名前が分かったところで、それに対する印象は変わらない (堀沼慎一)

文字数 6,928文字

 癖で煙草を咥えたまま歩きそうになり、老人は立ち止まって吸い殻を消し、近くの煙管に放り込む。歩き煙草が禁止だのなんだの言われ始めたのは何時からだったか、首を傾げ顎を擦った。面倒な世になったねえ。有害なのは寧ろ俺か。探し物は見付からなかった。探し人と言うべきだろうか。彼は自嘲的な笑みを浮かべ、人混みの中へ歩き出した。
「間さん」
 暫く歩いた雑踏の中でそう声をかけられ、トンビコートの老人は振り向いた。振り向いた先に、以前骨董市やらで話した学生を認め、彼は心中で舌打ちをした。だが、こうなることも予想はついていた。
「……学生さんよ、最近どうも色々嗅ぎ廻ってる奴が増えたと思ったら、あんたか。あまりこっちに首突っ込むんじゃ」
「──間さんと呼ばれることを否定はしないのですね、さんさん。」
 学生の言葉に老人は黙って肩を竦めた。慎一は自分の考えが正しかったことを確信した。『間良哉』と『さんさん』は同一人物であり、それに自分が気付いていることも、彼は既に予想済みだったのだろう。
 話があります。と言えば、老人は慎一を見ないまま横のビルとビルの隙間を指差した。人目の多い所が良かったが、仕方ないか。内心、少し怯えながら、大人しくそちらに移動する。人二人が、腕一本分ほどの隙間を開けて顔を突き合わせるほどの広さはある。不機嫌そうに地面の排水溝を見つめる老人の顔を見ながら、慎一は続けた。
「貴方は間さんだ。そして、蓮ちゃんと僕が知り合いだということも、貴方は解っている。そうじゃなければ貴方は僕にこう尋ねなければいけない。『その名前は誰から聞いたんだ』とね。」
「俺は普段から『間』は名乗ってんだが……お前さん、結構覚悟を決めて此処にやってきたようだね。」
 老人は青年の服の不自然な歪みに目をやった。おそらく雑誌か何かを仕込んでいる。危害を加えられる気があるということか。右の服のポケットが妙に垂れ下がっている。何か──護身用の道具でも入っているのだろう。銃が持てるような輩には見えない。せいぜい刃物、そんなところだろう。随分とまあ、古風というか、可愛らしい工夫だと、老人はせせら笑った。慎一は速くなる心臓の鼓動を抑えるように、拳を握り締める。
「その勇気というか妙な判断に免じて応えてやるよ。あの娘とあんたが知り合いだっていうのは──知っていた。もっと言うと、あんたの親父さんとお袋さんの店も知っているな。味噌汁がインスタントじゃないのが好感持てるな、うん。良い店だ。名前が確か……いろは食堂、かな?」
 嗤いながらそう言われ、青年はどきりとした。両親の事も知っている。何処まで知られていて、この人は何をしようとしているのだ。素性も知れぬ相手に、自分の情報が知られているという恐怖に、慎一は自分の口中が渇いていくのを感じた。
「……そう身構えんなって、何もしねえよ。」
 しかし、恐れを振り払い彼は尋ねる。
「三太郎さんというのは、貴方のことですね。」
 今度こそ、老人は舌打ちをした。同時に右手を伸ばし、杖を僅かに上に上げる。
「……おい、学生さんよ、さっきの言葉は取り消す。お前が余計な事をしなければ──俺は何もしねえよ。」
「それは──肯定と受け取りますよ。良かった。これが否定されたら僕は次にこう聞こうと思っていたんです。『貴方はあのノートを悪用する、蓮ちゃんのストーカーですか?』ってね。」
 老人は、毒気を抜かれたように瞬きをする。二人の間に沈黙が流れた。こいつは確信している。今更胡麻化すと後々、さらに探られても面倒だ。そう思い溜息をつく。
「……否定は出来ねえが、それを言うなら俺が付き纏ってんのはあれの親父だよ。」
 諦めたように、老人がそう言った。随分あっさりと白状してくれたな、と慎一は内心意外に思った。それを隠す気はないのか。
「貴方は、何をしようとしているのですか。蓮ちゃん達親子に。」
 身構える青年を相手に、面倒なことになった、老いるとついつい昔語りがしたくなるというのは本当らしい──そんなことを考えながら、老人は肩をすくめた。
