【スパゲティ・ミートソース】

文字数 2,053文字

 倉敷くんの家に、愛が押しかけという名の同棲生活を始めて、今日でひと月。
 倉敷くんと何かお祝いがしたくなった。

 ……

 倉敷くんは片付けが出来ない。
 あっちこっちに大学のレポートやら講義の教科書やらが散らばっていた。
 初めの一週間はそれらの整理整頓のため格闘した。
 倉敷くんは皿洗いが出来ない。
 お皿はみんな、シンクの中に放って置いてある。
 カビだらけの生ゴミや欠けた食器類。
 次の一週間でそれらも綺麗にした。
 倉敷くんはお風呂掃除が出来ない。
 次の一週間は、使っていない浴槽の掃除を。
 倉敷くんはトイレ掃除が出来ない。
 その次の一週間は、汚れたトイレ周りを。

 ……

 あっという間にひと月経った。
 改善しなければならない所はまだ山ほどある。
 そもそも、お医者さんになりたい、大学医になりたいと言う割に、本人に生きる意思が乏しい。
 それは、食生活にも表れていた。
 ミートソースのスパゲティばかり食べるのだ。
 毎日、毎日。
 あるメーカーの──それも近所のスーパーにはないので、わざわざ自転車で三十分かけて買いに行く──、レトルトの物しか食べない。
 学食で頼んだミートソースを前に、これはケチャップが違う、ひき肉の味が違う。一人でぶつぶつと文句を言いながら食べるのを何度も目撃した。
 始めは、ただの偏食なのかと思った。
 けれど、食べてる時、まるで目に生気がない。
 愛の目には、食べ方をわからない人か、それしか食べられない人のように映った。
 まるで過去に「半分」、自分を置いてきてしまったかのようだった。

 ……

 大学の通路を亡霊みたいに歩いている倉敷くんを見た時、本能的に、放っておけないと思った。
 だから、無理やりにでも押しかけた。
 部屋の片付けの傍ら、料理も出来る限り美味しいレシピを作ってあげた。
 けれど。
 目を離すと、やっぱりあのメーカーのミートソースばかり食べている。
 学食でも、変わらずぶつくさ言いながらそれしか食べていないようだ。

「そんなにおいしいの?」

 一度聞いたことがある。

「……ううん」

 小さく唸るように答えただけだった。

 ……

 だから……

「ミートソースのスパゲティがいい」

 ひと月記念に、何かお祝いしようよ。
 そう言った時に、まさかその答えが返ってくるとは思わなくて、呆れるを通り越して本気で心配になった。

「なんでもいいんだよ、わたし、一通り作れるから、ね」

 そう言っても、頑として譲らない。
 カッとなった。

「せっかくの記念日なんだよ」
「寂しいよ、毎日レトルトのミートソースばかり食べて」
「お医者さんになりたいんでしょ」
「偏食が体に悪いことくらい、知ってるでしょ」

 さんざん感情的になった。
 さんざん正論をぶつけた。
 けれど彼は……申し訳なさそうにするだけだった。
 愛の目には、困惑しているように映った。
 そして、こう言った。

「あの日、あの人が初めて来てくれた時の、お昼に出たんだ」
「あの人……? だれ、それ?」
「あの人、だよ。……聞いても信じてくれないよ」
「教えてよ、ねえ」
「上手く説明できないんだ。もしかしたら……」
「もしかしたら……?」
「脳腫瘍が見せた、幻だったのかもしれない」
「倉敷くん……」
「でも、もう一度、どうしても会いたくて。会えるんだ。あの味のミートソースのスパゲティを食べると。声が、声が聞こえるんだ。……そう思ったら……止められなくて……ごめん。愛さん。……君が……好きだ」

 愛は黙って、想い人を抱きしめた。
 キスをして、服を脱いで裸になって、愛しい人の顔を胸に埋めてそして……初めてをあげた。

 すっかり遅くなっちゃったと言って、ばたばた買い物に行って、台所に立った。
 ひき肉に、玉ねぎ、トマト缶。ケチャップも入れよう。
 何度も味見をしながらあのレトルトのあの味に近づけてみた。

「うわあ、ありがとう……うれしいよ、愛さん」
(ふふふ。美味しそうに食べてる。偏食だって、いい。偏ってたって、いい。この人の、美味しそうに食べる姿を、ずっと見ていたい)
「■■■さん……」
「ん? 何か言った?」
「なんでもない」

 ……

 六ヶ月後。

「こちら百十九番。火事ですか。救急ですか」
「あの。救急なんですけど……」
「住所は何処ですか」
「中野区東中野の〇〇の〇〇の三〇一号室です」
「どうしましたか」
「あの、あの。晩ご飯を……お好み焼きなんですけど……食べたら、急に倒れてしまって」
「あなたの名前と連絡先を教えてください」
「岩崎愛です。連絡先は……」

「ほら、しっかり、倉敷くん! 倉敷くん!」

 食べたものを吐いてる。
 徐脈が起きてる。
 この症状は……

(まずい、脳浮腫かもしれない)
「倉敷くんっ! 倉敷くんっ!」
(いや、死なないで。お姉ちゃんも大切な家族も、失った。あなたまで失ったら、わたし、わたし)

「■■■……さん……」

 岩崎愛は、博巳の無意識のこの呟きを、また聴き逃した。
 後に向き合う事となる、姉の名前を。

 ……

 彼女が愛しい男のためにスパゲティ・ミートソースを再び作る時は、まだ、訪れていない。
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