読了

文字数 5,293文字

 それから私はちょくちょくとノートを読み進めた。もう一冊を後からもらい、それも読んでいく。時系列が前後していたり、時々記憶違いを嘆いたり、意味の分からない言葉が出てきたりもしたが、全体的に、見世物小屋のこと、小桜さんの事、三太郎さんの事、彼らとの何の変哲もない日常や、少し驚くような事件、当時はよくあったことなのかもしれないが、戦後の話などがつらつらと記されている。
 二冊目のノートを貰った時、間さんは、上野公園で鳩に餌をやっていた。暇なじじいは大抵こうするもんだと教わりました、と言って真顔で餌をやっていたが、あまり周りに鳩は寄り付いていなかった。雰囲気故か──何かわからないが、鳩は餌をついばむが、すぐその場から離れてしまう。最近彼は骨董市にはあまり現れていないようだ。
 もうすぐ二冊目のノートも読み終わりそうになった時、久々に間さんの姿を見て声をかけた。骨董市の帰りに、何やら地図を片手にベンチで思案にくれている様子を見かけたのだった。挨拶をすれば顔を上げられ、一瞬だけ、彼は嬉しそうな顔をした。そのすぐ後に、自嘲するような笑みを浮かべ、お嬢さんでしたか、と呟かれた。良く見るとあまり顔色が良くない。
「お久しぶりです、お元気ですか?もうすぐノート読み終わるので、今度どこかへお持ちしましょうか?」
 ああそうですか、手間が省けていい。彼はそう言って、手元の地図に何やら書き込んだ。他に思案事があるようで、私の方をあまり気にしていなかった。基本丁寧に応対されて来たものであるのでこの対応は珍しい。忙しいのだろうか。
 ふと、彼が顔を上げた。
「……今、持っていますか。あれ。ならもう、ここでおしまいまで読んじゃってくれると助かるんですが。」


 小屋のあった場所に足を向けたが、すっかり空き地になっていた。
 (今では地下のある空きビルだ。)まるで、元から何もなかったかのように。空き地の周りも随分静かだった。後から知ったが、あの小屋のボヤ騒ぎを切欠として、警察の一斉捜索があったらしい。前科持ちや詐欺師、売春婦、スリにかっぱらい、そう言った者たちの厄介払いをするのに丁度良かったのだろう。山田さんも、三太郎さんも、もちろん小桜さんも、闇市壱号も──誰も、そこには現れなかった。どうして。

このノートを、出会った方々に渡したい。
 会田興行の三太郎さんという青年か、小桜大夫、針金男、山崎ユキさん、アコーディオン引きの山田さん、それらを知っている人は、もうどんどん死んでいるだろう。塀の中ということもあり得る。
 これはまだ私が幼いころの話で、古い記憶で怪しいところもあるが覚えている限りを書いた。自分のことを覚えていてほしいと告げたあの人たちが、どうであったかを、自分の記憶を留めるためにも書いた。
 戦後の復興と、占領政策の後の伝統文化の継承、存続が問われ、統制のかかった自由や、経済発展の裏に影があり、復興を遂げるなかに闇はさらに深くなり、人間が生きるため生きていた、清濁、自由、規制、混乱、秩序を併せ持ち、やがて現代へと収縮してゆく時間の中で、この私、秋元良哉は確かに彼等を見た。




 私は、唐突に出てきた父の名前に驚き、顔を上げた。『秋元良哉』は私の父だ。どういうことだろう。急な混乱に頭がついて行っていない。
「間さん、これは──」
「最後までお読みください、それからです。秋元──蓮さん。」
 こちらを一瞥することなく、老人はそう言った。まるで、私がその質問をすることを想定していたかのような反応だった。
 私の父は、普通の商社の人間だった。今は、しばらく前に胃がんと診断されて、入院している。もともと忙しい人で、私はあまりかまってもらった記憶はない。むしろ祖父の方が、私をかわいがってくれたと記憶している。だから、父が入院した時もあまり現実味が湧かなかった。母は心配していたが、存外元気そうで、まだ死にそうにないなと両親で笑っていた。
 しかし、私はなんとなく父に疎まれていたような気がしていたので大変困っていた。中学、高校といつの間にか疎遠になってしまった。小さい頃はかわいがってもらったのだが、そもそも彼はあまり家に寄り付かなかった。仕事が忙しかったからなのかは知らない。だから、これを書いたのが彼だとして、私は彼の昔の頃の字など知らないし、今の字も見て解るほどかと言われれば微妙だ。しかし、次のページの字はなるほど、意識してみれば父のものかもしれない。
 私は、震える手で、ノートを読み進めた。

