【或る看護婦と或る日記】
文字数 2,951文字
日記。十三冊目。
昭和五十七年六月三日。曇り。
今日、担当する病棟に、中学二年生の女の子が運ばれた。
発見が遅れた様。
かなり状態が悪い。
でも、私は私の仕事をするだけ。
この子が、少しでも楽に生きられるように、少しでも良くなるように。
それが、私の仕事。
頑張ってね。逢沢さん。
私も頑張るから。
……
昭和五十七年六月二十日。晴れ。
「瞳でいいよ」
今日、逢沢さんに声をかけられた。
一時は意識がなくて、もう持たないかと思ったけれど、逢沢さんは頑張ってくれた。
三時に点滴を替えに行った時、そう声をかけてきてくれた。
「瞳って呼んで」
ベッドで、青のパジャマを着た逢沢さんが言った。
寂しいのかもしれない。
ううん。
寂しいに決まってる。
この子が緊急入院したのは、親戚の人に伝えてあるはず。
いくらご両親がいらっしゃらないからって、誰もお見舞いに来ているところを見たことがない。
今日決めました。
私は、この子のお姉さん代わりになる、と。
「じゃあ、瞳ちゃん、よろしくね。■■■って呼んでね」
そう返すと、嬉しそうに顔を布団に半分隠した。
……本当は、避けたかった。
この子は慢性骨髄性白血病の急性転化期。
持って、数ヶ月なのだから。
私の傷が広がるだけなのだから。
……
昭和五十七年九月四日。晴れ。
今日、病室に行ったら、瞳ちゃんが居ない。
看護婦総出で探し回った。
広い院内、三十分程探したけれど見つからない。
婦長さんも大慌て。
ばたばたと、みんなで院内を駆けずり回っていると……
ひょっこり帰ってきた。
婦長さんはかんかん。
なだめるのが大変だった。
……気になったのは、真っ赤なワンピースに麦わら帽子、日傘に旅行カバン。
一体何処で手に入れたんだろう。
「隣の病室に、あたしと同い年のアキちゃん、いるっしょ?」
「この前、亡くなったじゃん?」
「亡くなる前にね、もらっちゃったの。サイズピッタリ! にひひ」
悪びれも無くそう言った。
そういえば、アキちゃんも、同じ髪型だった。
抗がん剤で髪が抜けた瞳ちゃんは、アキちゃんのウィッグを被って、幸せそう。
「いいんじゃないかな」
私は口が滑った。
良いわけない。
ないんだけど……
愛おしそうにウィッグの髪を触る瞳ちゃんを見ていると、何も言えなくなってしまった。
まあ、いいか。
瞳ちゃんが幸せそうなら、それで私は構わないと考えよう。
追記。
あれから毎日抜け出すようになった。
一体どこへ行っているのやら。
……
昭和五十七年十二月十五日。曇り。
院長にプロポーズされた。
勤務後、院長室に呼び出され、その場で。
奥さんとは別れた。
そう言って。
私は嬉しさより、遥かに後ろめたい気持ちの方が大きかった。
院長との「初めて」は勤務中で、しかも半分犯されるような形だった。
「一度目」で妊娠して、堕ろすことになった。
それからもずるずると肉体関係だけ続けて、結婚だなんて。
でも……断れなかった。
こんな事を言ってはいけないはずなんだけど……それでも……私は、彼が好きだった。
私は、はい、と返事をした。
がんを抱える人々の最後の砦で、こんなこと……
地獄に落ちるだろうな。
そう思った。
……
昭和五十八年四月十日。曇り。
今日もまた瞳ちゃんが逃げ出した。
いつもはもう何ヶ月も続いていることだし、二十分ほどで戻るので看護婦仲間は皆慌てないのだが……
けれどここの所、血液中の数値が芳しくない。
だから今日は皆焦った。
私も院内をくまなく探していると、脳腫瘍の男性用病棟で見かけた。
今日はなんとそこの男の子を連れ出してる。
毎度毎度どこに行ってるのだろう……
気になったので付いて行ってみた。
走れるような状態じゃないのに、楽しそうに走って。
巻き込まれた男の子も大変そうだ。
そして。
そこで初めて、わかった。
瞳ちゃんは、使われなくなったバス停で立っていた。
もちろん、バスは通るけど停らない。
……待っているんだ。
私は、涙が止まらなかった。
誰もお見舞いに来ない瞳ちゃんは、誰でもない誰かを待っている、その事実に。
バスが過ぎると走り出したので、慌てて草むらに身を隠したから見つかることはなかった。
病棟に戻ると、目が赤いことを皆に指摘されることにはなったのだけれど。
追記。
あれからその男の子と毎日抜け出すようになった。
まあ、本人達が幸せそうならいいか。
婦長さんには悪いけど。
……
昭和五十八年七月二十日。晴れ。
瞳ちゃんの病態が急変した。
いつもの男の子とデートしていて、倒れたようで、男の子が背負って連れてきた。
私も駆けつけた。
病院総出で救命に当たったけれど……
夕方五時。
亡くなった。
大好きなお友達の赤いワンピースを着て、大好きなお友達のウィッグを付けて。
瞳ちゃんは、旅立った。
瞳ちゃんは、優しかった頃の家族の元に帰ったと、そう言い聞かせながら。
私は……泣いた。
……
昭和五十八年七月二十二日。晴れ。
「ひろみくん」に会った。
あの、毎日デートしていた男の子だ。
幽霊みたいな目をして、病棟をふらついていた。
聞くと、瞳ちゃんを探しているみたいだ。
伝えなければならない。
本当のことを。
……心を鬼にした。
でも、直後、脳腫瘍の発作で倒れてしまった。
彼のことが心配だ。
……
昭和五十八年七月二十七日。雨。
ひろみくんがご飯を食べた!
