『良哉』の手記 そのニ

文字数 2,356文字

 今日、立ち寄った喫茶店で何処かの合唱団の娘たちが、『美しき天然』の練習をしたという話がふと耳に入った。最近は仕事が忙しく、あまり昔の事に思いをはせてばかりも居られない。夢に時折、彼らが出てくる。忘れないでねと微笑むように。仕方ねえなと寂しそうに。
「旅のつばくろ寂しかないか……」
 小屋の中から澄んだ声で『サーカスの唄』が聴こえてくることはよくあった。「旅のつばくろ寂しかないか。俺も寂しいサーカス暮らし。」確かそんな歌だった。その後の歌詞は忘れた。今年も暮れてどうのこうのだった気がする。どうやら小桜姉さんはへたなジンタよりもこちらの方を好んでいたらしい。
 私がこっそりと入口の簾を覗くと、小桜ねえさんは自らの黒髪を三太郎兄さんに梳いて貰っていた。女は髪より姿より心の垢を櫛で梳く、と昔の人は言う……。流れる細い髪を青年の青白い手が丁寧になぞる。その髪への触れ方を見て、三太郎の兄さんは本当にねえさんのことが大切なのだな。と毎度思っていた。そこで声をかけるかかけまいか迷っていると三太郎兄さんと目が合った。すると彼はその心持を見越したかのように唇の片側を上げ、こちらに手招きした。お邪魔しますと一声かけると、姉さんは首を振る。
「そう堅苦しくならなくていいのよ。さっさとこちらへお入りなさいな」
 きゃらきゃらと笑い声をあげ、遠慮がちな私を傍らの座布団に座らせる。仏頂面でたまに笑っても鼻で笑うような軽い笑いしかしない三太郎さんに対して、小桜さんはよくはしゃいでいた。
「ヤマさんや源太さんに見つかるとまた小言をくらうかもしれないわ。静かにしていましょうか。いいえヤマさんは大丈夫ね、あの人なんだかんだ優しいもの。それに折角のお客様ですものね」
 艶かしく傍らの自分の頬に指を這わせながら、そう一人言のように話し出す。姉さんは私の頬を弄るのが好きだった。あの頃は私も、まだ頬の柔らかい子供だったからだろう。ヤマさんは一座の荷主……興行元だったのだが、私はあまり顔を合わせた事はなかった。
「小桜ねえさん、さっきお歌を歌ってた?」
 頬を抓まれ顔を赤らめながら、私はそう尋ねた。体温の低い冷たい手が頬に心地よいが、ずっと撫でまわされるのはくすぐったかった。
「ええ。そうね、歌は好きよ、実は三太郎のほうが巧いのだけれど…そうだわ良ちゃん。今日は御座敷遊びしましょう。こんぴらふねふねしましょうよ。」
 姉さんの母は芸者だった、と言う話を思い出した。御座敷遊びと云われても少年の頃の自分はいまいち了解をしていなかったのだが、(今でも詳しくはない、外国人の接待で祇園などに連れて行けば喜ぶだろうと検討したことはあるが、予算と移動時間と諸々のつり合いを考え断念した)遊びと云われて首を縦に振る。
「三太郎、三味線弾いて頂戴な。」
 姉さんがそう背後の三太郎兄さんに呼びかけると、彼は溜息をつき髪を梳いていた手を下げた。何故か彼は三味線が弾けた。どうしてかと聞くと、世話になった牧子さんという人の妹が端唄小唄をやっていたので少しだけ教えてくれたのだという。     
「御座敷遊びなら演奏はこちらの仕事なのか疑問なんだがね、まあ仕方無い。太鼓持ちになってやろう。取り合うものはどうするんだい?」
 姉さんは事もなげに答えた。
「三太郎のお茶碗でいいわ。」
 三太郎さんは頭を掻いて、割るなよ、と言った。小桜姉さんにはこういうところがあった。そのわがままは甘えでもあったのだろう。目が合った姉さんは、にこりと悪戯娘の笑みを浮かべた。
「世間知らずの良ちゃんの為に、こんぴらふねふねを教えてあげるわ。まあ私も母様から教わったのだけど。これだけは覚えなさいと言われて。今でもまだ歌えるわ。この間、顔なじみになった行商さんには、巡礼なんとかの部分の歌詞が違うとか言われたけど。あたしの覚えているのだと……」
 見世物小屋の目玉少女が教えてくれたのは、次のような遊びだった。先ず真ん中に椀を置く。金比羅船々の歌を歌いながら音楽の拍子に合わせて、交互に台の上の椀に手を乗せるか椀を掴むかをする。手の甲を上にして乗せてその手が離れた時は、相手は同じ様に椀を掴むか手を乗せるかの二択である。自分が椀を掴んで上に持ち上げた時、相手は椀が取られた後の何もなくなった台の上に手を握って乗せる。その動作を繰り返し、先に間違えたほうが負けとなる。要は相手の椀に対する動作を間違えさせるように誘い込む単純なものである。
「いい?お解り?やってみれば解ると思うわ。はい。しゅらしゅしゅしゅ…」
 姉さんが何やら唄い始めると、兄さんが渋々と言った体で三味線を奏で始めた。

 金毘羅船々
 追い手に 帆かけて
 シュラシュシュシュ
 回れば 四国は
 讃州那珂の郡
 象頭山金毘羅大権現
 いちど まわれば

 金毘羅石段
 桜の真盛り
 キララララ
 振袖島田がサッと上る
 裾には降りくる花の雲
 いちど まわれば

 巡礼桜は 
 菅笠姿で
 シュラシュシュシュ
 訪ねる母様お梅の涙よ
 我が子と言えない胸のうち
 いちど まわれば

 お宮は金毘羅
 船神さまだよ
 キララララ
 時化でも無事だよ
 雪洞ゃ明るい
 錨を下して遊ばんせ
 いちど まわれば………

 電球の吊るされた、小さな部屋の中で、茣蓙の上ではあるものの、小桜姉さんの鈴のような歌声と、兄さんの弾く、少し調子の外れた三味線の音の中、居なくなる為に居る彼等と時間を忘れて遊んだ「御座敷遊び」は、確かに微笑ましい記憶として私の中に残っていた。
 この時、二人に勝って(手加減を加えられていたのだろう)おもちゃのついたキャラメルの箱を商品として貰った。とても嬉しかったのを覚えている。
 (数ページ白紙。色褪せたキャラメルの箱が潰されてホッチキス止めされている。)
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