  ◇

 三太郎の兄さんへ
 行方知れずとなった貴方様のご無事をお祈りしながらはや幾年が過ぎてしまいました。
 ねえ、三太郎さん、パイロットにも警察にもなりませんでしたし、まぁつまらない大人になってしまいましたよ。
 それなりに一生懸命働いて、何とかやっていましたが、胃癌で余命半年ほどとの診断が下されました。暫く怠いなと思っておりましたが、問題ないだろうとしていたら、大有りだったようで──まぁそうそう死ぬ気もなく元気なのですが、いずれ閻魔様からお声がかかるような年でも御座いますので、今まで書いていたこれを、貴方が生きているならお渡ししたいと思いました。
 何卒これが貴方様に届く事があればと切に思っています。届かずとも、見世物師や露店商などの方々にこの手記が渡り行けば──いずれ貴方様のお耳にもお話が行くかも知れない。もしかしたら、親戚の方やお子様に届くかもしれない。
  ぜひあの当時私が、三太郎兄さん達に何を思っていたのか書き留めたものが届くのではないかと、世間の狭さに望みを賭けました。貴方にとってはご迷惑、知られたくないことでしたらすみません。黙って去られた──文句の分ということにしておいてください。捨てられてしまうなら私も諦めがつきます。
 小桜さんの事、ご存知でしょうか。止血用のリボンは、外側を向いていましたね。あの晩は珍しく、一座全員が揃う日取りだったのですね。見世物小屋芸人がどうなろうと幾人死のうと、当時の警察はいい加減なものでした。ご近所の話では貴方まで火事に巻き込まれて死んだことになっていたり、強盗が入ったのだったり、貴方が小桜さんを殺して心中しただの──。
 私は貴方を見ていますから、とりあえずあの晩に貴方が死んだわけでは無いことはわかりましたが、遺体の数は死体人形やミイラも数えられたりしたのでしょうか、そもそも一座の人数は何人だったか私は正確なところを存じ上げませんでした。しかし、源太さんは一座の芸人としては登録されていませんでしょうね。
 想像を膨らませる失礼をお許しください。あの当時仮設小屋、屋台の火事騒ぎはよくありましたし、ごろつき、やくざものの小競り合いもありました。孤児の方の戸籍は出鱈目に作られたものもあるとも聞きました。
 貴方達の正しい名前すら、私は知らないのです。面倒で、若しくは管轄ではないと警察も放っておいたのでしょうか。でも小桜姐さんのお話を聞く限り、いえ、そもそも私は貴方とお話をしていたからこそ、そしてあの夜ああ言われたからこそ、何かあったのではないかと思うのです。
 普通に押し込まれるのは嫌なものね。と小桜姐さんは仰って居ました。あたし太夫で居られやしないなら生きてないわ。とも。小桜姐さんと最後に交わした言葉は前述のとおりです。
 貴方が行方不明の間に、彼女は帰らぬ人となったと、看護師さんが教えてくれました。何故かは教えてもらえませんでした。傷が化膿してだとか、肺炎だとか自殺だとか脱走して死んだとか、色々。会田興行の話もまた噂話になっておりましたが、しばらくして小屋のあった通りにはマンションが建ち並び、すっかり皆忘れてしまいました。そもそも場所すら皆うろ覚えですし、そのマンションも関係者のものでもないでしょう。人間は薄情なものです。自分も。小桜ねえさんの墓すら、私は存じません。
 一座の人々は火事で死に絶えたか、他の場所へ向かったか、はたまた他の何やらで、もう誰がどこにいらっしゃるか解りませんでした。営業の外回りをしました時に上野のあたりで、一度だけ、アコーディオンを弾いている義足の大道芸人を見たことがあります。山田さんかとも思いましたが、確証が持てず、急いでいたのでそれきりでした。
 今思えば、どうしてあそこで一言聞かなかったのかと思いますが、違うと言われてしまうのが怖かったのです。どこかで生きているに違いないと、そう思いながらそれに確証が持てず、死んだと判ってしまうよりは曖昧な方が良いと──貴方様を探す事ままなりませんでした。
 でも、これだけは言わせてほしいのです。三太郎さん、私は貴方達のことを覚えていました。まだ覚えています。死ぬまで忘れたりしません。
 貴方様は私の兄のような存在でした。生きているうちにあと一度だけでもお会いしたかった。そして、自惚れかもしれませんが、こう書けば──貴方は私に会ってくれるのではないかと、考えました。  
 だって、貴方は、かなりの世話焼きですから。意外と近くにいらっしゃるのではないかと。  
 それは、都合が良すぎでしょうか。それとも、もう、貴方様はこの世に居ないのでしょうか。
 これ以上は何も申すところはございません。ただ一つ、貴方様にお渡ししなければならないものがあります。
 小桜さんが私に預けたものです。それは私の娘に預けました。あれは私に似て好奇心旺盛で。どうかもしこの手記がお手元に届きましたら、その頃私が生きているかわかりませんが、ぜひ私の娘を訪ねてやって頂きたい。私は貴方達にも、私の様な人間にも奇跡など起きないと思っています。だからこそ古いものに、大抵の人が棄てるであろう、馬鹿にするであろう、しかし少し外れた者たちには効くのではないかと言う手段をとりました。引っ越しなどしていなければ上野の骨董市や浅草をぶらついて居る筈です。名を蓮と言います。
 私の記憶違いかもしれませんが、何処か小桜姉さんに似ています。彼女はこの手記のことを何も知りません。私は、彼女を見るのが少し怖かった。何やら小桜さんに何もできなかった後悔やら、昔の事やらが思い出されて。私は彼女が大きくなるにつれて、あまり構ってやれなかったものですから。
 色々書いてしまいすみません、いつか、私たちの縁が、もう一度繋がりますように祈ります。

