『良哉』の手記 その一

文字数 7,835文字

 なぜ急にノートを書き出したのか。大学の帰り、新宿を通った時に神社に立ち並ぶ提灯を見たからだった。酉の市だったようで、ふと気になったから寄ってみた。そこの境内に立ち並ぶ熊手の屋台と、紫煙と、見世物小屋の呼び込みのベルの音を聞いて、今まであえて思い出さないようにしていたあの、皆のことが甦ってきたからだった。
 今日は自分の誕生日だった。合法的に酒を飲めるようになった以外、たいしたことはない。大人になったのだろうか。いつまで劇場やら興行やらにかまけているのだ、いい加減大人になれと、父から言われた。大学で演劇をやったり、映画を作ったり。幼いころ空き地で遊んだ友人たちも、色々と勉強を始めているもの、働きに出たもの、結婚したものと、それぞれ動き出している。日本の技術はうんと進歩して、あたりの様子はめまぐるしく変わった。見世物は勿論、サーカスさえ一時と比べればとんと見なくなった。浅草の劇場も、映画館もどんどん無くなっていった。渋谷やら新宿やらの方面が発展して繁華街になり、下町の辺りは少し寂れた気もする。過去との決別は出来ないし、あの頃から背丈が伸びただけで何も変わっていないが、唯一変わったとしたら、自分のことを「私」とか「俺」と呼ぶようになったくらいだ。せいぜい出来ることなんてそのくらいだ。気取るだけ。大人になるとは何なのだろうか。
 小屋の皆さんと生き別れ、死に別れ、私も三太郎の兄さんと同じくらいの年になった。もしかしたら、もう彼よりも大きくなったのか。そうでもないか。子供の頃の思い出の彼らに、もう一度会いたいと思っても、それはもう叶わないのだろう。でも今日、新宿で熊手を買って、煙草を吹かす茶髪の青年に絡みつく黒髪の女の紅い唇と、見世物小屋のジリリリリリというベルの音を聞き、三太郎さんや小桜さんの事を思い出したのだ。
 ──お前が大人になるころには、俺たちの事なんか忘れてるよ。
 そうやって、いつか言われたことも急に思い出した。彼らを思い出さなくなった自分を恥ずかしく思った。このノートは、日に日に薄れていく記憶を書き留めたり、考えたりするために記そうと思う。
 (以下、小屋の見取り図。雑多なメモ書きが数ページに渡って記されている。)
 
 三太郎さんたちと出会ったのは夏だったような気がする。見世物小屋で、夕方の縁日の演目を見た後、こっそり夜様子を見に行ったのだった。自分は割とやんちゃをして、夜中に肝試しと称して友人たちと抜け出していたのだから、あの日もそのような心持だったのだろう。電信柱に寄りかかり、小屋の窓に向かって何かを話している赤茶色の髪の青年が居た。街灯に照らされて、白い肌が黒い服と対照的だった。こちらに気が付いて、やあ、お坊っちゃん、この小屋に何か用か?と闇には似つかわしく無い軽快な声で呼びかけられた。それが三太郎さんだった。私は急なことに面食らった。誰だろう、と思った私の耳に高い声がした。
「悪魔の子よ」
 くすくす、と少女の鈴を転がす笑い声が窓から聞こえ、驚いてそちらを向く。
「……小桜。」
 先程の軽さを何処かへ取り払ったかのような低い声で、青年は少女を睨んだように見えた。窓のようになっている場所に、猫のように例の少女──小桜太夫が横になっている。彼女が首を振ると、肩につくかつかないかの黒髪がぱらぱらと揺れた。
「ふふっ、あたしは小桜。その子は三太郎さん。戦後のどさくさに紛れて、うちに居付いちゃったの。お馬鹿さんだから、三太郎さん。」
 口紅はもう取られていたが、それでも少女の口元は紅色をしていた。
「あのよ、お前は黙っていれば可愛い女なんだからね、そうべらべらと余計な事を言うのが玉に瑕だ。」
 年の頃は十五より上、二十にいかないくらいだろうか。滑らかな言葉運びでそう言いながら青年は此方に近づいて来る。