「何もしねえよ、どうせ読んだんだろ。ノート本人に返したかっただけだ。だが直接も会いたくねえ。あんなノート不特定多数の人間に見られて困るのはあの娘さんだろ。変なやつも多いし。後は単純に俺が不愉快だ。小さい頃の美化された記憶ってやつを、彼奴からの視点ってやつを見せ付けられるとむずがゆくてな。」
 そのノートを一番始めに秋元良哉から渡されたのは、何も知らない只のアンティークショップの店員だった。骨董市の隣のスペースの店主にその店員が、世間話がてらノートの話を振り、その露天商の店主は丁度、『さんさん』『三太』と古くからある店の連中に呼ばれていた老人のことを思い出した。一度、どうしてそう呼ばれているのかを尋ねると、昔、大馬鹿三太郎ってわかるか?そっから渾名貰ったんだよ。と笑って言われた。彼の昔を知っているほとんどの人々は、もう上野には居ない。歳で露店を辞めたり、田舎に隠居したり、何なら生活保護受給者になったり、いつか忽然と消えてしまったり、風の噂で亡くなったと聞いたりだ。さんさんは自分の店にも偶に来る。今度来たときにでも渡してやろう。彼はそう思ってそのノートを預かって、中を読んだ。へえ。あの人なかなかやっぱり面白い人だったんだな。
 暫く──三週間ほど後に現れた老人に、小桜さんというのはさんさんのお知り合いですかと尋ねると、老人は目を細めて、誰から何を聞いたんですか。と静かな声で言った。ノートを手渡せば、彼は訝しげにそれを捲り、やがてじっと読み始めた。
 途中で、店主の存在を思い出したのか、老人はノートを閉じて、これ、買い取って良いですかと尋ねた。 最後まで読んであげてください、たぶん貴方宛ですよ。そう言って渡す。老人は、暫く躊躇うようにしていたが、感謝します。と掠れた声で言って、ノートを受け取り去っていった。
「まぁ、他人の印象は他人の印象ですから。それは良いとして──どうして、良哉おじさんに会おうとはなさらないんですか?」
 慎一の問に、老人はため息をついた。
「お前さんに答える義理は無い。」


 いつも通り、「さんさん」を見つけ、試しに『間さん』と声をかけてみた。案の定、彼は振り向いた。やっぱり、僕と蓮ちゃんが知り合いだったことも、彼は知っているのだろう。あえてなのか、そうじゃないのかはわからなかったが、兎に角自分が手記の『三太郎』であることは案外すんなり認めてくれた。僕に色々名乗って、仲間内でも三太郎の名を使い続けているなら寧ろ、蓮ちゃんに偽名を名乗った意味がわからない。
 何故、良哉おじさんの名前を使ったのか。そして、良哉おじさんに会おうとしないのか。
「なら僕は今考えている可能性のすべてを、蓮ちゃんと良哉さんに話そうと思います。間良哉さん。貴方は先程、普段から『はざま』は名乗っていると仰りましたね。」
 これから僕が、を言おうとしているのかを、面白そうに老人は待つ。意外と、暴かれるのを楽しみにしているのだろうか。それとも、暴かれても僕一人くらい消すことができるから構わないのか──。なんてのは、流石に無いと信じたい。綱渡りをしているような感覚に陥る。問を投げかけているのはこちらだけれども、この状況、試されているのもこちらだ。
「僕は昭和の──怪奇、探偵小説が好きなのですよ。『事実は小説より奇なり』とはよく言われますが、良哉おじさんの手記は、僕にはとても謎だらけだった。彼は多分、気になって考えようとして──色々怖くなって辞めたのでしょうね。何故貴方が会いにこないのか。無意識下では気が付いていて、貴方に言ってほしかったのかもしれませんね。」
 彼の表情は変わらない。ポーカーフェイス、というわけでもないが、面白がっているような表情は崩れないままだ。
「……蓮ちゃんのお祖父さんは、会田義弘さんと言うのです……間違っていたらすみません。そして、部外者が色々言うのもすみません。手記の梅里さんというのは、義弘さんの妹の蓮子さんか芸者さんやってたんですよね。小桜さんは、蓮子さんの子供なのではないですか。そして、貴方は梅里さん……蓮子さんに会いに行ったときに、それを知ったのではないですか。」
 何故だか、蓮ちゃんはピンと来なかったらしいが、僕は三太郎さんの様子が変だったという良哉おじさんの手記から、彼は小桜さんに関わるなんらかを知ってしまった、例えばそれは彼女を売り払った母親とその兄が、可愛がっていた弟分の血縁でもあったこととか。
