私とクリームソーダと (語:秋元蓮)

文字数 3,675文字

 後日。私は古い喫茶店の前に立っていた。間老人から伝えられたその店は山手線の某駅の近くの『赤城』という店名であり、古めいた煉瓦作りの建物の地下一階にあった。木製ではあるが重厚感をもつ戸を押して店内へ足を踏み入れた。店内にはクラシックのような音楽が流れ、オレンジ色のシャンデリアの明かりが店内を照らしていた。
 何名様ですか、と白いエプロンを身に着けた店員に尋ねられ、店内を伺う。柱の横の席が隣に人が来ないので良く居るのだと言っていた彼は、案の定白い柱の横のテーブルに座っていた。私の視線を感じたか、間さんは顔を上げこちらを向いた。皺だらけの目元がにこやかに細められ、私に軽く右手を挙げた。店員が察したのか、お待ち合わせですか、どうぞ。と声を掛けられる。
「間さん、こんにちは」
「ええ、ようこそおいでくださいました。」
 店内には人の姿はあまり無く、シャンデリアのような電球が光っている。隅の方までは光は届かず闇が残っていた。示された間老人の前の革張りのように見える椅子に腰を下ろした。柔らかい。意外と弾むが、心地よい反発だった。
「何を頼みますか?」
「そうですね…」
 革張りの表紙に挟まっている紙に書かれた飲みものを眺める。昭和レトロな喫茶店、といったところだろうか。そういえば、何故昭和はレトロで、大正はロマンと言われるのだろうか。調べたが、いまいち判らなかった。平成の今には懐かしいとされる雰囲気。そのうち時代が移ろえば、平成は何と言われるのだろうか。そんなことを考えながら、間さんを見る。
 彼とは屋外で話をすることが多かったため、こうやって二人店内に居るのは妙な心持である。ナポリタンやサンドウィッチ、コーヒーフロートやクリームソーダ、レモンティーなど、お決まりのメニューが並んでいる。
「クリームソーダが飲みたいです。」
 老人は僅かに口元を緩めた。私が怪訝に思って見つめると、彼は肩を竦めた。
「いえ、昔から年頃の娘さんや子供には人気のようですね。」
「そうですね。お好きでしたか?」
「知り合いの姐さんに、一度貰った記憶がございます。あとは小桜も好きでした。」
 暫くして店員が、私の注文したクリームソーダと、彼が頼んだレモンティーを運んできた。
「貴方とこうしてお会いするのは何だか、妙です。本来なら、こうはなっていなかった。」
 じっと私の顔を眺めながら、静かに老人は呟いた。私も、祖父とまではいかないが、父よりだいぶ年の離れた男性とこのように話すことはない。
「そうですね。読ませていただけますか?その、小屋のお話。」
「……気が早いですね。」
 そう言いながら、彼は横の手持ち鞄から、古びたノートを取り出した。表紙からしてだいぶ黄ばんでいる、B5サイズと呼ばれる大きさのものだ。
「……これが?」
「お読みいただけますか。お話したものです。」
 彼は、一枚目を捲った。  

