『良哉』の手記 その四

文字数 4,158文字

 三太郎兄さんは、どういうわけだか良く、私の家の話を聞いてくれた。私の父は、母の家である家に婿入りした役人で、大変厳しい人であった。勉学に励み、娯楽や芸人なんぞにうつつを抜かすなと叱られるのが必須である事を解っていたから、父母には黙って小屋へ行っていた。(まぁ、妾が居たとか居ないとかいう話もあった、当時珍しい事ではないし、母は真っ直ぐ父を愛していた。)
 そもそも父は忙しく滅多に家にはいなかった。母は良く、祖父の手伝いやらなんやらで自分の父のもとに行っていたため、手伝いの人がよく来ていたが、割と良いように自由にさせてくれた。自分がさぼりたいだけだったかもしれないが。家庭教師は煩かったが、勉強は幸いにしてそこそこは出来た為に、友人の家へ遊びに行くと言ってうちを出ても、誰にも得に叱られることもなかった。
 小桜ねえさんが寝入っている時に、三太郎兄さんに対して母親の文句を言った事がある。
「最近何処をほっつき歩いてんだ、他所の家にあまり遊びに行きすぎるなって叱られたんだ。好きにさせろい。」
 片手で彫刻刀を玩びながら青年は笑った。今日は何やら木を彫っている。
「そうかい、見世物小屋のろくでもない人でなしに誑かされているって言っとくんだぜ。」
「言わないさ‼」
 私の剣幕に押され、三太郎兄さんは両手をあげた。人でなしでも、ろくでなしでもない。此処に来るのは何も悪い事ではない。そう捲し立てると、青年の瞳が苦しそうに細められた。
「悪かった。そう怒るな。」
「三太郎兄さんはろくでなしでも人でなしでもない、」
 早口でさらに続けようとする自分を三太郎兄さんは手で制した。
「そりゃあ有難い。だがね、自分は大概ろくでもないぜ。悪い事も、汚い事もやってきちまった。酒も煙草も薬も──大概狂ってるんだ。うん。お前の親が心配する気持ちも解る。」
 少し寂しそうに笑って、私の頭を撫でてくれたた。不服そうに見上げる自分に気が付かないふりをして、彼は話を続ける。
「だからな、今は良いがお前さんはいつか帰らなきゃいけないぜ。そっち側にな。お前が生きるのはこっちじゃない。」
「それは──」
「此処はばけもんの巣窟だ。」
 にいさんは吐き捨てるように言った。その一言に口を噤む。色素の薄い鋭い瞳は、虚空を刺すように見つめていた。
「居なくなる為に居るんだよ。此処の人間は皆。居なくていいと思われた人間が、消えたかった人間がなんとか居る為に作ったのがこちら側だ。」
 居なくなる為に居る。その言葉は、私の心に深く刺さった。彼は、矢張り消失したかったのだろうか。それとも、消えたくなかったのだろうか。そんな人たちは、沢山いたのだ。いや、いるか。今でも、見えにくくなっただけで。
 茣蓙の上から立ち上がると、三太郎兄さんは戸に手をかけた。黒いシャツに色の白い肌、灰色の狼のような瞳、赤みがかかった髪。それらが豆電球に照らされ陰影を作っている。手を差し出され私は何故かぞくり、とした。兄さんの手が首元を軽く掠める。首を傾げると、彼は短く息を吐き出した。その手がそのまま肩に置かれる。
「家まで送ってやるよ。もう日も暮れた。もう少し経てば──興行が始まる。」
「うん。」
 こくこくと首を縦に振る自分に、兄さんはまた軽く微笑みを浮かべた。
「お前は素直な良い子だ。きっと、良い両親に育てられたんだろう。」
「…三太郎兄さんの、親は、」
 聞いても良い問いだったのだろうか。それを口にしてから、困ったような、何かを堪えるような眼を見て慌てて目を伏せた。考えているように思って自分はまだ子供であった。三太郎兄さんは黙って戸を開ける。小走りでその後を着いていくと、なるほど辺りは確かに暗く、通る人間も堅気ではなさそうに見受けられる人間が増えて来ていた。その闇をぶらぶらと何でもないように歩きながら、彼は話しだした。
「……自分が此処に来る前、いや前の前の前か。満州辺りに居たのを知ってるか?」
 黙って首を振る。闇の中、ほのかに照らされる青年の顔は、普段より憂いを帯びて見えた。
「母はね。敬虔なクリスチャンだったんだよ。父は仕事で大陸に渡り、色々なとことよろしくやってたらしい。だからこの暮らしはきっと俺の性に合うのさ。故郷は旅の中、ってね。よく、母は神様の話をしてきたもんだった。」

