【瞳さんと彼女が連れていきたい所】

文字数 2,929文字

「かくまって。お願い」

 いつもの七月の暑い日。
 瞳さんがやってきた。
 いつもいつも同じ光景だけど、博巳はこの上なく幸せだ。
 ごそごそ。
 赤いワンピースは膝上位の丈だから、ぱんつはギリ見えない。
 そんなのは博巳は構わない。

 もう病室はぼろぼろだ。
 壁は血の跡とサビで変色している。
 サッシもサビだらけ。
 窓も全部割れてしまっている。
 血に汚れたカーテンはレールごと落ちてしまった。
 ベッドも、埃まみれで枕元は血塗れだ。
 そんなのは博巳は構わない。

 ……

 今日も、拝島ぼたんと今日子さんが、見ている。
 今日子さんは、いつも通りにこにこしている。
 優しいお姉さんだと思っていたけど、最近、舌なめずりしているように見えて、怖い。
 拝島ぼたんは、もっと怖い。
 あのカウントダウンする恐ろしい剣。
 いつ瞳さんに突き立てるとかと思うと、恐ろしくて仕方がない。

(もし、そんなことになるようなら、僕が命をかけて守るんだ)

 誰かに決められた訳では無い。
 自分の意思だ。

(自分で決めて……命をかけると、意志を示すんだ)

 ……

「もう行った?」
「ええ、行きましたよ」

 小さな声で瞳さんが聞いてくる。
 誰も追いかけてはいないが、博巳は必ずそう答えている。

「そか! ボク、おいでよ」
(あれ。またいつもにないパターンだ)

 瞳さんの方を振り返る。
 瞳さんがにこにこして、手を伸ばしてる。
 いつもは、ばいちゃ! のはずだ。
 博巳のことなど見向きもせずに行こうとするはずなのだ。

(なんだ? 何が違う?)
「ほら、ひろみくん。おーいで?」

 にっこり。
 瞳さんは、とても優しい笑顔だ。

「え、ええ」

 博巳はぎこちなくその手を握った。
 ふわり。
 ユリのいい匂いがする。

「早く早く、バスが来ちゃう!」

 白いサンダルに履き替えて、博巳の手をまた取った。
 ……きーん、じゃない。

「瞳さん、瞳さんってば!」
「なーにー?」

 笑顔だけど、瞳さんは止まらない。

「そんなに急がなくても、バスまで十五分ありますよ」
「そうだね! あはは! そーね!」

 何かおかしい。
 でも、何がおかしいのかわからない。

 ずきん。

(あれ。久しぶりに頭が痛い。走ったからかな。瞳さんがいつもと違うからかな)
「とーちゃく!」

 ……ききーっ、じゃない。

「はあ、はあ。……そんなに急いで、どうしたんです?」

 ずきんずきん。
 もう、瞳さんったら。
 思いっきり走らせるから、頭が痛いったらない。

「ふふん。今日は特別なんだよ」
(特別……? いったいなんのことだろう)
「なんたって、あたしが覚えてるんだから、ね!」

 なんだろう。
 瞳さんはとても嬉しそうなのに、博巳はなんだかとても怖くて仕方がない。

「ねえ、瞳さん。今日はご機嫌だね……?」
「うん、超ご機嫌!」
「そっか……なんでかな? 教えてくれませんか」
「んー? ……うん、秘密!」

 うん、というのが気になった。

「今の間はなんです?」
「間ってー?」
(くそ、暖簾に腕押しだ。聞き方を変えよう)
「今日、何があるんです?」
「今日ー?」
「そう、何かあるでしょう」
「……うん、そうね、いいこと!」

 一瞬だけ、表情が曇ったのを、博巳は見逃さない。

「なんです? 嫌なことなら……」
「前に話したよ!」
「前に……?」
(なんだ? 瞳さん、前に何か言ったか? いや)
「言ってないです。瞳さんは忘れっぽくても、僕は忘れません」
「ううん」

 瞳さんは真っ直ぐ、道の先を見た。

「言ったんだ。言ったんだよ」
「瞳さん? ……瞳さん!」

 それきり、瞳さんは真っ直ぐ、いつも日傘を差して旅行カバンを持って、動かなくなった。
 そこはいつも通りではあるんだけど、なんだか、不安だけが大きくなっていった。

 ……

 二十一分。
 二十三分。
 二十五分。
 二十九分。

「そろそろ、かな」

 瞳さんが、左手首の内側の、ちっちゃくて可愛い腕時計を見た。

 ぶろろろろ。

(西東京バスだ。普通だ。別になんとも)

 ききっ。

(え?)

