『良哉』の手記 その五

文字数 7,908文字

 ある日、今日も遊ぼうと小屋を訪ねると、三太郎さんの調子が悪いという日があった。
「……珍しいでしょ、馬鹿は風邪引かないのに。」
 小桜さんは笑いながら、それでも心配そうに三太郎さんの額に貼り付いた髪を拭う。
「僕も泊まって観ていてあげようか、今日母さんも父さんも仕事で、お手伝いさんは帰らしてからここへ来たんだ、」
 あら、悪い子ね。そう微笑みながら、私の頬をまたつねる。
「でも、朝早く起きられずに帰れなかったら、貴方のお家が心配するから、ここへは泊まらずお帰りなさい──あ、じゃ興行終るまでこの人みてくれる?帰りは暗くなるから、山田さん──もだめね、若い衆に送らせるわ。」
「……馬鹿言うな、危ねえだろ、帰らせろ」
 咳込みながら、三太郎さんの声がして、小桜さんが眉根を寄せた。
「それもそうね、良ちゃんごめんね、また明日。」
 そのまま部屋を追い出された。次の日も友達と遊ぶと言って家を出て、小屋の方へ潜り込んだ。番人が居た記憶など無いが、おそらく居たのだろう。幼い私は気にも止めなかったし、覚えてすらいないが、もはや毎度来ていた為に素通り出来た。以前よりも毛並みが伸びた、毛玉のようになった柴犬……壱号に挨拶をしてから部屋へ向かう。
 三太郎さんの部屋は、小屋関連の道具が多く、彼個人の荷物はあまり見られない。道具がごった返しているように見えるが、よくよく見ると彼なりの秩序によって整頓されている。寝ているようで、他の人の姿も見当たらなかったので、暫く部屋の隅で彼が起きるのを待つか、小桜さんが来るのを待とうと思った。
 何時の間にかうたた寝をしてしまった私は、三太郎さんの呻き声で目を覚ました。声を掛けようと布団に近寄ろうとして、何やら──彼の周りに纏わりつく、黒い靄の様なものが見えた。
 ──悪霊だ!
 ──幼い私は何故かそう思った。慌てて後退って逃げようとして──踏み留まって、三太郎さんの近くに駆け寄り、肩を揺する。
「三太郎にいさん、起きて!」
 ばち、と彼の灰色の目が開き、上体をがばり、と起こす。その勢いの速さに私は軽く後ろに飛ばされた。きょろきょろと辺りを見渡していた三太郎さんは、やがて、自らの肩を抱いて俯いた。息が粗い。肩がわずかに震えている。
「……さ、三太郎さん?」
 恐る恐る手を延ばすと、ぴしゃりと跳ね除けられる。私は驚き、固まった。彼が顔を上げ、灰色が私を捉えた。あ、と彼が口元を押さえた。
「……良坊、来てたのか、悪い……おい、どうした?泣いてんのか?」
 私は、手を払われた悔しさと、先程までの恐ろしさによって涙目になって震えていた。
「にいさんが……」
 俺?と自らを指差す彼に、僕の手を叩いた、と泣きじゃくった記憶がある。彼は平謝りをしてきた。
「違う違う、悪かった。痛かったか?お前が嫌だったとかじゃない、反射だよ、そもそも俺は気が付いてなかったんだ、起き抜けで此処が何処か分かんなかったんだよ──嗚呼、ほら泣くなよ、悪かったって……」
 痛かったのではない。彼が──無意識下であろうと、自分を拒んだということが嫌だったのだと今なら解る。しかし当時の私は、泣いて風邪引きの三太郎さんを困らせるばかりだった。
「……うるさくして、ごめんなさい」
 暫くの後だ私が鼻声で謝ると、ようやく彼はほっとしたようにちり紙を差し出してきた。
「……うん、ほら鼻かめ、涙ふけ。小桜が帰ってきたら俺がとっちめられちまう、はははっ。」
 泣き明かして、落ち着いてから──私は漸く、彼の体調の事に思い至った。
「そうだ、三太郎にいさん、大丈夫?」
「大丈夫じゃなかったのはお前じゃねえか、この泣き虫。」
 私の頬をつねりながら呆れたようにそう言って、彼はそのまま布団に倒れ込んだ。私はそれに引き摺られて彼の上に倒れる。
「わっ⁉」
