『良哉』の手記 その三

文字数 5,908文字


 普段、彼等はずっと演目をやっているのかと思ったが、そうでもないらしい。小屋を出している事もあれば、他の小屋の手伝いをしていることもある。休みの日というのもあるようだった。
 空いた時間は何をしているのか、今改めて考えてみると、三太郎さんはともかく、小桜さんは何をしていたんだろう。彼女は外に出なかったようだから。外出を嫌がっていたのだろうか。それとも。
 いつだったか、そんな話もした。喫茶店の話だ。カフェオレ、クリームソーダ、パンケーキ、ナポリタン。メニューの話。
「クリームソーダ?」
 姉さんはこてん、と首を横に傾けた。
「なあに、それ。」
「小桜ねえさん知らないの?こないだ、父さん母さんにつれてってもらったんだ。メロンのソーダにアイスクリームがのってて、サクランボがあって、」
 家族で食事に行った時の事を話す。姉さんは常日頃のワンピースで円い卓に頬杖をつきながら興味深げに耳を傾けていた。
「良いわね。あたしも飲んでみたいわものだわ。美味しそう。」
「今度行こうよ」
 笑顔で話を聞いていた少女の顔がふっと暗くなった。じじ、と音がして蝋燭の火が揺れる。戸の隙間から風が吹き込んできたようだった。
「……それは、ちょっと無理ね。」
 姉さんは私の頭の上を見るようにして顔を歪めた。唇が微かに震えていた。私は何も言えなくなって、やってしまったと思いながら、卓上の木目をじっと見つめた。
「やあ、良坊。また来たか。」
 頭上から降ってきた声に顔を上げると、三太郎兄さんが笑って立っていた。今部屋に入ってきたようだ。会話を聞かれていなかっただろうか、と思った。彼は小桜姉さんについては格段過保護である。だからこそ、彼女を悲しませる気はなかったが、不用意な発言をしてしまったのは決まりが悪かった。
「うん、三太郎の兄さん、今日は」
「よく来たね。だが生憎ちょいと買い足しを頼まれちまって、もうしばらく遊べそうにねえや。小桜と花札かなんかでもやって遊んでてくれ。生憎此処にはグローブもバットも飛行機も無いんだ。」
 そう言って片手を上げて、三太郎兄さんは奥へと消えた。私はまた木目に目を落とす。木目に電球の灯りが写っており、その反射がちろちろ目に眩しかった。すると、ぱっと姉さんの手の甲がそこに差し出された。茶色の木目に白い花が咲いたように見えた。
「良ちゃん、お顔をあげなさいな。」
 決まり悪く顔を合わせると、姉さんは自分の額をこつ、とぶつけてきた。まるで黒真珠のような眼球が自分の顔を写しており、思わず頬を紅く染めた。
「このお馬鹿さん。そんな神妙な顔をされちゃこっちが困るでしょ。あたし見世物にされんのは慣れているけど、同情されんのは真っ平よ。可愛そうな子を演じてあげるし、舞台の上で踊ってあげるし泳がされてもあげるわよ。でも、あたしにはあたし好みの舞台があんのよ。溺れてはあげない。」
 そう言いながら少女は紅を手に取る。白い手が筆を持つ。絵の具でも取るかのようにちょいとやると筆先が赤く染まった。彼女は強い人で、賢い人だった。そうならざるを得なかった、哀しい人だった。それでいて、明るく、美しい人だった。
「…小桜ねえさん。」
「なあに」
 ごめんなさい、と口の中で呟かれたその声に、件の少女は何も言わなかった。そのまま細い筆が唇に乗せられた。紅が姉さんの輪郭をはっきりとさせていく。境界を引くかのように紅は少女を妖しく彩った。くすくす。息を含ませた笑いがほのかにその唇から漏れる。
 今一度口を開こうとしたその時に戸を叩く音がした。
「両手が塞がってるんだ、開けてくれ。」