あれから、何日も食べていなかった。
瞳ちゃんのことがショックで、布団から出てこなくなってしまっていた。
気持ちは分かるけれど、私は看護婦。
栄養失調や脱水の危険があった。
放置は出来ない。
そして今日、ミートソースのスパゲッティを出したら、人が変わったかのように食べ始めた。
ほっと胸を撫で下ろしたけれど……
理由が、悲しくて、悲しくて。
とてもここでは書けない。
私も、一緒に泣いた。
……
昭和五十八年九月十六日。雨。
ひろみくんの手術が無事成功した。
これで、彼は元通りの人生を歩めるはずだ。
私は涙を流した。
嬉しかったから?
いいえ。
私達夫婦の破滅が決まったから。
茜坂病院は、数年前から経営が危うかった。
今年に入ってからは、危機的状況にあった。
ここ数ヶ月は院内を清潔に保つ事すらままならなくなっていた。
彼の手術が、最後だった。
夫は……院長は、結婚してから笑っている所を見たことがない。
私は、懸命に励ました。
懸命に。
でも、それももう終わりなのかもしれない。
……
昭和五十八年九月二十五日。雨。
ひろみくんが退院した。
「倉敷くん、おめでとう」
「退院、おめでとう」
「私達のこと、忘れないでね」
「茜坂病院のこと、忘れないでね」
私は精一杯の言葉をかけた。
涙を堪えるのがやっとだった。
夕方。
院長室で夫が首を吊っていた。
私が愛した、この病院のこの院長室で。
何度も何度もその上で情事を重ねた院長の机を、踏み台にして。
私の日記もこれで最後。
後を追いたいと思う。
……
この日記を、遺書替わりに、足元に置きます。
これを読んでくれた方へ。
どうか、どうか、茜坂病院を、忘れないで。
私達のことを忘れないで。
お願いします。
看護婦。金野つばき。
昭和五十七年六月三日。曇り。
今日、担当する病棟に、中学二年生の女の子が運ばれた。
発見が遅れた様。
かなり状態が悪い。
でも、私は私の仕事をするだけ。
この子が、少しでも楽に生きられるように、少しでも良くなるように。
それが、私の仕事。
頑張ってね。逢沢さん。
私も頑張るから。
……
昭和五十七年六月二十日。晴れ。
「瞳でいいよ」
今日、逢沢さんに声をかけられた。
一時は意識がなくて、もう持たないかと思ったけれど、逢沢さんは頑張ってくれた。
三時に点滴を替えに行った時、そう声をかけてきてくれた。
「瞳って呼んで」
ベッドで、青のパジャマを着た逢沢さんが言った。
寂しいのかもしれない。
ううん。
寂しいに決まってる。
この子が緊急入院したのは、親戚の人に伝えてあるはず。
いくらご両親がいらっしゃらないからって、誰もお見舞いに来ているところを見たことがない。
今日決めました。
私は、この子のお姉さん代わりになる、と。
「じゃあ、瞳ちゃん、よろしくね。■■■って呼んでね」
そう返すと、嬉しそうに顔を布団に半分隠した。
……本当は、避けたかった。
この子は慢性骨髄性白血病の急性転化期。
持って、数ヶ月なのだから。
私の傷が広がるだけなのだから。
……
昭和五十七年九月四日。晴れ。
今日、病室に行ったら、瞳ちゃんが居ない。
看護婦総出で探し回った。
広い院内、三十分程探したけれど見つからない。
婦長さんも大慌て。
ばたばたと、みんなで院内を駆けずり回っていると……
ひょっこり帰ってきた。
婦長さんはかんかん。
なだめるのが大変だった。
……気になったのは、真っ赤なワンピースに麦わら帽子、日傘に旅行カバン。
一体何処で手に入れたんだろう。
「隣の病室に、あたしと同い年のアキちゃん、いるっしょ?」
「この前、亡くなったじゃん?」
「亡くなる前にね、もらっちゃったの。サイズピッタリ! にひひ」
悪びれも無くそう言った。
そういえば、アキちゃんも、同じ髪型だった。
抗がん剤で髪が抜けた瞳ちゃんは、アキちゃんのウィッグを被って、幸せそう。
「いいんじゃないかな」
私は口が滑った。
良いわけない。
ないんだけど……
愛おしそうにウィッグの髪を触る瞳ちゃんを見ていると、何も言えなくなってしまった。
まあ、いいか。
瞳ちゃんが幸せそうなら、それで私は構わないと考えよう。
追記。
あれから毎日抜け出すようになった。
一体どこへ行っているのやら。
……
昭和五十七年十二月十五日。曇り。
院長にプロポーズされた。
勤務後、院長室に呼び出され、その場で。
奥さんとは別れた。
そう言って。