 昨日より熱は下がったようで、触れた身体はそこまで熱くはなかった。そもそも平熱が低いのだ、微熱くらいはあるかもしれない。そのまま抱きまくらのように抱えられて、私はどうしたら良いか分からず固まっていた。
「……あの、にいさん?」
「──嫌な夢を見た。」
 彼は吐き捨てるようにそう言って、私をきつく抱き締めた。彼の顔を見ようと顔を上げようとするとそれを手で押さえられる。僅かにその手が震えている気がして、困惑した。
「……大丈夫、ですか?」
「ははっ、何で急にかしこまるんだよ」
「いや、」
「……悪い、良くある。俺はたまに見る夢見が悪いんだ」
「悪霊のせいかもよ、」
 私は先程見た影の事を──言おうか言うまいか迷って、中途半端にそう告げた。しかし彼はそれを鼻で笑った。
「悪霊じゃねえよ……だいたい悪いのは、俺のせいだからね」
 私は何も言えなくなって、彼にしがみついた。あれは何だったのだろう。子供の幻覚だろうか。それとも。以前、何だか忘れたけれども、化物の怪談だか、寺だかの怖い話で脅かされたことがある。まがりまだとか、そんな。その影響だったのだろうか。
「……あったかいね、お前は。」
 頭を撫でられ、目を細める。落ちてきそうな瞼を押し留め、私は口を開いた。
「……どんな夢なの?」
「泣き虫には教えねえ」
「ええ、そんな」
「眠くなってきた、黙ってくれ。」 
「三太郎にいさん、教えてよ、悪い夢は人に話したほうが良いんだよ」
「煩い、寝かせろ。せっかくいい湯たんぽが手に入ったんだ。」
 湯たんぽ?と首を傾げ、自分が抱かれている状況に思い至り、私は藻掻いた。さほど抵抗することもなく、手の内から解放され私はごろりと床に転げた。上体を起こした三太郎さんは、床に寝転んだままの私の事を眺めながら尋ねる。
「……ゆたんぽ、お前、大きくなったら何になるんだ」
「大人になるよ」
 そうじゃねえ、と小突かれる。私は首を傾げた。
「うーん……電車は好きだから、運転手さんかなぁ、それとも、パイロットかなぁ、お巡りさんも格好いいな!」
「そうかい。お巡りさんじゃあ、俺とは仲良くしねえほうがいいね」
「え、じゃあ僕お巡りさんになるの辞めるよ」
 三太郎さんは肩をすくめて、そんな簡単に辞めんな、と笑った。
「俺はなりたいもんとか無かったからな……色々やって、何かの、誰かのたしになりゃいいかと思ってたんだが……世の中割と、自分の為に動かなきゃいけねえ事があるんだな、俺は俺にしか成れねえし、俺の事を極力考えたくねえんだよ……お前は良い大人になれそうだね。」
「僕が大きくなったら、三太郎さんより背が高くなるかな?」
「……どうだろうね、混血の割には小さいからな、俺。」
「その時は背比べしようね」
 彼は、暫く黙って私を見た。それから、ぐしゃぐしゃと私の頭をもみくちゃにした。
「──お前が大きくなる頃には、俺の事なんて覚えてねえだろうよ」
 私は、その時の三太郎さんの顔をまだ覚えている。あの人は、寂しそうな顔の──とても良く似合う人だった。だからこそ私は、彼らのことを忘れまいと思った。大人になったあとも、彼等と交流を続けるのだと、本当にそう誓ったのだ。
 その誓いは、果たせそうにないけれど。
「覚えているよ、僕。」
 この言葉は、嘘にはならなかったと思っている。
「……そっか。期待しとくぜ。」
「うん、僕覚えは良いんだよ!先生も褒めてくれた。」
 くるりと背中を丸めて起き上がる。それとは反対に、三太郎さんは布団に仰向けに寝転んで、片腕を目の上に載せた。
「お水いる?」
 そう尋ねると、ひらひらと手のひらを振られる。どちらだろうか。いらないという解釈で合っているだろうか。あっちへ行けではないと信じたい。
「俺は──割とお前を気にかけてる。」
 唐突にそう言われ、私は背筋を伸ばした。相変わらず片腕を載せたままで、表情は見えない。