 三太郎兄さんの声に慌てて戸を開けば、両手を後ろに回したままの彼の姿が目に入った。それから部屋に入り二人の方を見て胸を張る。
「さて、今日は良いものがあるんだ」
 彼が後ろに隠していた両手をあげた。目に入ったのはグラスに入った鮮やかな赤色の水と、上にある白い玉のような──アイスクリームだった。
「まあ、メロンではなかったんだが──クリームソーダは夏のもんだろ。もう残暑だけれども、最後の夏の思い出には悪くないんじゃないのか?」
 机の上にしゅわしゅわりと音を立てている赤い炭酸水が置かれる。姉さんはじっとそれを見つめ、私は三太郎兄さんを信じられないという思いで見上げた。目が横に逸らされる。先程の会話を盗み聞きして、材料を揃えに走ったのだろうか。偶然クリームソーダが飲みたかった訳ではないだろう。彼は以前、小桜がせがむから偶に買うが、実は俺はバニラアイスだとかああいう甘ったるい物よりも氷菓子の方が好きだとぼやいていた。贅沢だよなあまったく、そうも笑っていた。
「……気に入らなかったかよ。こんなんではしゃぐのは餓鬼だって言うのか?自分は昔、結構好きだったんだが、その」
 斜め下を見ながらそう呟き始める青年を見て、私と小桜ねえさんは顔を見合わせてくすりとした。このままだと照れ隠しか何かでいたたまれなくなっていく三太郎さんが可愛そうだ、素直に喜んであげよう。そう、目で小桜さんと会話をした。
「三太郎兄さん、ありがとう」
「おう。」
 姉さんは目を細めてグラスの中の赤い液体を見た。感慨深そうに両手でグラスを取る。それから白いアイスクリームにストローを刺す。嬉しそうにストローを舐めて、それから舌を出した。
「ねえ、三太郎。口が真っ赤になっちゃったわ。」
 兄さんは灰色の瞳を細め、彼女の口腔に指を二本差し入れた。そして舌を拭い去るようにしたその手を自らの口元へ持っていく。それから人差し指だけを嘗めとった。思わず目を逸らす。良ちゃん何よ、照れちゃったの?と姉さんの揶揄うような口調に首を振ると、扉の方に立つ人影が目に入った。
「おい、小桜さん、ちょっといいかい。」
「山田さん、どうなさったの?」
 口紅と食紅で真っ赤に染まった唇を拭って姉さんは笑って入口の方を見た。申し訳なさそうな様子で、復員服の男が立っていた。痩せこけてはいるが、なかなか精悍な顔立ちをしている。真っすぐな光を目にたたえていた。彼は私を見て目を丸くした。小さな子供が居て驚いたのと、小桜さんの部屋に居て、三太郎さんに睨まれないお客は珍しかったのだと、後から山田さんは私に話した。山田さんというのは、後の見世物の傷痍軍人のような金を集めたら立って歩くような偽物ではなく、本当に南方からの帰還だったという。もうだいぶ年だろう。今生きではいまい。
「おや、お客さんか?」
「ええ、良ちゃんよ。こないだ見世物見てった子なの」
「そうか、良坊、自分は山田。アコーディオン引いてただろ。」
 にこりと笑いかけられて、私は彼について思い当たった。アコーディオン弾きの山田太郎さん。足元を見れば確かに片足は木だ。だが、物悲しいあの軍人の姿は、今の男性からは想像がつきにくかった。
「こんにちは」
 と、手をついてお辞儀をすると向こうも慌てて頭を下げてきた。
「おおこんにちは。もう秋も近いのに、今日も暑いねえ」
 山田と名乗った彼は机の上の飲み残しを見て微笑んだ。
「良いもの飲んでるね、赤は小桜さんによく似合う」
 言われて小桜姉さんの顔がほころんだ。そうかしら、と高い声ではしゃぐ姉さんを尻目に三太郎が立ち上がって部屋を出ていこうとする。三太郎、と山田さんが声をかけた。