「で、どうした坊ちゃん。遊びに来たか」
 少年の私は、答えに詰まり下を向いた。見世物小屋を見たかったのだ。あれは本物なのかそうでないのかが、厳格な祖父母や父の嫌う「俗らしく」「穢らわしい」見世物達の、生身の声が聞きたかった。爪先を見て固まる少年を前に、小桜さんと三太郎さんはちらと顔を見合わせた。
「いらっしゃいな、取って喰ったりしないわよ。良い子そうなお坊っちゃんに悪いこと教えるの、あたし大好きよ。」
 笑い声が闇に木霊した。小桜さんは三太郎さんを手で招き寄せ、その首に艶かしく手を這わせた。それから彼の頭を抱えるように抱き寄せ、その耳元に向けて舐めるように囁いた。
「ねえ三太郎、面白そうだからこの子と遊びましょうよ」
 朱い着物から覗く白い手が、彼の黒い服に妙に映えていた。三太郎さんは何も答えず、私をじっと見て、ただ一度目蓋を閉じた。
「お前、名前は?」
 急にそう聞かれ、恐る恐る答えた。
「……りょうや。」
「何て書くんだい、漢字。」
「良い悪いの良に、善哉の哉。父さんが付けた。」
「善哉、ねぇ。」
 一瞬鋭く、灰色の目が細められた。俺達は悪い奴らだからな、そう笑いながら、私の頭を軽く撫でる。
「よし、お前は今日から、良坊と呼んでやろう。」
 よしぼう?と小桜さんは首を傾げていた。うりぼうみたいだ、と私は他人事のように思った。
「変よそんなの、りょうちゃんでいいわ。よろしくね。」
 この夜以来、私はあの一座によく遊びに行くようになったのである。
 彼らは、会田興行と名乗っていた。
 あの見世物一座の人々は、浅草周辺や上野、縁日の屋台やら劇場などのハコやら祭りやらに居た。といっても、三太郎さんがあのあたりを好んでいただけだったのだろうか。詳しいことは判らない。情けない事だと思う。私は興業の演目自体は、数回しか見たことが無いのだ。
 あとはずっと、彼らと裏で遊んでもらった。巡業していたらしいが、浅草には長い事いたらしい。会っていたのは毎日ではないが、平均して週一程の頻度だろうか。二回?いや、もう少しあったかもしれない。普通に考えれば、太夫の小桜さんはそんなに暇ではなかったろうし、三太郎さんも随分と時間を作って自分と遊んでくれたものだと思う。良く考えたら、意外と祭りやああいった興業ものは夜の方が人気だから、昼過ぎのまだ明るいうちは自分にかまってもらえたのだろうか。たった一年にも満たない期間だが。ヤマさんと呼ばれていた荷主の顔は、私は終ぞ思い出せないままだ。
 三太郎さんは基本無口に見える人間だった。いつも茶色や黒や濃緑やら、暗めの服を着ていた。少し赤みがかった茶色の髪と(一時期黒に染めていた)三白眼の瞳。けれど一度喋らせれば面白かったし、よく喋った。ただ、他人に興味はあまり持たぬ様で、人からどう思われる思われないを気にせぬ人間であったから、態度も憮然としているようなところがあった。見世物一座の母であるヤマさんと呼ばれる女性をはじめ、連中の多くは多少なりとも彼を扱いかねているようだった。
 しかしどういうわけか、彼は私の事は弟の様に可愛がって親切にしてくれていた。両親や祖母の目を盗んで遊びに向かえば、決まって彼は自分に笑いかけ、菓子をくれたり玩具をくれたりするのだった。大抵彼は、看板模型制作や、食い千切られる鶏や蛇の調達や世話、呼込みや怪しい人物との交渉等の裏方業務を行っていた。「俺は表舞台は嫌いなんだ」とは彼の口癖だった。しかし、ごく稀に舞台に出て曲芸をやることもあった。とは言っても普段より緊張するようで、簡単なものしかやっていなかった。呼び込みをやっているのはよく見た。手先が器用なのと、身体能力が高いので、一人になれば宙返りや倒立したままのナイフ投げや、5,6本の棒の投げ上げなどをしているのを見たこともある。