 ──むかし、イエス様が起こした奇跡のお話をしてあげましょう。カナというところで、ある人の結構式がありました。ごちそうもぶどう酒もたくさん用意されました。ところがこの結婚式で、ぶどう酒が足りなくなってしまいました。ぶどう酒がなくなるというのは、お客さまに対する非礼とされていたのです。花婿や家族はあせってしまいました。その時、一緒に招かれていたイエス様のお母さまであるマリヤ様が、イエス様にこっそりとぶどう酒が足りないことを伝えました。  
 するとイエスさまは、宴会の手伝いの人たちに6つの水がめに「水を満たしなさい」と、妙な事をおっしゃいました。そして、その水をくんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。と。手伝いの人がそのとおりにすると、なんとその水が、それまで出していたよりもずっと良い、上等なぶどう酒に変わっていたのでした。ね、凄いでしょう?
 ぶどう酒はイエス様の血でもあるのよ。貴方にはまだ難しいかもしれないわ。でも、神さまのお力によってただの水が葡萄酒に変わるという奇跡が起きたの。結婚とはそれほど素晴らしいもので、祝福されるべきものなのよ。神の大きな恵みには、人間の努力で応えなければならないのよ。
 愛とは幻ではなく、私たちがどんなに弱く、捻じくれていても、神様は私達を見ていてくださるのよ。隣人を愛し、人を愛しなさい。神様に一生懸命祈りなさい。嘘をついては駄目よ。嘘をつけば罰が当たるの。大変なことがあっても、神様は見ていてくださるの。祈りによって、人は救われるのよ。いつか貴方に好きな人が出来たら判るわ。ねえ、今は神様に祈りましょう。

「でも、母はいつしか笑わなくなった。ただひたすら魂の抜けた人形のように、寝台の上で宙を見ているだけになっちまった。偶に目覚めれば錯乱して、もう駄目だった。そんな母を置いて、親父はどっか行っちまった。いや、置いてかれたからおかしくなったのか……他所に女でも出来たのか、スパイだったのか、終戦察して逃げたのか知らねえ。自分は牧子さんという人に助けられて日本へ連れてこられた。子供に逆らう術なんかない。なすが儘連れてかれるだけさ。九州のどっかに引き上げ船で行って、そっから牧子さんに連れられて東京に来た。上野で姐さんはパン助やって、俺育ててくれてね。戦争孤児や家出少年らとつるんで──生きる為に色々やって、此処に来た。親父はね──優秀な男だからきっと、どっかで上手く出世してんだろうよ。」
 呟くように三太郎兄さんは話を終えた。彼の胸中には、北の国の凍て付いた地に一人、虚ろな眼で佇む過去の母の姿があったのかもしれない。それから、戦後の焼け野原の東京で、孤児院に集められた子供たちや、飢えて死んだ子供たち、盗みを働き殴られた子供たち、やくざの手下や、売春婦の客引きをした子供たち。それらの話を母から聞いたことがある。
 母も空襲で三姉妹逃げまどい、片方の妹とはぐれてしまいそれっきりだったと言っていた。年の若い売春婦を見ると、時々彼女なのではないかと思い辛かったと、いつだか零していた。
 昔はそんなことがあったのだ。終戦後に生まれた自分には判らない話である。三太郎にいさんも、泣きじゃくった子供のころがあったのだろうか。彼は泣き喚くよりも黙って膝を抱えていそうな印象だけれど。
「僕のお父さんも露西亜の方に少しいた事があるんだって。チュウザイカン?だかやっていたのだって。でも、寒くて嫌な所だって言っていた。」
 自らの父の事を思い出した私は、三太郎兄さんの意外な話に驚いた。父の話はあまり聞かないが、もしかすると彼の父と自分の父とが一緒に働いていた事もあったのかもしれない、そう思うと人の縁とは不思議なものだと、その時は思った。
「そうだろうな。満州やソ連は。特にあの時代の人にとっちゃそうだろうよ。希望にあふれた新天地が、自分らのものじゃねえことに気づかされてな……。大陸の風をお前は知らないだろう。吹き荒ぶ寒さも。」
「うん知らない。」
 それから、三太郎兄さんを見て、あ。と小さく声を漏らす。訝しげに眉根を寄せた兄さんに、混血児だから髪と目の色が違うのかと言う。
「ああ、そうだね。自分の母は向こうの、満州ですらねえな、ロシアの女だ。この瞳は生来のもんさ。髪は黒に染めたが、最近また染め直さねえとな。コサックの踊り子に宙返りなんかを──ほんとに餓鬼の頃そこで習った。体一つでできるって中華団だかバレエだかの踊り子の奴にもなんか教わったっけ。まあそれはこっちでも役に立つ。どれも少し噛じっただけの──半端もんだがね。まぁ

には充分だ。見世物口上も脅し文句も猥雑な言葉も符丁も色々身についたってのによ、自分はまだ僅かに覚えてるんだ。あの歌うような言語の挨拶を。滑らかな低音で紡がれた、母の言葉やらを。」
 まあ、生憎神に祈る気は全く無いがね。見世物なんかやってりゃ、神に会っては神を殺し、仏に会っては仏を騙し、羅漢に会っては羅漢を脅せ、だ。はは。にいさんはそう結んだ。
 彼は良く、仏教説話やらなんやらにちなんだ言葉を口にした。いつかそれについて問えば苦虫を嚙み潰したような顔で、世話になった坊主のせいだと呟いていた。
 丁度、私達は大通りに出たところだった。辺りは一気に電灯の光が増えた。
「どっちだい、家。」
「右曲って真っ直ぐ行って、区役所のとこを左。」
 じゃ一人で帰れるな、そう言って一歩路地裏に青年は下った。電灯の光は裏路地まではあまり照らさない。お互いの立ち位置から目が合う。自分の居る側ばかり地面が明るいのを安心したようにも、寂しいようにも思った。
「今度、蛇、見してやるよ。」
 私の心境を察してか知らずにか、軽薄な調子で三太郎兄さんはそう言って、闇の中へ融けた。その後姿を暫く探したが、やがて私は大通りに向き直り、電灯の光に目を細め我が家へと走り出した。

  







 




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