「何です。」
「今日夜一杯どうだ?」
「山田さんの奢りならね。あと小桜は白も似合う。」
 そう言って振り向かず三太郎兄さんは部屋を出た。山田さんは一座の人間の中では珍しく、兄さんに積極的に話しかける人だった。兄さんはなかなか酒が強いので山田さんは気に入っていたらしい。かなり呑んでいたそうだ。小桜さんは弱いようだった。未成年飲酒について当時はそんなに五月蠅くなかったものだった。流石に私に飲ませるようなことは、彼らはしなかったが。
「ははっ、ほんとあいつは可愛いやつだ。ああいう目をした餓鬼は嫌いじゃない。同期に居たはねっかえりを思い出す。」
 茣蓙に猫のように寝そべりながら小桜姉さんはあくびをひとつした。
「お酒はほどほどにしなさいね、あなた方、酔うと面倒なんだもの……三太郎さんたらいきなり出てっちゃうんだから。山田さんは何の御用なの?」
「ああ、酒についてはすまん。ヤマさんが食紅を探してていたんだが、もう三太郎のやつが戻しに行ったね。ちょっと拝借した程度だから叱られることもないだろうし、ほら、血があるように見せかけるのに…」
 言いかけて山田さんはこちらを見た。それからバツが悪そうに、こんな余所の子供に、見世物の裏側とか事情とか見せちゃっていいのかね、と後頭部をぐしぐし掻きながら呟いた。
「良いのよ、子供の方がほんとのことは判るのよ。」
 姉さんのしんみりとしたその呟きに、なるほど、と山田さんは頷いた。
「そうかもしれないね、俺は子供を育てられず置いて戦地へ行ったから、詳しいとこは判らないけど。君はどこの子だい?」
 山田さんのにこやかな問いかけには、指をこすり合わせながら姉さんが答える。
「良ちゃんはね、これがびっくり興行の子でも香具師の子でも家出少年でもなくって、お祭りの見世物のお客さんで、あたしたちのことが気になっておっかけてきちゃったのよ、ねぇ?」
「…そりゃあ、また変わったことで。」 
 アコーディオン弾きの声色に驚きと僅かな侮蔑の様なものを感じた気がして、私は耳を赤くしてうつむいた。自分は興味本位でここにいる。それは間違いない。あの裸電球と妙に蒸し暑い空気とびろうどのカーテンの煤けた板張りの舞台を見て、今その太夫たちと話していて、それで彼らの住む領域へ入れてもらっている。それが特異であることを理屈ではなく感覚で、子供心に理解はしていた。足元の御座の黄ばみが急に黒ずんで見えた。
「……坊や、あまり遅くなるといけないよ。君のご両親に心配されて騒がれると、うちとしちゃ商売がしにくいのでね。」
「山田さん、」
 口を尖らせた姉さんに対して、彼は毅然とした様子で言い放った。
「小桜さん、こういうことはちゃんと言っておかなくてはいけないよ、互いのためだ。」
 更に何かを言おうとした姉さんは、私の姿を見て口をつぐんだ。私は拳を握りしめ、真っすぐにアコーディオン弾きを見つめていた。認めてもらおうと、あの時は一生懸命だった。大人になってから、数人の

や、そういった方々に話を聞こうとしたことがあったが、私の様なよそものが、興味本位の人間が彼らのテリトリーに入れられた事は本当に珍しい事だったのだと思い知った。色々甘かったのだ。子供だからこそ関わらせるまいとも、思ってくれたのだろう。今でも甘いのだろう。多分。
「…僕が、ここに来ると皆の迷惑ですか」
 山田さんは少し顔を緩めて、私の頭を撫でた。節くれだった、厚みのある手だった。
「ごめんよ、悪かったな、坊。おじさんついきつくあたってしまった。」
「いいえ、いいんです。」
 そう言って首を振ると、困ったように後頭部を触りながら山田さんは腰を下ろした。