私は嬉しさより、遥かに後ろめたい気持ちの方が大きかった。
院長との「初めて」は勤務中で、しかも半分犯されるような形だった。
「一度目」で妊娠して、堕ろすことになった。
それからもずるずると肉体関係だけ続けて、結婚だなんて。
でも……断れなかった。
こんな事を言ってはいけないはずなんだけど……それでも……私は、彼が好きだった。
私は、はい、と返事をした。
がんを抱える人々の最後の砦で、こんなこと……
地獄に落ちるだろうな。
そう思った。
……
昭和五十八年四月十日。曇り。
今日もまた瞳ちゃんが逃げ出した。
いつもはもう何ヶ月も続いていることだし、二十分ほどで戻るので看護婦仲間は皆慌てないのだが……
けれどここの所、血液中の数値が芳しくない。
だから今日は皆焦った。
私も院内をくまなく探していると、脳腫瘍の男性用病棟で見かけた。
今日はなんとそこの男の子を連れ出してる。
毎度毎度どこに行ってるのだろう……
気になったので付いて行ってみた。
走れるような状態じゃないのに、楽しそうに走って。
巻き込まれた男の子も大変そうだ。
そして。
そこで初めて、わかった。
瞳ちゃんは、使われなくなったバス停で立っていた。
もちろん、バスは通るけど停らない。
……待っているんだ。
私は、涙が止まらなかった。
誰もお見舞いに来ない瞳ちゃんは、誰でもない誰かを待っている、その事実に。
バスが過ぎると走り出したので、慌てて草むらに身を隠したから見つかることはなかった。
病棟に戻ると、目が赤いことを皆に指摘されることにはなったのだけれど。
追記。
あれからその男の子と毎日抜け出すようになった。
まあ、本人達が幸せそうならいいか。
婦長さんには悪いけど。
……
昭和五十八年七月二十日。晴れ。
瞳ちゃんの病態が急変した。
いつもの男の子とデートしていて、倒れたようで、男の子が背負って連れてきた。
私も駆けつけた。
病院総出で救命に当たったけれど……
夕方五時。
亡くなった。
大好きなお友達の赤いワンピースを着て、大好きなお友達のウィッグを付けて。
瞳ちゃんは、旅立った。
瞳ちゃんは、優しかった頃の家族の元に帰ったと、そう言い聞かせながら。
私は……泣いた。
……
昭和五十八年七月二十二日。晴れ。
「ひろみくん」に会った。
あの、毎日デートしていた男の子だ。
幽霊みたいな目をして、病棟をふらついていた。
聞くと、瞳ちゃんを探しているみたいだ。
伝えなければならない。
本当のことを。
……心を鬼にした。
でも、直後、脳腫瘍の発作で倒れてしまった。
彼のことが心配だ。
……
昭和五十八年七月二十七日。雨。
ひろみくんがご飯を食べた!
あれから、何日も食べていなかった。
瞳ちゃんのことがショックで、布団から出てこなくなってしまっていた。
気持ちは分かるけれど、私は看護婦。
栄養失調や脱水の危険があった。
放置は出来ない。
そして今日、ミートソースのスパゲッティを出したら、人が変わったかのように食べ始めた。
ほっと胸を撫で下ろしたけれど……
理由が、悲しくて、悲しくて。
とてもここでは書けない。
私も、一緒に泣いた。
……
昭和五十八年九月十六日。雨。
ひろみくんの手術が無事成功した。
これで、彼は元通りの人生を歩めるはずだ。
私は涙を流した。
嬉しかったから?
いいえ。
私達夫婦の破滅が決まったから。
茜坂病院は、数年前から経営が危うかった。
今年に入ってからは、危機的状況にあった。
ここ数ヶ月は院内を清潔に保つ事すらままならなくなっていた。
彼の手術が、最後だった。
夫は……院長は、結婚してから笑っている所を見たことがない。
私は、懸命に励ました。
懸命に。
でも、それももう終わりなのかもしれない。
……
昭和五十八年九月二十五日。雨。
ひろみくんが退院した。
「倉敷くん、おめでとう」
「退院、おめでとう」
「私達のこと、忘れないでね」
「茜坂病院のこと、忘れないでね」
私は精一杯の言葉をかけた。
涙を堪えるのがやっとだった。
夕方。
院長室で夫が首を吊っていた。
私が愛した、この病院のこの院長室で。
何度も何度もその上で情事を重ねた院長の机を、踏み台にして。
私の日記もこれで最後。
後を追いたいと思う。
……
この日記を、遺書替わりに、足元に置きます。
これを読んでくれた方へ。
どうか、どうか、茜坂病院を、忘れないで。
私達のことを忘れないで。
お願いします。
看護婦。金野つばき。