 私が訪れる時は奥の木箱の蓋を開け、そして中から派手な色のついた薄い板を取り出して、並べ始めるのだった。工作や宣伝の手伝いをさせようというのである。赤地に真っ黄色の絵の具で『巨大ヘビ』と書かれていたり、奇抜な格好で頭にターバンを巻いた男の絵の横に、赤い文字で『インドからの魔術師による空中奇術』という文が見えたりする看板である。
 ポケットから何か5センチくらいのものを取り出してそれを口元に持っていき、よく銀色の刃を咥え引っ張り出していた。私にはそれが十徳ナイフというものだという知識はあったが、身近で使う人間はあまり見なかった。今度は箱の中から鉄砲のようなものを取り出して、その木の部分を削り始めたり、こけしの様な妙な人形を作りだしたりとしていた。自分が時々刃物を持たせて貰えると、手伝いをしているようだと気分が良かった。
「三太郎、ちょっと…」
 夕方からの公演を待って居る昼の暇な時間には、ヤマさんが食事の手伝いを三太郎さんにさせる。ヤマさんは女らしさのあまりない人物であったから、家事が苦手なのだと笑いながら小桜ねえさんが告げた。小桜ねえさんはできるのですか、との私の問には聴こえない振りをして答えなかった。三太郎さんの作る、時々何が材料なのか良くわからない食べ物は割と旨かった。
 小桜さんはよく舞台の裏の床に茣蓙の引いてある小屋に、蒲団やら小道具やら着物やら鏡台やら風呂敷やらをちらばせたまま、作業をする三太郎さんにちょっかいを出して居た。
「あの人は莫迦なのよ。」
 小桜ねえさんは三太郎さんが居なくなると何時もこそりとこう言った。
「皆は何を考えているか良く解らないと言うけれど、あの人はあれで寂しがりなの。あと饒舌な口下手。でもよくよくあれの行動原理を聞くとね、ちゃあんと芯は通っているのよ。抱え込んで持ってっちゃって、一人で完結してよく分からない事をし出しちゃう。お馬鹿さん。」
 私にはそれは、最初は疑問だった。かの青年は他人に冷めた目と斜に構えた態度を向けるばかりで、寂しさというものはあまり感じられなかったからである。自分の事は気にかけてくれていたとは思うし、それは自惚れではないとも思う。ただあまり感情を表に出さずまいとしている人だったのだろう。小桜さんは、膝が常人とは逆に曲がることを除けば、いたって普通の、いやむしろ賢い頭と、美しい容姿であった。彼女は「牛娘」「猫娘」「件」などと呼ばれ、小屋の物珍しい娘として有名だった。
 しかし滅多に外には出ない。三太郎さんは時々小桜さんを立たせたり、負ぶったりして何処かへ行くときもあった。彼女は良く歌を歌っていた。座敷歌(親が花街の人間だったらしい)やサーカスの歌、越後獅子の歌、私は街の子、美しき天然、そのあたりの歌を。
 小屋には飼い犬(だったのかはわからない)がいた。よく裏通りをうろちょろしている野良犬だったかもしれない。無理矢理小桜ねえさんが三太郎さんに命じて赤い首輪をつけさせたそうだ。上野という名札の塗ってあった布を(おそらく飼い主のものだったのだろう)咥えていたからだとか、アメ横で拾ったから、「闇市の壱号」だとか(丸号だったかもしれない)、妙な名前を付けられていた。にいさんは芸を仕込もうと躍起になっていたが、どうやらかの犬は小桜さんには懐くが、三太郎さんには餌を寄越せとねだるだけで、彼のいうところの「お手の一つも覚えやしねえ大飯喰らい」だった。もう結構な年だったらしい。