「坊は小学生かい?」
「はい、」
「そうか。見たところお前のお父さんは良いとこの人だろう。お前は一生懸命勉強して、立派な大人になってくれよ。」
 真剣な眼差しに私は気おされながら頷いた。小桜ねえさんはそんな様子を、頸を傾げて見つめていたが、彼に私への害意はないと分かると笑いながら茶々を入れた。
「なぁに、山田さん。そんなに真面目なお話をなさって」
「いや、自分も年を取ったと思いますが、何というかね、戦争へ行ってこうなって、飢えて死んだ人間を沢山見て、それから、何もかも色々変わっちまったってのに、学問に縁のなくなってしまった人間からすると、今の学ぶことのできる人達は羨ましいものだし、頑張って欲しいと思うものなのだよ。といっても坊やくらいの年頃じゃ判らないだろうなぁ。俺の子も、生きてれば坊ちゃんくらいなのかな、どこに行っちまったんだか……おい、精いっぱい生きろよ。」
 山田さんは、ばしばしと背中を叩きながら説教じみた事をつらつらと述べ始める。なんだか変な事になったと思いながら私は頷いた。
「三太郎も満州引揚げだったか?あいつは露助の合いの子だったから、色々苦労したろう。戦争孤児も家出少年も、皆闇市やらなんやらへ集まってきたもんだ……小桜さんの事も坊のことも可愛くてしかたないんだぞあれは。仲良くしてやってくれ。ただ、お家の人にはばれないでくれよ、今の世も色々五月蠅いのさ。生きにくい世になったもんだよ。天皇陛下万歳、七生報国、一億玉砕から一気に自由だ経済成長だなんだ、忙しいねえ、まぁどの時代も生きるのは大変だわな。どうなんのかね、これから。良いようになるといいね。」
 肩を組まれ、煙草と焼酎の香りが服からした。
「日本はこれから頑張っていい国になりましょうって僕学校で習ったよ。日本の国は戦争をしません、人の自由は奪われてはなりません、そうやって先生は言っていた。」
 私の言葉に、アコーディオン弾きの傷痍軍人の口元には寂しげな笑みが浮かんだ。何か、自分は間違ったことを言ったのだろうかと、またきまりが悪くなった。小桜姉さんは、くしで髪の毛を解きながら、ひゅう、と口笛を吹いた。
「ところがねぇ良ちゃん、その

とか

とかが大好きな方々は割と昔から、あたしらのお仕事を取ろうとしているのよ。見世物は可愛そうなんですって。あたしのこと可哀想だと思う?」
 にやにやと笑い、猫のように顎を動かした小桜姉さんの問いに、私は目を逸らして、手を背中の後ろへ回した。
「…最初は、ただ吃驚した。」
 恐る恐る言葉を溢す。
「母さんは見世物なんて可愛そう、父さんは悪趣味だって言う。僕は──小桜姐さんや、興行の皆さんみたいな人がいるのを知らなかったから、知りたいと思ったし、なにより姐さんは楽しそうで、綺麗だから、見世物辞めたら皆が見られなくなるから勿体ないよ。」
 あの答えは、正しかったのだろうか。今でも思う。小桜さんは『可哀想』な人ではあったのだ。でも。そんな言葉は彼女は望んでいないだろう。不自由でも、悔しくても、何でも。立派に生きていた人だったと思う。
 櫛を上下する手を止めて、暫く姉さんは目を丸くして私を見つめていた。やがてくすりと笑い、ね、おかしいでしょうこういった子なのよ、と傷痍軍人に呼びかけた。彼は眩しそうに目を細めて嗤ってくれた。
「……今度こっちにも遊びに来な、坊。」
 帰りの道で、寂し気な歌を聞いた。ところ変われど変わらぬものは、人の情の袖時雨……。
 変わるものだ。社会も、人間も、私も。
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