 それを小桜さんに伝えはしなかったのだろう。おそらく。
「噂を聞いたことがあるのです。義弘さんは芸者を囲っていたとか、妾がいたらしいとか、それは、妹さんの面倒をみていた時の事ではないでしょうか。妹が奇形の子を身ごもったのを哀れに思って、売り払ったのではないですか。どうやら四国の方の産まれで、何やら憑きもの筋の家だったとも──昔の時代苦労したが、秋元弘三氏はそのような噂を気にせず、有能な彼を気に入り婿養子にしたと。あなたは、がりまがの話を僕にしましたよね。その時にも言っていたようにわかるでしょう、問題があるとされた家系の話──。」
「それでなんだい。」
 低い声が、老人の喉元から発せられる。否定も肯定もされず先を促され、躊躇いながらも続ける。合っているのかそうでないのかは、表情からはわからない。間さん、いや、三太郎さんと呼ぶべきなのか。彼は壁に寄り掛かり腕を組み僕の話を聞いている。しかし、この人、気怠げな顔も似合うな、なんて関係ない思考が浮かぶ。
「貴方が『間』を名乗るのは──会田興行の『あいだ』を冠している意味を込めて居るのではないですか。そしてその名を冠した興行社は、義弘さんと、何らかのかかわりがある。良哉さんに会わないのは何故ですか?どうして、貴方は蓮ちゃんに何も言わないのですか?」
 ぱち、と手を叩く音がした。ぱち、ぱち、ぱち。乾いた拍手が、ビルの隙間に響き渡る。話しながら、三太郎さんは身体を預けていた壁からゆっくりと離れた。
「学生さん、なかなかだね。及第点くらいはやれそうだ。だがまぁ──読み間違いもある。一番の過ちは──それをあいつらに伝えて何になるってことだよ。」
 急に首筋がひやりとした。老人の持っていた木製の杖が、僕の喉笛に突きつけられているのだと気が付き、身震いする。三太郎さんはこれまでにないほど強く、鋭い声で刺すように尋ねる。まさに、殺気と言うにふさわしい気配をまとわりつかせながら。
「一度しか聞かねえから、よく考えて答えろ──お前こそ何がしてえ。好奇心で首突っ込んできたなら、引っ掻き回すのは辞めてもらおうか。俺には時間がねぇんだよ」
 時間が無い?
 その言葉に引っかかりながら、灰色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。あの手記の中の「三太郎」を感じて身が震える。勿論僕も、軽い気持ちで此処に来たわけではない。好奇心も興味も強いが、今僕を動かしているのはもっと別の、何とも言えない違和感と、得体の知れなさだった。
「……貴方があの親子に危害を加える気が無いなら、僕はそれで良い。彼らが危ないことに巻き込まれるのは──僕の本意じゃない。」
 貴方が何者で、何をしようとしているのかわからないのが、一番怖い。蓮ちゃんに、何を思って近づいたのか。
「……へえ、惚れてんのかい。」
 揶揄うような色を少し混ぜた言葉に、思わず肩を竦める。惚れている訳でもない、と思う。親戚の従兄弟。風変わりな自分に色々聞いてくる、頼りにしてくれる少女──。
「……さぁ…顔馴染の女の子に危険があるかもしれないと思っているのに何もしないのは、男が廃るってもんじゃないですか?」
 三太郎さんは今度こそにやりと笑った。どうやら、この状況で響くと思って、選択した言葉は正解だったようだった。それから、喉元の杖はずらされ、僕の肩にぽんと置かれた。
「安心しな、危害を加える気はさらさらねえ。むしろ逆で、やらなくちゃならねえことがある。だから──俺のことも、小桜の事も──事が終わるまでは、黙っててくれねえか。」
「……わかりました。」
 黙っておく必要があるのだろうか。そうも思ったが、三太郎さんの真剣な様子は、僕を黙らせるのに十分だった。辺りに暫く沈黙が落ちる。老人は杖を下ろして大通りの人通りを見た。信頼していいのだろうか。何故、それを知られたくないのだろうか。そもそも、良哉おじさんは何も気づいていなかったのだろうか。蓮ちゃんも。何故三太郎さんはこんなに回りくどいことをして居るんだろうか。まだ僕は、何かを見落としている気がして釈然としなかった。更に疑問を投げかける。
「そういえば、さんさんの本当のお名前は何と言うのですか?」
 あの偽名は何なのだろう。