 一度その犬の近くを通りかかったときに、切れ長の目のおばさんが、あの娘は狗神付きの家の生まれだから犬に懐かれるのも無理はない、因果だ因果だと呟いていた。壱号は、それを聞くとそのおばさんに吠え掛かった。当時、意味は分からなかったが、何やら小桜さんを馬鹿にされていたのは分かったから、犬でもそれがわかって飛び掛かったのだと感動した。その話を三太郎さんにすると、「因果応報」というよく口上に使われる言葉を聞いたら飛び掛かるように仕込んだら、客が犬を避けるために小屋に入るようにきっかけが作れるかと思ったんだが、ときまり悪そうに白状された。私はがっかりすると同時に、何だかんだ言いながら粘り強く野良犬を調教したにいさんの執念というか、負けず嫌いに呆れ半分、尊敬半分だった。諦めていなかったのだねと尋ねると「結構前に世話したんだ、ただ飯食うだけなら俺になんかあったら追い出されるだろ、多少なりとも使えるんだってとこ見せてやらねえと、それがこいつの為だ──あと、犬一匹しつけもできねえとも思われたら癪だ。」と返される。ふうん、と感心していると、だからお前もいい子にしてるんだぜ、と頭を撫でられた。
 いつだったか、小桜さんと闇市壱号のその話をした。小桜さん曰く、あの犬は三太郎さんの事を自分の同類だと思っているため、寧ろ自分が三太郎を心配してやっているのだくらいの心意気であるから、彼の命令など聞くわけがないそうだ。小桜さんの『お手』『お座り』には反応していたから、そうなのかもしれない。
「三太郎の兄さんは、ねえさんのことも可愛がってくれているよね。」
 そう口を開けば小桜姉さんは一瞬目を丸くした。それから、けらけらと首を振りながら笑った。
「そうね、ねえ良ちゃん。貴方のお話を聞かせなさいな。」
「僕の話?」
「そうよ。あたし

だから、」
 桜の着物の裾から伸びた細くて白い指が自らの下半身を指す。
「客席のお客さまか、見世物小屋一座の人間とかしかお話できないもの。貴方のお話が聞きたいわ。なんでもいいのよ。」
 微笑みを浮かべながら小首を傾げ、言葉を待つ小桜ねえさんに何を話せば良いかと思案した。あの小屋に住んでいるであろう奇形の娘に世間の事をどの程度話せばよいのだろうか。親の話等はしても平気なのだろうか。そういった逡巡を見抜いたかのように、ねえさんは私の側に歩み寄った。
「……そうね、いきなり話せというのも乱暴な話だわ。あのね、良ちゃん。あたしは、母さんと離れて此処に来たの。」
 あたしだって、流石にほんとうに山に転がっていたわけじゃないわ、牛の子でもないし。と彼女は着物の袖を握り締めた。
「いつか迎えに行くから待っていてね、そう言われてもう何年。色んなとこ廻っているから長いこと続く知り合いは居なくて、小屋は最近漸くこのあたりに落ち着いたけど──母様といたところからは遠いのよ……貴方はかわいいからお友達になれそうな気がするの。だからはしゃいでしまうのよ。」
 普段の勝気で怪しい笑みとは異なった神妙な表情で、ねえさんはそう呟いた。興行は仮設小屋を建て、ひと夏、祭りの一時で消えていくものである。それを自分は彼らに会うまで気に留めた事はなかったが、ふとそれを考えた。もし自分の出会った人と必ず別れることが決まっていて、それを受け入れることしかできないとすると。何とも言えぬ感傷が胸の奥から湧き上がって来た。
 今ならそれが彼女にとって、どれだけ寂しい事かが解る。昼間の太陽の温かい光が窓から入り、床の茣蓙を照らしていた。そんな彼女に向けて言葉をかけようとした瞬間、私は陽光が遮られたのを感じた。
「よお、そろそろ支度しろよ、小桜。」
 一重瞼の男がぬっと小屋の中に入って来た。年の頃は四十程だろうか。小桜ねえさんは眉根を寄せ、源太さん。と呟くように男の名前らしきものを呼んだ。
「解ってるわ。今から準備しようと思っていた所よ。」
「だったら早くしやがれってんだ。外の餓鬼と浮ついてんじゃねえ、このあばずれ。」
「良ちゃんは関係ないじゃない!」
 ねえさんは目を吊り上げて叫んでいた。源太と呼ばれる、この一座の主のヤマさんの弟は酒癖が悪く博打打ちであり、偶に訪れては姉に金の無心をしては小屋の芸人にちょっかいを出して帰って行く人であった。化物、出来損ないと芸人を詰ることもあるが、最早相手にしない人間の方が多い、やくざものであったのであろう。
