握っても。
 どんなに涙を流しても。
「この人」は、一度たりとも目を覚ますことは無かった。
 そして「その人」は、次第にこう考えるようになった。
 自分の「お姉ちゃん」が、連れていこうとしているのでは、と。
 父親の親戚に引き取られてから、疎遠になってしまって、一度もお見舞いにいけなかった、そのことを恨んでいるのでは、と。

(ねえ、お姉ちゃん。お願い。どうかその人を連れていかないで)
(お葬式しかいけなかったこと、怒ってるんでしょ。それなら謝るから)
(ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。だからお願い……お願いします)

 毎日毎日、「この人」の手を握っては許しを乞うた。
 毎日毎日、頭を垂れ、もう居ないお姉ちゃんにひたすら願った。

 ……

 そんなある日。

「貴女。死者に許しを乞うていやしないかい?」

 新宿の街を幽霊みたいに歩いている時、いつの間にか前に来ていた占い師に、そう声をかけられた。
 自称退魔師で、朱のチャイナドレスにポニーテール。
 好戦的な印象の赤縁のメガネ。
 額に太極図の刺青がある拝島ぼたんさん──その名前も自称だが──だった。

「わたしなら、魔のモノから連れて戻せるかもしれない。貴女の、お姉さんから」

 始めは、無視するつもりだった。
「その人」が学ぶは脳外科の世界。
 死後の世界も魂も信じてはいない。……建前では。
 でも、その退魔師は「お姉さん」と言った。
「その人」が一瞬で信じるに足る、言葉だった。

 ……

 そして、大学病院に連れていった。
 すると、「この人」を見るなり、一目でこう言った。

「だめ。この人、魂がここに無い。思い当たる場所は、他にない?」

 ひとつしかなかった。
「この人」が倒れるひと月前に取ったばかりの免許で、新車のスズキの軽自動車を八王子の郊外まで走らせた。
「そこ」はもう廃墟になっていた。
 数年前まで開業していた病院とは思えない荒れ果て具合だった。
 しかし。
 車が敷地に入るなり、拝島ぼたんはこう言った。

「居たよ。ほら、そこに」

 見たが、何もいない。
 次に何か、梵字の書かれた御札を渡され、今日は帰れと言われた。

「きみのその姿と名前、お借りするよ」

 そう言って、言われた通り拝島ぼたんを置いて、帰った。
 帰る時、声が聞こえた。

「きみ。いくら親しいからって、スカートの中を覗くのは、どうだろうな」

 ……

 そうして、家に帰った「その人」。
 岩崎愛は。
 たった一人の恋人、倉敷博巳の為。

 たった一人のお姉ちゃん、逢沢瞳に祈りを捧げた。
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