【瞳さんと茜坂病院前バス停にて】

文字数 3,905文字

 茜坂病院前バス停にて。
 僕は生まれて初めて恋に落ちた……

 みーんみんみん。
 みーんみんみん。

 セミがけたたましく合唱する八王子市の山道。
 車もほとんど通らない、峠へ伸びている一車線の道。
 その表面はぼろぼろで、しわくちゃおばあちゃんの様なひび割れたアスファルトが覆っている。
 割れたその隙間からは沢山の雑草が顔を覗かせて、呟く。

『こんにちは。ようこそ、僕達の最期の舞台へ』

 そんな日本中の皆に忘れられたような道の途中に、バス停がある。
 血に塗れたようなサビだらけで、もう字も読み取り辛い。
 だが確かに、「茜坂病院前」と書いてある。
 裏手にある坂を登った所にある古い総合病院、「茜坂病院」にアクセスする為のバス停だ。

 ……

 倉敷博巳は大好きな瞳さんと、そこに立っている。
 博巳だけの、瞳さんだ。
 もう、誰にも渡さない。
 もう、誰にも傷付けさせない。
 もう、絶対に手放さない。
 それがどんなに、間違っているとしても。
 瞳さんは、ぴくりとも動かない。
 まるで静止した映像のように。
 前はもっと話してくれた。

(でも、それでも構わない。瞳さんと永遠に居られるなら、それでも)

 ……

「あら、ボク。こんな暑い日に、こんな所でなにやってるの?」
「特にお好み焼きが大好き! 死んだお父さんが、よく作ってくれたんだー」
「こんなとこじゃなくて、海で、いっぱい触らせてあげたのに……あたしの初めてだって、ひろみくんになら……」
「それが、思い出せないんだよねえ……ホラ、オジサン歳だからさ……もうお年寄りなんじゃヨ……」
「もー、ボクぅ! いつから見てたのよー! ほんと、えっちねえ、そんなにスカートの中が好きなの?」
「ひろみくん。お別れの時間だよ」

 ……

 前はもっと話してくれた。
 ……前はもっと、話してくれた。
 生き生きとしてた。
 笑ってくれた。
 えっちだと怒ってくれた。
 ひどいことしないでと泣いてくれた。
 キスをしてくれた。
 ぺったんこの胸に顔を埋めさせてくれた。

 ……

 今の瞳さんは、動かない。
 今の瞳さんは、話さない。
 今の瞳さんは、笑わない。
 今の瞳さんは、怒らない。

 ……

 今の瞳さんは、泣く。

 この間、触ってみた。
 大好きだったから。
 寂しくて。
 つい。
 悲鳴を上げた。
 後ろに倒れ込んだ。
 ものすごく恐ろしいモノを見る目で見た。
 博巳を見て、「やめておとうさん」と叫んだ。
 博巳の前で脚を開いて、「もう許して」と泣いた。
 おしっこを漏らしながら、「痛いよう」と絶叫した。

 ……

 気がついたら、また、立っていた。
 何事もなかったかのように。
 穏やかな顔で。
 でも、もう触れられない。
 あんな恐ろしい目に、遭わせられない。

 でも、寂しい。
 寂しい。

(触れたい。愛おしい。愛くるしい。大好きだ。愛してる)
(触れちゃダメだ。また泣いてしまう。また怖がらせてしまう)
(おかしい。瞳さんは、僕のモノになったはず。永遠に、僕のモノになったはず。なのにどうして?)

 どうしてこんなに寂しい?
 どうしてこんなに、涙が溢れて止まらないんだ?
 どうして。

 ……

「それはお前が魔のモノになったからだ」

 聞いた事のある声だ。
 誰だっけ。
 目が三つある。
 髪が赤く輝いている。
 光り輝くものすごく長い剣を持っている。

「いや、『お前』じゃないな、『お前達』だな」

 そうだ、退魔師だ。
 僕らの仲を引き裂こうとする、ひどいひどい、ヒトなんだ。

「初めて見るパターンだ。ヒトではなく、ヒトとヒトの『愛』が魔のモノと化した。まことに稀有な例だ」

 「愛」が、魔のモノ?
 何を言ってるんだろう。

「何を言ってるのかわからないか。では見せてやる。お前の魂の片割れを」

 ……

 茜坂病院前バス停にて。
 あたしは生まれて初めて恋に落ちた……

 みーんみんみん。
 みーんみんみん。

 セミがけたたましく合唱する八王子市の山道。
 車もほとんど通らない、峠へ伸びている一車線の道。
 その表面はぼろぼろで、しわくちゃおばあちゃんの様なひび割れたアスファルトが覆っている。
 割れたその隙間からは沢山の雑草が顔を覗かせて、呟く。

『こんにちは。ようこそ、あたし達の最期の舞台へ』

 そんな日本中の皆に忘れられたような道の途中に、バス停がある。
 血に塗れたようなサビだらけで、もう字も読み取り辛い。
 だが確かに、「茜坂病院前」と書いてある。
 裏手にある坂を登った所にある古い総合病院、「茜坂病院」にアクセスする為のバス停だ。

 ……

 逢沢瞳は大好きなひろみくんと、そこに立っている。
 瞳だけの、ひろみくんだ。
 もう、誰にも渡さない。
 もう、誰にも傷付けさせない。
 もう、絶対に手放さない。
 それがどんなに、間違っているとしても。
 ひろみくんは、ぴくりとも動かない。
 まるで静止した映像のように。
 前はもっと話してくれた。