「……だから、困ってることがあるなら言え。ここにもそんなに来なくていい。あと、あまり強情なのも考えものだ、友達は──大事にしとけ。」
 何のことを言われているのか解らず首を傾げていると、三太郎兄さんは部屋の端の木箱を指差した。開けていいのかと尋ねれば無言で頷く。中には私の筆箱と、上靴が入っていた。
「さ、三太郎兄さん、これ」
「用水に落ちてた。洗ったけど汚えな、悪い」
 私が、上靴と筆箱を失くしたと言ったのは、その日の二日ほど前だった。実は同級生と喧嘩になり、道端でひっくり返り取っ組み合ったときに落としたのだった。流され諦めて家に帰ったが、その大喧嘩の中には近所のお喋り大好きなキヨさんの息子が居た。そのため、噂には尾鰭も背鰭もつき──ご近所では私を含め男の子数人が殴り合いをして、一人を水で溺れかけさせるほどの酷い出来事があったのだ、ということになっていた。私達当事者は慌ててその噂を否定して周ったのだが──それを彼も聞いたのだろうか。
「──仲直りはしたよ、探してくれたの、これ。」
「祝いに貰った良いもんなんだろ」
 筆箱は父が、入学祝いで買ってくれたものだった。細かい話をよく覚えていた人だった。何処まで探してくれたのだろう。用水路とはいえ、長い上に底に沈んだものを探すのは容易ではない。ましてや冬に。
「馬鹿、お喋りしてないで寝てなさい。」
 後ろから高い声がした。小桜ねえさんが機嫌悪そうにこちらへやってくる。それから私の持っている筆箱と上靴を見て、ふうん。と呟いた。
「そういうこと。それ良ちゃんのだったのね。どこ行っているのかと思ったら子供の靴なんて持って帰ってきたから、てっきり誘拐にでも手を出したかと──冗談よ、睨むんじゃないったら。それ探して風邪ひいたのね、なんて納得がいったことも、言わないでおいてあげようかと思ったけど」
 小桜ねえさんは三太郎兄さんの顔を覗き込む。兄さんは顔ごとそっぽを向いた。
「人に心配かけるような優しさはまだまだなのよ、お馬鹿さん。あんたが居ないからあたしの仕事がうんと増えた──あぁ草臥れた。」
 こちらに目をやる小桜さんに、ごめんなさいと囁くと、彼女は黒目を瞬かせる。
「そうね、この馬鹿の自己管理は足りてないけど──良ちゃんも、自分の荷物は自分で責任持ちなさい。でも戻ってよかったわね。」
 そう言いながら、小桜さんは三太郎兄さんの布団に潜り込む。狭い、と呟く口元に粉薬を振り入れ、盛大に三太郎さんが咽る。慌てて水を差し出すと、それを飲み干してから、溜息混じりに苦言を呈した。
「病人には優しくしろよ」
「軽口叩ける元気があるなら良かったわ、ほら寝なさい、一人じゃ寝れやしないんだから」
「餓鬼じゃねえんだ、向こう行け。」
「あら、貴方あたしが横に居ない時、何て譫言を言うかご存知?」
 小桜さんの一言に、三太郎さんは片眉を動かしてから唇を噛んだ。
「……お前、日に日に嫌な女になるな」
「心配させたお返しよ。」
 三太郎さんの額に自らの額を重ね、でも熱は下がってきたわねと呟き仰向けになり、布団を肩まで被る。
「良ちゃんも一緒に寝る?この人の右隣、開いているわよ。左はあたし。」
 ぱん、と布団を叩く小桜さんに、私はにやりと笑みを浮かべて応える。
「よーし、にいさん、ゆたんぽ二つだ!」
 のそのそと潜り込めば、三太郎さんは頭を抱えた。
「狭いし、風邪が移るし、寧ろ熱くなってきやがったし……ああもう……鬱陶しい……」
 しかし、その口元はわずかに緩んでいたし、私が寒くないようにと、小桜さんは掛け布団をずらしてくれた。三太郎さんもそれを止めはしなかった。少し体を固くしていたが、疲れたのだろう、やがて眠りについた気配がした。歳を取った今だからこそ、彼の不器用さや、遣る瀬無さを図る事が出来る。人が困っているときには気にかけるくせに、自分が気にかけられると途端に狼狽える人だった。
 十数分した後、小桜さんが起き上がる気配がした。そして此方の方を窺ってくる。自分は目で起きていると応えた。