  ◇

 読み終えて、私は顔を上げた。父さん。あなたは何を思っていたのだ。そして、これはどういうことなのだ。間さんに聞かなければ、そう思って横を見れば、彼は既に私の疑問を察していたのだろう、立ち上がってこちらを見ていた。
「其処に在るのは、私の手記ではないのです。『良哉』の手記と申し上げたので、まぁ許してください。──そこに書かれているのは貴方のお名前でお間違いないですね。秋元蓮さん。」
 不意に闇が濃くなった。後ろの木に止まっていた鳥たちが、一斉にバタバタと飛び立つ。風が吹き、あたりの人の声が遠くなった気がした。
「……父、の名が。」
「急にこんなことを言われても面食らうでしょうが……お父様はどちらにいらっしゃいますか。まだご存命でしょう。何処にいらっしゃるかは判らないのですが、とある事情でご存命のことは知っています」
「……入院中です。あの、」
 父の、骨董市での、屋台での、何かを探すようなそぶりを思い出す。それと同時に、私を疎むような、いや、少し悲しそうな、怯えるような瞳も。
 間さんに初めて会った時の事を思い出した。根付。あれは。声をかけた時から、私の事を知っていたのか。
「……貴方のお父様に二つほど、お伝え下さい。こういった無用心は良くないと。年若い娘さんの情報を──やくざもんとテキ屋と骨董商と占い師と詐欺師の区別も出来ないくせに他人に渡すんじゃないと。私は、それが言いたかった。そしてもう一つ、三太郎さんと小桜さんは死にましたよ。慈庵寺の無縁仏に葬りました。」
 彼らが、死んだ?
 このノートは、いや、そもそも、間良哉と名乗った、この老人は。
 私は、父についても、彼についても──何も知らなかったことを思い知った。
「──貴方は、何者なのですか」
「……私は、はざまの人間ですよ。」
 幼子を手玉に取るように、彼は嗤う。
「私はあいつの顔馴染です、戦後の一時、慈庵寺という寺におりました。三太郎は手紙なんか遺すようなまめなやつではなかったですが──良哉さんのことは最後まで心配していました。小桜の為の金が居ると言って、危うい事に手を染めて、はらわた抜かれて死にました。私が慈庵寺の無縁仏に葬りました。小桜さんは、怪我が元で死にました。線香の一つでもあげてやってくださいと、良哉さんにお伝え下さい。では。」
 話はもう終わりだとばかりに、老人は私に背中を向けて歩いて行った。間さん、そう呼びかけたが、彼はそれに答えなかった。もう、彼は私に会う気がないのではないかと、そんな気がした。
 私は曇天の下でただ茫然と立ち尽くす。老人の巻いた餌に、少しずつ鳩が群がり始めていた。


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