 ◇◇

「……すっかり溶けてしまいましたね。」
 間老人に机の上のグラスを指差され、私はふと我に返った。夢中になり読んでいたノートから顔を上げる。半分ほどしか飲んでいなかった器の中では、氷の透明とアイスクリームの白とメロンソーダの緑とが溶け合って濁っている。
「最初の見た目は綺麗ですが、溶け残りや飲み残しは汚いものです。後に取っておこうと思っても、美味しいうちに飲み干しておくのが吉ですよ。」
 それはクリームソーダの話だろうか。それとも別の何かの話だろうか。薄ぼんやりとした店内は、シャンデリアの明かりの照らさない隅の影の方に何かが潜んでいるような気持になる。それこそ照らされない、残り物のような何か。
 小屋の人たち。牛女、傷痍軍人、串刺し、悪食、タコ娘、蛇女、狼男……。間老人の顔を見るが、彼は少し疲れたように私の手元を眺めていた。
「ちょくちょく色んな人が出てくるでしょうが、みんなそんな大した奴じゃありませんよ、三太郎の馬鹿と、小桜と、ヤマさんと……ああ、あと軍人の山田さんかな、そのうち出てきます。」
 手元にあるノートは、書かれた順序や年代も違うのだろう、筆跡も年齢とともに少しは変わっているようだし、鉛筆だったりボールペンだったりで、きっと備忘録のようなものなのだろう。そう思いながら尋ねる。
「……山田さんという方は、本当の傷痍軍人だったのですか?」
「ええ、詳しく彼は語りたがりませんでしたが──南方の生き残りで、たしか少尉だったそうです。陸軍上等兵風の格好をしていたのは、彼の部下の遺品だそうです。後でよくよく聞くと上等兵ではなく曹長でした。戦争は良い人間も悪い人間も大勢死なせてしまった。とぼやいていました。南方で周辺警戒の際に銃弾を食らい、お前は若くて頭が堅いと揶揄われていた曹長にかばわれて片足を砕かれたところを、共に敵の捕虜になったそうです。しかしその曹長は両足と背中をやられており、何日か苦しんだのち亡くなったそうです。その方の苗字が山田だったということで芸名を山田い……いえ、太郎としたとか。」
 間老人は手元の紅茶を一口飲んだ。口元に運んで香りを嗅いだ、と言った方が正しいような飲み方だった。不味かったのだろうか、温いのが嫌だったのか。それとも珈琲派なのだろうか。
「その山田曹長は、死ぬ前の何日かで彼に言っていたそうです。これが正しいと思っているうちは間違っていると。貴方はまだ見るべきものがある若さであって、思想や信念はまだ借り物だと。貴方の命の使いどころはここではないからどうか捕虜として生き恥をさらしてくれと。」
「……生きて虜囚の辱めを受けず、の日本兵には珍しい発想ですね。」
 目を閉じながら彼は深く頷いた。
「ええ、終戦直後に自分の家族、死んだ部下の家族や知人を訪ねても、行方不明も多く、運よく逢えたとしても死に方について尋ねられ、飢えて死んだとも、流れ弾や熱病ともいえず、名誉の戦死を遂げましたと武勇伝を考え伝えたそうです。中には家族を返せとか、なぜおまえが生きているというような声や目もあり、戦後の物不足、実家も空襲で焼け野原、家族はどこへいったのか行方不明、食うのもままならず死のうと思ったそうです。」
 残されたものも残したものも、死んだ者も死ななかったものも辛い。それが戦争なのだろうか。私達の世代は戦争を知らないが、彼らはどんな気持ちで戦っていたのだろう。そして、どんな気持ちでこの戦後六十年ばかりを過ごしてきたのだろう。
「そんなときに、山田曹長の生き恥晒せと言う言葉を思い出し、よしもう思い切り、恥さらしになろうとアコーディオンを手に取ったそうです。上野のあたりで軍歌を弾いていてヤマさんに誘われ一座の仲間入りをしたのだと、酒瓶片手に酔うと毎回この話をされたものでした。あの当時にしてはいい酒を飲ませながら、お前も自分の命の使いどころは考えろ、大事なものは手放すなとね……」
 小屋には──見世物の周縁には色々な人がいたものです。と老人は呟いた。逆関節の小桜大夫、謎めいた三太郎、アコーディオン引きの傷痍軍人山田太郎、粗野な男源太と、その姉であり一座の母であるヤマさんと呼ばれる女性。これまでに見聞きしたところだとそんなところだろう。
 しかし、昔の事をよくも間氏のような高齢になってまではっきりと覚えているものだと思う。それだけ彼らが印象深かったのだろうか。記録のおかげだろうか。それとも子供のころの記憶の方が、人は鮮明に覚えていたりするものだったのだろうか。そう考えながら、私は彼が、自らの手をきつく握りしめているのに気が付いた。左手の上に右手を重ね、爪が食い込むほどに。
「……間さん?」
「はい、何でしょう?」
 何でもないような顔をしてこちらを見つめ返され、私は多少面食らった。無意識なのだろうか。私の目線に気が付いたのか組まれた手が緩んだ。何となく触れない方が良いような心持がして、私は別の事を訪ねる。
「いえ……私が読んでいるのを眺めていて、退屈ではありませんか?」
 彼は目を瞬かせた後、息を漏らすように笑った。そんなことを聞かれるとは思ってもいなかったようだった。笑うと雰囲気が一気に柔らかくなる。
「寧ろ……いえ、わざわざお呼びしまして申し訳ない。此方にはお構いなく」
「手記を書かれた人の前で読むのも、何だか妙ですね。」
 私の言葉に、今度こそ彼は声をあげて笑った。はは、違いねえ。そう言いながら立ちあがり鞄を掴む。
「そう言われてしまえば──気恥ずかしくはなりますね。その薄っぺらいのは一冊目です、お預けしましょう。私はどうせ青空骨董市あたりをうろついておりますから、暇なときに返してくだされば結構です。」
 早口でそう言うなり、間さんは伝票の挟んであるバインダーに一万円札をさっと挟む。呆気にとられている私を尻目に、出口へ向かった。慌てて、お金、と声をかける。
「何かと物入りでしょう、お釣りはどうぞ。」
 そう言って彼は扉を開き出て行った。私は荷物をまとめ追いかけるが、彼の背はもう階段の上にあった。ありがとうございますと叫ぶ。彼は振り返らずに片手を上げた。
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