「……これは泥のように眠っているわ。良かった。偶に参ってる時は私が起きると起きるんだから。まぁ、ほかの人ならそもそもこの人は眠れやしないのだけど。」
 囁き声でそう口にしてから小桜さんは、消し忘れちゃったのよ、と部屋の灯を消した。布団から文字通り這い出て、にこにことしながら部屋を出る。私もそれに続いた。
 小桜さんの部屋に入ると、彼女は神妙な顔をしてこちらに向き直った。珍しく歯切れの悪く、あの、少し聞きたいのだけれど、と前置きをされ、暫くの沈黙の後、彼女の高い声は疑問を投げかけてきた。
「……良ちゃんは、虐められていたりするのかしら?あのお靴……」
 私は思わず笑った。確かに、この人達は私の思うよりずっと、私のことに気を揉んでくれていたらしい。
「喧嘩したんだ。それで用水に落とした。でも見つけてくれて良かった。母さんと父さんが入学祝いで買ってくれたんだ。牛革製らしい。」
「あらそうなの、良かったわ」
 小桜ねえさんは笑い、なんだ、心配して損したわ。と猫のように肩を伸ばす。
「三太郎と心配していたの、うちに来ているから悪く言われたのかしら、それとも何かあったのかしら、お家が良いなら、ご両親がこのことを知ったらお怒りになるかもしれないわ……ってね。」
 私の父も母も、私のことを可愛がってはくれたが、確かにこのことを知ったら父は怒るだろう。しかし、厳しい人ではあったが、日常生活においては、寧ろ割と父は放任的だった。(後に他所に妾が居たとも聞いていた。)私は母と、家政婦のタエさんとに世話をされて、何不自由無い子供時代を過ごしていた。贅沢だったと思う。
「……大丈夫だよ、僕強いもん。」
「ええ、知っているわ。あたし達は弱いから。」
 あたし何にも持ってないの。小桜さんはつまらなそうにそう言った。
「母さんも、父さんも居ない。一人じゃ何処にもいけない……三太郎が居てくれて良かったけど、あの子も可哀想。あたしなんかにつかまって……あの子はてきやに屋台の手伝いさせられているときに、あたしの見世物見に来て、それからこっちに来たのよ。自分も髪も目も珍しい、芸も学ぶから使ってくれってヤマさんに頭下げてね。あたしが気に入ったんですって。可愛いこと。北から来たけど全部投げ出しちゃって何も知らないっていうから、だから三太郎って名前をあげた。良く泣いているあたしを慰めてくれた。お前の母さんは生きているからいつか会えるよ、子を思わない親は無いもんだ……って。」
 小桜さんは眠っている三太郎さんの方をちらりと見た。
「あの人ほんと馬鹿よね。自分の父は行方知らず、母は死んでいるのをずっと自分が悪いと思っているんだから。たまたまそうなっただけ、誰も悪くないのに──。あたしが居ないと駄目な、可哀想で可愛い人」
 ふふふ、と小桜さんは笑う。あの二人はとても愛し合っていた──愛し合っていたという言い方は月並みかもしれないが、想い合っていた。見世物に売られてきた小桜さんと、何処にも行く宛のない三太郎さんと、年の近い二人が仲良くなるのは当然だったのだろう。異形の少女と、異国の少年。
 色々思い出すと、勝手な私の推測ではあるが、彼は女を抱かなかったのだろう。小桜さんに関してもそれは恐らく同様で。彼は戦後、孤児だった時、牧子さんという売春婦に世話になったと言っていた。だからこそ余計に。きっと。
 いつだったか、裏通りを歩いていた時に、顔の白い女性に三太郎さんが声をかけられた事がある。普段通らないところで、私の手を引き、いやに早足で歩いていた。寄ってきなよ、安くするよ……。良い子いるよ、どうだいにいさん。あの時の言葉は当時の私には分からなかったが、恐らくあのおばさんは売春婦だったのだろう。あの通りはそういうところだったのだ。そのうちの一人がいやにしつこく、三太郎さんがきつめに断った。すると、女は叫んだ。