「……俺?会田三太郎だよ。偽名は『あいだ』の音から漢字充てて『はざま』。あのお嬢さんに近付く時は良哉を名乗ったが……。」
 そう言いながら、明らかに納得していなさそうな僕の顔を見て、老人は吹き出した。だっておかしいじゃないか、そう顔に出ていたのだろう。三太郎さんは片手をひらひらと振る。
「あのな、今と違って昔の戸籍はかなり良い加減だったんだ。孤児は適当に名字と見た目の年齢で届け出を出せる、そんな時代もあったんだよ。だから親が付けた名前は忘れた、そもそも──学生さんも、あの手記読んだなら判るだろ、母親が付けた──日本名じゃねえのはあるがよ。俺の名前は三太郎で良いんだ、彼奴がくれた。」
 まあ、その件に関しては納得した。忘れたと言いつつ、覚えているんじゃないですか、とは言わなかった。色々思うところや、聞かれたくない過去というのはあるのだろう。しかし、三太郎と言うのは明らかに適当な呼び名だが、小桜さんは何を思って名付けたのだろうか。
 それからいくつか、慈庵寺の話や、小桜さんとの出会いや、良哉おじさんの事を話してくれた。義理の伯父だが、僕は秋元親子をかなり好いていたので、彼の幼少期の話を聞くのは新鮮だった。「あいつは全くすぐちょこちょこついてきやがってよ、色々誤魔化すのに苦労したんだぜ、」なんて笑顔で語るその様子を見るに、本当に三太郎さんは、良哉おじさんのことを可愛がっていたのだろうと思った。ならば尚更、会えばいいのに。
 あともう一つ。納得できないことがある。彼と話していた、怪談の話だ。
「あの、ばけものというか、枯れた老人が花街に現れるのは、さんさんに何か関係がありますか?」
「……ああ、それは──そのうち片付くから、安心しな。」
 一瞬虚ろな目をしたあと、さんさんはにやりと笑う。そして、自分の持っていた杖を軽く、しかし大きく振った。杖が飛んだ。と思ったが、どうやら杖の部分は鞘になっているようで、中には白刃が煌めいていた。仕込み杖というものである。
 え、と小さな呟きが口から漏れた。何してんだ、この人。銃刀法違反だとか、今刃物を取り出す意味わからないとか、人に見られたらどうするんだとか色々なとりとめもない言葉が頭に浮かんだ。
「血筋、因果、場所、物……何処にでも憑く。だから、こうして、」
 そう呟きながら、間さんはまるで頭を掻くのと同じくらいの気軽さで、自らの腹に刃を突き立てた。
──骨の軋む鈍い音がする。
「出てくるんじゃねえぞって──殺さなきゃならねえんだ。」
 はははは。笑いながらぐちぐちと、刃物を動かしている。着物の布地に、黒い染みが広がっていく。目の前で起きている出来事が理解できず、僕は一歩下がった。何をしているんだ。この人。死ぬぞ。慌てて、刃物を抜こうと手を伸ばす。あれ。抜かないほうが出血はしないんだっけ。とにかく、救急車を、僕の頭は混乱してるようだ。
「まったく、どうしたいんだろうなあ。こいつら。」
 間さんはなんだか、別人のように見えた。狂気と絶望と、何かをないまぜにした瞳。やつれた頬。黒い影が。
「……さ、さんさん、」
 声をかけると、明るい声が返ってきた。目の前の光景に明らかに似つかわしくない、先ほどと同じような。
「ん?どうした?」
 それから、腹から刃を抜くと仕込み杖の血を拭い、鞘を元に戻す。黒い外套には染みがある。立ち尽くしている僕を見て、何固まってんだよ、学生さん。と、何事もなかったかのように歩き出した。
「さて、そろそろ時間も遅い、帰った方が良いだろ、な。」
 にやり、とした笑み。何処か恍惚としたような、ぼんやりとした表情。黒い胴体の染みが広がり続けている。貴方は、一体何をしようとしていて、何と戦っているんだ。何も言えずに、ただ頷いた。先ほどまでの行動は何だったのか。まさか、気が付いていないのか、それとも。もう既に狂っているのか。   
 失礼します、と呟き踵を返し走り出す。なんなんだ、あれ。あんな──。何事もなかったように。
 ──あれは、駄目だ。
 ──蓮ちゃんに、会わせてはいけない。
 辺りはもうすっかり暗くなっていて、妙に生暖かい風が吹いていた。僕は、どうしたら良いかわからずに、ただがむしゃらに走り続けた。
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