【瞳さんとある冬の日】

文字数 2,532文字

「じゃあね、ボク」

 そう言って、瞳さんが()()()()()窓に足を乗せる。

「あんた達、いいけど……外、雪降ってるわよ?」

 今日子さんがほほほと笑う。

「……あれえ……」

 病院の中庭は、一面真っ白。
 いつもの芝生も、いつもの植え込みも、そこかしこに生えた雑草も、ふっくらと雪に包まれている。
 瞳さんは、まるで今言われて初めて気が付いたかのように、眼前に降る雪に手を伸ばした。

「ほんとだ、降ってる……」

 とん。
 窓際の汚れたサッシから降りた。

「ね。ね」

 人差し指で受けた雪を、博巳のとこまで持ってきた。
 ぴと。

「雪だよ!」
「わっ、冷たっ!」

 瞳さんが博巳の首すじに雪の結晶を押し当てた。
 ていうか、瞳さんの指もとても冷たい。

「良かった、あたしの指、なんか冷たいの感じないんだよね……だから夢かと思っちゃった!」
「瞳さん、手冷たすぎですよ……」
「にひひ」

 瞳さんはいつものいたずらっ子っぽい顔で笑う。

「心が暖かい人は手は冷たいのだよ、ボク」
「ボクじゃありません。倉敷博巳です。十四歳です」
「あたし、逢沢瞳。十五だから一つ上ね、ボク。にひひ」

 お決まりの年齢マウントを取って、埃の付いた窓から飛び降りた。

「バイちゃ! きーん! ……ぎゃんっ」

 サンダルの瞳さんは、雪につんのめった。

「ほら、王子様、出番よ」

 今日子さんが笑顔で急かした。

 ……

「もお……今は七月なのにぃ……なんで雪が降るのよう」

 お母さんに買ってもらったスニーカーを履いた博巳は、瞳さんに肩を貸す。
 ふわり。
 ユリのいい匂いがする。

「何言ってるんですか、二月ですよ、二月。八王子は雪がよく降るんです」
「二月ぅ? あれえ、おっかしいなあ……」

 瞳さんが首を傾げる。
 本気で戸惑っているように見える。
 でも、相変わらずのノースリーブに麦わら帽子だ。
 白いサンダルも。

「寒く、ないんですか?」

 博巳が問いかける。

「寒くないのよねえ。冷たくもないんだー」

 でも、どこか不安気だ。

「おかしいなぁ、変だなあ……」

 そう繰り返す瞳さんの言葉を聞いていると、戸惑っている、というより()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という印象を受けた。

 ……

 バス停に着いた。
 道路は一面真っ白。
 雪も二十センチは積もっている。
 いつもの「八王子駅北口行き西東京バス」も、今日は来ないだろう。
 瞳さんは、白いレースの日傘を差して旅行カバンを持つ。
 けれど博巳の想像通り、バスはいつまで経っても来ない。
 瞳さんの足も、脛まで雪で埋もれている。

「おっかしいなあ、今日はなんでこないのかな」
「雪ですから、運休してるんですよ」
「雪ぃ?」

 瞳さんが急に近寄ってきて頭を撫でてきた。

「ボク、あのね、七月に雪はふらないんだよぉー? わかるかなー?」

 赤ちゃん言葉であやす様に頭をなでなでしてきた。
 ちょっとだけ、ムカついた。

「きゃっ」

 ぼふっ。
 雪玉を作って、バス停に戻った瞳さんに当てた。

「なにこれ、なんで雪がっ?」

 ()()()()()瞳さんは、心底不思議がった。
 また投げてやった。
 ぼふっ。ぼふっ。

「ちょっ、ちょっと、ボク! ……ははーん、お姉さんを怒らせるとどうなるか、教えてあげよう!」

 そういうと、特大の雪玉を作った。

「お姉さんを……いじめた……恨み……」

 細い身体で懸命に巨大な雪玉を持ち上げて、博巳に近づいた。

「ちょ、瞳さん!」
「ふはははは! 思い知るがいいわー!」

 ぼすん。
 博巳は頭から雪の大玉を被って、頭の先から足の先までずぶ濡れになった。

「ぐあー」
「むはははは!」

 大袈裟に断末魔の叫びを上げると、瞳さんがドヤ顔で笑う。
 楽しかった。
 雪なのに、とても、暖かかった。

「うりゃ、くらえ、がきんちょ!」
「ぐあー、やられたー、つよいねえ、ボク!」
「あはははは!」
「あはははは……」

 好きだ。
 そう叫びたかった。
 なぜ? 分からない。

(そうか。雪か。うん、きっとそうだ。全部、雪のせい。雪のせいなんだ)

 そして何回目かに、瞳さんに雪玉をぶつけて、その時気が付いた。
 瞳さんに付いた雪は全て、さらさらと一滴も染みることなく落ちていた。
 博巳の手は真っ赤だが、瞳さんの手はひとつも色が変わっていなかった。
 博巳の服はずぶ濡れだが、瞳さんのワンピースは、濡れるどこらか雪と同じにさらさらしている。
 ぷっぷー。
 雪が音を吸っていてわからなかった。
 大幅に遅れたタイヤチェーンを付けた西東京バスが、ごとごとと重い重い車体を揺らして通り過ぎた。

 ぴたり。

 さっきまで雪合戦をしてた瞳さんが、いつの間にかバス停横で立っている。

「あれ? 瞳さん? 瞳さん? 瞳さん!」

 何回か呼んで初めてこちらに気が付いた。

「あら、ボク。こんな暑い日に、こんな所でなにやってるの?」

 そう言って、カバンをおいて、手でぱたぱたと扇いで見せた。
 なぜか……涙が溢れてきた。

「およー、どしたん? どして泣いてるの? なんか悲しいことあったん? あ、そだ、オジサンが今度お好み焼き作ってあげるからさ……だから泣くなよう、ボクー」

 瞳さんは()()()()()()()()()()()()()歩み寄って、博巳の頭を撫でた。

「ほら、オジサンと帰ろ? ね?」

 博巳は、悲しくて泣いていたのでは無い。
 確かに、雪合戦のことを覚えてなかったのは寂しい。
 でも最近、如実に感じる。
 瞳さんの、現実との乖離を。
 どんどん、瞳さんが現実から離れていく。
 それが、寂しいを通り越して怖い。
 その恐怖が、十四歳の少年に涙を流させた。

「そーだ、オジサンがおんぶしてあげる、ボク」

 ええっ、いいですよう。
 普段ならそういうんだけど、なぜか瞳さんの背中に身体を埋めたかった。

「……はい」

 瞳さんはひょいと博巳を持ち上げた。
 末期の白血病のはずなのに、そんなのお構いないなしに、ぐんぐん走った。
 その背中は、さっきの雪と同じくらい冷たかった。
 ……でも、なんだか、ちょっとホッとした。
 いつものユリの香りがする。
 触れ合うだけで、その人の愛を感じられる。
 肌と肌がくっつくだけで、愛されてると感じられる。

(それでじゅうぶんだ。それで……じゅうぶんだ)
「そうだ、ボク」

 博巳を背負ってぱたぱたと走る瞳さんが聞いた。

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