「ケチ、童貞じゃあるまいし。あんた知っているよ、ヤマさんとこの三太郎だろ、ああ、あんたにはあの牛娘がいるからね、あたしらなんかお呼びじゃないって?毎晩鳴かせているんだろうね!」
 次の瞬間、どっ、と鈍い音がした。女の人が地面に倒れる。かかとの高い靴が脱げ、赤いスカートが砂にまみれた。三太郎さんが、女の人を殴ったのだ。私にはそれは衝撃だった。彼が人に手を上げるのも、怒鳴るのも見たことが無かったから。
「……黙れ。」
 三太郎さんは、わなわなと震えながら、その鋭い目を更に鋭くして、赤いスカートのおばさんを睨んだ。
「痛いじゃないか!」
「殺されたいか、婆。消えな。」
 おばさんは、三太郎さんの剣幕に押され、ひゅっ、と息を呑んで、さっと立ち上がって逃げるように去っていった。彼の拳はまだきつく握りしめられていて、手の平から血が流れていた。私はその手を掴んだ。
「三太郎、さん。」
 彼は何も応えず、暗い路地を見詰めている。灰色の瞳が薄暗い仄明かりを映し出し、虚ろに輝いていた。彼の周りの影がずっと濃くなった気がして、私はその手を更に強く掴んだ。
 三太郎さんはそんな風に、時々何処か遠くを睨む。本人にはその自覚は無いようだが、普段でさえ何かを悼むように、憎むように、探すように一点を見詰めていることがある。あれは頭でっかちなのよ、損よね。とは小桜さんの話だった。私は、いつかどこかに行ってしまうような気がして、そんな彼が嫌いだった。私では、彼を呼び戻すことも、支えになることも難しいだろうと、心のどこかで分かっていたからかもしれない。
 彼は暫くして、私の手に気が付いたようで、目線を私に向けた。
「……帰ろうか。」
 ぽつりとそう溢して、何事もなかったかのように歩き出す。
「にいさんも、怒るんだね。」
「……大抵の事には慣れた。耐えられる。でもな、時々こう──飲み込んだ何かがせり出してくるような、湧き上がるやつはあるんだよ。それは、なんかどうしょうもなく嫌だ。あと、怒らなきゃならねえとき、怒っちゃならねえときってのは──あるとは、思う」
 気怠そうに足を運びながら、そうぼやいていた。そんなにいさんに手を引かれながら、いつもの雑多な通りに出た。すべてのものがごちゃごちゃ存在している。

 ──あいつはあかではやるがあかだれはしねぇな。
 ──女は怖えからな──矢田と三太郎と、あとジャッキーは女は買わねえな。
 ──陰間か、噂をすれば。おい三太郎、お前そこの坊ちゃんさらって何しようってんだよ。よう坊ちゃん、恥ずかしがるなよ、怖がってんのか?ははははは、
 ──あ、がせうちのおっちゃんら、元気かよ。俺は男も女も手を出さねえったら。俺みたいなのがこれ以上増えたら困る。
 ──がりを下せば供養がいるなぁ。
 ──がりまったらそんとき考えろ、お前若いんだ。
 ──おぅ三太郎、お前は文字に明るいだろ、今度からす手伝や。
 ──いやだよ、いっつも仕事の後よーさんはきすごる。花見で勘弁……ほら行くぞ、良坊。よーさん、またな。
 ──おーう、そこの坊主もまたな!

 雑踏や寝小屋、路地裏、露店。彼と一緒に居ると良く声を掛けられた。私には判らない言葉や、怪しい男たち。煙草の煙と鋭い眼光。土埃。道路に茣蓙を引き何やら円になって話している集団。徳利。酒瓶。缶。肌色の多い女。茣蓙の上で腕に注射を打つ男。戦後暫くは、ヒロポンは合法で、中毒者も多かった──。
 私はそれらが興味深くも恐ろしくもあり、三太郎さんにしっかりしがみついていたものだった。彼は良く私を護ってくれていた。彼が居たから私はそれらの人々に飴玉やキャラメル、屋台の景品のようなものを良く貰った。三太郎さんは見世物の稼ぎは勿論、博徒や香具師の手伝いやら何やら付き合いも上手く熟していたのだろう。
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