 がらっ。

「〇〇大学医学部附属病院行きです」

(……え? ……ええ? 何が……起きてる?)

 だって……いつも止まらないじゃないか。
 いつも素通りするじゃないか。
 いつも「八王子駅北口行き」のはずじゃないか。
 なんだよ、「医学部附属病院行き」って。
 しばらく思考が止まっていると。

「ひろみくん。お別れの時間だよ」

 は?
 思いっきり振り返る。
 笑顔だ。
 笑顔の瞳さんがいる。
 これ以上はない。
 それくらい、優しくて、明るくて……

「瞳……さん?」

「時間なの、ひろみくん。退院する……時間だよ」

「瞳さん……な、何を言ってるんです? 僕は脳腫瘍ですよ? そうそう簡単には退院なんて……」
「ううん。ボクは本当はね、もう、ね。退院、してるんだよ。七年前に」

 瞳さんの笑顔が、ちょっとずつ崩れ始めた。

「あたしのせいなんだ。あたしが、『呼んじゃった』の、ひろみくんのこと」
「瞳さん……」

 ぽろり。涙が零れた。

「もう、戻らなきゃ。妹の……あたしのたった一人の、妹の所へ」
「七年前? 妹? 瞳さん、何を言ってるのか僕には全然……」

「倉敷くん!」

 バスの中から、博巳を呼ぶ声がした。

「倉敷くん! 聞こえる? わたしだよ、愛だよ! 岩崎愛だよ!」

 振り返る。
 車内には誰もいない。
 背後で瞳さんが静かに言った。

「さ、ひろみくん。乗って。帰るの。愛の所に。それが、あたしの願い」

 がちゃりっ。

 また七星剣・魔断の歯車が回った。
 剣の柄の「(さん)」の大字が「()」に変わった。

「乗るんだ、倉敷博巳くん。逢沢瞳の真実の願いがわかっただろう。きみが帰るための、バスだ」

 話をどこから聞いていたのか、拝島ぼたんが横から現れた。

「帰るんだ、倉敷博巳くん」

(いいや。知らない。僕は知らないぞ)

 愛なんて人、僕は知らない。
 バスには誰も乗っていないじゃないか。
 七年前に退院してたなんて、僕は知らない。
 瞳さんがいるじゃないか。
 僕には。
 瞳さんが、瞳さんだけいればいい。

『茜坂病院前バス停』
(ここだけが、僕の居場所なんだ)

「倉敷くん! 倉敷くん! お願い目を覚まして!」
「だめだ、倉敷博巳くん。そっちに行くな。行くな!」

 だが、博巳は心を閉ざした。

「嫌だ、僕は、僕は茜坂病院に居たいんだっ! 瞳さんと!」

 博巳は瞳さんの手を取って走り出そうと引っ張った。

「瞳さんは、僕のだ! 僕だけの瞳さんなんだ!」

 がちゃりっ。

 また七星剣・魔断の歯車が回った。
 剣の柄の「()」の大字が「(いち)」に変わった。

 ぐん。
 ところが、何故か瞳さんは、俯いたまま動かない。

「瞳さん?」
「……だめ……」

「……ひろ……くん……ごめん……も……う」

 何か、ぶつぶつと呟いている。

「どうしたんだよ、瞳さん、早く病院に帰ろうよ」

 ごろごろごろ。
 気がつくと、空は真っ暗だ。
 どこかで雷が鳴っている。
 そして瞳さんは、どんなに手を引いても、動かない。

「ひろみくん……ごめん……あたし……も……もう……もう」

 ……

「もう」

 ……

「……もう……限界……」

 ……ぱきんっ。

 瞳さんの顔が、陶器の人形のように()()()()()

「くっ、限界かっ!」

 拝島ぼたんが叫ぶ声が、最後に聞こえた。

 ……

 それっきり、まるで唐突に。
 博巳の意識は……途切れた。
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