はざまの会話 其の弐

文字数 2,440文字

 ああ、お久しぶりですかな、お巡りさん。どうかされましたか?また喧嘩?それとも、何か聞きたい事でも……ああ、はい、会田興行のところの三太郎……は、暫く逢えていません。身元ですか。彼は……そうですね、いつ頃でしたか、まだ本当に終戦間もないころでした。寺の境内の無縁仏の横にある階段に、一人の少年が座り込んで居ました。昨日の昼からずっと居たのだろうか。そう思って、その子供を見やりました。赤茶けた髪に、細長い手足。汚れた服。パン助の牧子が連れていた浮浪児だという事は覚えていました。彼女は、戦争未亡人でしたな。夫を兵隊に取られ、息子を満州で亡くしたという女でした。慰霊碑と仏に手を合わせに来る彼女に手を引かれて、偶に彼は此処に来ていました。
 しかし彼はそんな彼女を尻目に、自分は頑なに手を合わせず、寧ろ睨むように仏像を見ている子でした。言葉をかけた事は数度あるが、彼は押し黙っていました。話せないのだろうかとも思い、それか耳が聞こえないのかもしれないとも思い、あの時も駄目元で声をかけたのです。
 ところが、帰ってきたのは異国の言葉でした。おそらく、米軍と、身売りの女の子供でしょうかね。戸籍が有るかすら、判りませんよ。さて困ったと頭を抱えました。牧子は、どうしたのだ、そう尋ねた私に、彼は急に顔をあげて答えました。
「ねえ、和尚さん。あの人は死んだよ。」と。
 言葉は話せたのか。そう思いました。牧子は優しい女でした。心労がたたったか、梅毒にでもなったのか……最近姿が見えないので心配していたのだが、死んでしまったのか。
「あんなに祈ってて──死んだ。酷かった。痛がってた。痩せて骨と皮だけになって、もう楽にしてくれと懇願して──知り合い、妹さんが殺してやってた。やっぱり、神様なんて嘘だ。」
 私は彼の側に腰をおろしました。そして、花を備えてやれと告げました。そんな行為に意味はあるかと聞く彼に、あるといえばある、ないといえばない。そう答えました。神様なんて居ないと私が言えば、彼は此方をにらみました。
「そんなこと言うのか、和尚も祈ってるくせに」
 だから彼は私の事もいちいち睨んでいたのかと合点がいきましたが──そもそも此処は寺です。仏教は絶対唯一無二の神や永遠の愛など語りません。──この世はあるがまま諦めろ、辛いことは多い、さっさと悟れるようにしろ。釈迦が解いているのはそんなことだと、私は彼に告げました。
 彼は、世界には神様や何か偉い人がいて、自分が辛いのはすべて、神様への祈りが足りないからなのだと思っていたのでしょうね。あれだけ祈っていた母様ですら、ある日泣き叫んで狂ってしまったのだから、自分が幾ら努力しても苦痛や悲しみから抜け出せないのは当たり前だと。そして彼は、そんな神を憎んでいたのではないでしょうか。自分の行いが悪いから母や牧子が死んだのだ。なら自分を罰せばいいだろう。そう思いながら階段に座っていたのかもしれません。自分は消えるべきなのではないか、それをずっとどこかで考えている、哀れな子供でした。
 私は、様々な家出少年や孤児や捨て子も見てきました。皆それぞれ思うところを色々抱えています。その気持ちは私にもよく解ります。ねえ、お巡りさん。善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや。宗派は異なりますが。良く言うたものです。しかし、だからこそ、私は彼を叱りました。
「世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在している。少し何かが違えば、全ては変わる。この世に変わらないものはない。良いか──生きることは苦に満ちている。それは、あらがいようのない真理だ。だから、生きることが苦しいのは当たり前だ。お前だけに限ったことではない、甘えるな。」
 愚僧には大したことは言えませんが──。可愛がってくれた女が死んでも、うまいものはうまいだろう。生きているのであれば腹は減る。食らえなくなったら死ね。彼にはまだ少し難しかったかもしれませんな。お前を生かそうとしてくれた牧子が居てくれたから、お前は今私と話している。あまり色々なことに囚われるな。そう言い放つと、彼は、自分は生きていたほうが良いと思うかと訪ねてきました。 
 良いも悪いも無い、お前の生き死に如きに。そう答えると彼は少し落胆したようでした。でもお前は私から飲み物を受け取った。それは生きたいということなのだ。お前もやがて誰かを生かせるかもしれない。反対に殺すかもしれない。だが未来のそれを心配しすぎても仕方無い。今お前は生きている、それでいいではないか。
 そう告げると、彼は少し考えるようにしたあと、放り投げた花を拾って無縁仏に備えに行きました。
 彼と一番初めに言葉を交わしたのはその時です。ええ。
 ……あいつへの、時間稼ぎや庇いだてをしていないか、って?
 まさか。それに、三太郎は確かに、この寺によく来ておりましたが──金欲しさに、やくざと色々もめごと起こして、海に捨てられたとか、山に埋められたとか聞きました。どのみち、最近はとんと寺へは見えませんでした。あいつがうろついていたころ……終戦間際や終戦後に沢山いた孤児はもう、大きくなって皆寺に来なくなりましたな。貰われていったり、死んだり、孤児院行ったり、やくざになったり、てきやになったり、駄目になったり、まっとうになったり。
 そもそも、人間自体があまり寺に来なくなり……皇祖皇宗が人間を宣言し、まぁ日本人から神仏や魑魅魍魎は抜けてしまいましたかね。諸行無常。人の世はあまりにも無情。南無釈迦牟尼仏。
 ……私はいつからこの寺に居るのか、と?
 さぁ、歳を取るとそんなことは忘れてしまいます……でも、そうですね、小さい頃の貴方も覚えておりますよ。よく天神様のところを走り回っては膝やら腕やら、擦り傷を作っていましたね。

……まさか、貴方が会っていたのは先代でしょう。
 坊主は皆、髪もなければ格好も同じですからね。気にしなさるな。
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