「リョウチャン、リョウチャンって、だいたい餓鬼連れ込んでんじゃねえよ。一座で使えるでもあるまいし、面倒なことになる前にとっとと、」
「煩い、出てって頂戴ってば!」
 小桜ねえさんが近くに転がっていた茶碗を投げつけた。源太が身を交わし、陶器は壁に当たり割れてしまった。それを靴で踏み付け、にやりと下卑た笑みを浮かべて、源太はねえさんへと歩み寄った。
「随分とお転婆な娘じゃねえか、なあ?」
 自分は思わず小桜ねえさんの半歩前に並んだ。ねえさんは気丈に目前の乱入者を睨みつけていた。彼女の見目は良かったから、男達から言い寄られることもあったという。源太がもう一歩前へ進もうとした時に、静かな声が響いた。
「壊れ物を踏むと危ないぜ。源太さん。」
 三太郎さんが部屋の戸枠に背中を預けながらそう言ったのだと気がついた時には、もう源太は素早く三太郎兄さんの方に向き直っていた。
「……お前か。」
「邪魔して悪かったね。だけどそろそろ見世物の時間なんだ。」
 私の方からは源太の表情は見えなかったが、肩を震わせている事から察するに、真っ赤な怒り顔をして三太郎さんを睨みつけているのであろう。それに対して、彼は涼し気な表情をして布巾で手を拭っている。しかし纏っている雰囲気は硬い。彼は怒鳴っている人の顔を、自分にあまり見せない様度々配慮してくれていた事に、彼等と離れ離れになってから気がついた。暫くの静寂の後、源太は舌打ちと共に足音を立てながら部屋から出て行った。小桜ねえさんはその背中に舌を出し、自らの着物を脱ぎ捨てる。その下には洋風のワンピースが既に着られていた。
「三太郎、有難うね。」
 私は安堵の息をついた。三太郎さんは、いつでも頼りになる人だった。小桜ねえさんは何故かあの悪源太は貴方が苦手なのよ。と謳うように言い、素足に真白い靴下を履き、可愛らしい革靴を嵌め込んだ。
「あの人は何をしに来たんだろうかね。またヤマさんに金の無心かね。そら、リボン結んでやるから、こっちへ来い。」
 膝の下に真赤なリボンを蝶結びにして、これでよし。と三太郎兄さんが小桜ねえさんの背を叩く。矢張り兄さんは小桜ねえさんには過保護だねえと言えば、拗ねた様に此方を睨んだ。私は度々小桜ねえさんの見世物を見るうちにある事に気がついた。膝下の赤いリボンは他人──主に三太郎兄さんが結んだ時は脚の外側に蝶結びがあるが、小桜ねえさんが自分でリボンを結ぶ時には、膝の内側に結び目があるのであった。
「旅のつばくろ…」
 サーカスの歌を歌いながら、ねえさんは嬉しそうに自らの髪に櫛を入れる。このような日々の繰り返しで、彼女は今日もあのびろうどのカーテンと、低俗な好奇心と物悲しい寂寥感の漂う橙色の舞台に立つのだろう。そう思うと私は、あの観客の中に居た何とも言えない不安感と高揚感を思い出し、肩をぞくり、と震わせるのであった。そう、小屋は私が遊びに行けば、いつでもそこにあると思っていた。それは間違いだった。
 (数行の間。ここから文字はボールペン書きになっている。)
 そういえば、源太さんも山田さんと同じで、おそらく戦争帰りだろう。父もそうだ。あの時代の男たちは酒を飲んで、人を殴った。戦地のトラウマから来るものか、それとも暴力的な組織に慣れたからか、そうした奴等に育てられた。体罰だ暴力だ、何だというが、別にそれが悪かったとは思わない。
 三太郎さんも戦争孤児だと言っていた。「親じゃなくても、誰かに可愛がってもらうっていうのはな、踏みとどまるために大事なんだぜ。」と、そうやって、いつだか彼は自分の頭を撫でながらそう言った。
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