(でも、それでも構わない。ひろみくんと永遠に居られるなら、それでも)

 ……

「ねえ、ボク、今日も暑いねえ」
「ねえ、ボク、オジサンとお話しようよ」
「ねえ、ボク、オジサンが今度お好み焼き作ってあげよっか」
「ねえ、ボク、あの水着、着てみたよ。見てみる?」
「ねえ、ボク……」

 ……

 前はもっと話してくれた。
 ……前はもっと、話してくれた。
 生き生きとしてた。
 笑ってくれた。
 えっちだと怒っても笑ってくれた。
 ひどいことしないでと泣くと、慰めてくれた。
 キスをしてくれた。
 ぺったんこの胸に顔を埋めても、嫌がらないでいてくれた。

 ……

 今のひろみくんは、動かない。
 今のひろみくんは、話さない。
 今のひろみくんは、笑わない。
 今のひろみくんは、怒らない。

 ……

 今のひろみくんは、泣く。

 この間、触ってみた。
 大好きだったから。
 寂しくて。
 つい。
 悲鳴を上げた。
 頭を押さえて転げ回った。
 痛い、痛いと叫びながら。
 母さん、母さんと叫びながら。
 いっそ殺してと泣き叫びながら。

 ……

 気がついたら、また、立っていた。
 何事もなかったかのように。
 穏やかな顔で。
 でも、もう触れられない。
 あんな痛い目に、遭わせられない。

 でも、寂しい。
 寂しい。

(触れたい。愛おしい。愛くるしい。大好きなの。愛してる)
(触れちゃダメ。また泣いてしまう。また痛がらせてしまう)
(おかしい。ひろみくんは、あたしのモノになったはず。永遠に、あたしのモノになったはず。なのにどうして?)

 どうしてこんなに寂しい?
 どうしてこんなに、涙が溢れて止まらないの?
 どうして。

 ……

「わかったか、倉敷博巳」
「そうか……」

 博巳は上を見上げた。

「僕ら、永遠に一緒になったんじゃなくて」

 セミがみんみん泣いている。
 悲しい……悲しい声で泣いている。

「永遠に離れ離れになったんですね」

 博巳は……泣いた。
 地に伏せ、慟哭を上げ、滝のように涙を流して。

「魔のモノは、永遠に救われない。魔のモノは永遠に悲しみと絶望の檻の中から出られない。救うには……たった一つ」

 かちゃり。
 百八十センチの金色に燃える超長身の直剣を構えた。

「待って! 待ってください!」

 泣き崩れる博巳の元に、見知らぬ年上のお姉さんが駆け寄った。

「その『愛』、半分だけ、残してあげてください!」
「半分?」

 燃えるルビーのように輝く赤い髪の退魔師が、聞き返した。

「はい。この人の、お姉ちゃんへの想いだけでも」
「……倉敷博巳は、逢沢瞳を愛している。それが新たな魔を産むぞ」

 静かに、退魔師がその人に忠告した。

「……いいんです。お姉ちゃんのおかげで、この人は医者になろうと決めた。そのおかげでわたしはこの人に逢えた。わたしが生きてるのも、わたしの分の不幸を引き受けてくれたお姉ちゃんのおかげ。この人が生きてるのも、お姉ちゃんのおかげ」
「……二人の『愛』こそが魔なのだ。そこを絶たねば、また魔が芽吹く可能性がある。芽吹かなくても、愛さんの人生にも深い影を落とす。倉敷博巳やその周囲に、また絶望が訪れる。幸せな二人の人生を、歩めなくなるぞ」

 その年上のお姉さんは頭を垂れた。

「いいんです。残してください。それが……お姉ちゃんへの、贖罪なんです、わたしの」
「では、選べ。どちらもは残せない。魔は広がり、他のかけがえの無い命を貪るようになる。半分残すなら、どちらか、だ。愛し合う二人の、どちらか片方。愛さんの姉か、愛さんの恋人か」
「……わかりました」

 すう。
 その人は息を吸った。
 そして。

「……お姉ちゃんは、もう死んだ人です。ですから……お姉ちゃんを……」
「僕を斬ってください!」

 地に伏せ泣いていた博巳が、声を上げた。
 そして、物言わぬ瞳さんの前まで這って行き、立ち上がって両手を広げた。

「斬るなら、僕を! お願いです! 僕を斬ってください」
「倉敷くん、ダメだよ!」
「瞳さんはなにも悪くない! 僕が悪いんだ。僕が生きようとしなければ良かった! 一緒にあの時、死んでしまえば良かったんだ!」
「倉敷くん! ダメ! ダメだよ! わたしとの、わたしとの時間はどうなるの? あなたがこれから医者になって救うはずの、命達は! これからあなたと過ごす、わたし達の時間は!」
「間違いだったんだ、生き残ってしまったのが! 間違いだったんだよ……だからお願いします……僕を……僕を斬ってください……」

「退魔ノ時間ダ。我二魔ヲ、魔ヲ喰ラワセヨ!」

「……あいわかった。結論は出た。そなたに魔の真実を、喰らわせようぞ」

 三ツ目の赤毛の退魔師は、静かに、静かに宣言し、剣を正眼に構えた。

「だめえーっ!」

 博巳が覚えていないその人は、悲痛な叫びを上げた。

 ざばっ。

 魔を斬る音が、夏の空に響いた。
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