はざまの話

文字数 4,635文字

 慈庵寺に堀沼慎一がたどり着いたときには、もう日は暮れかけていた。門は開いている。中に入るが、人の気配は無い。誰かにじっと見られているような、ねっとりした感覚。湿っぽさと、土の香り。
「ご住職様はいらっしゃいますか」
 本堂の方に声をかける。答えはない。灯りはついていないようだ。不在だろうか、そう振り返ろうとした時、何か御用ですか、と後ろから確りとした声がした。驚いて肩が上がる。
「失礼、小用で墓の方へ、何か御用でしたか?」
 普段より高い心拍を刻む心臓を抑えながら、慎一は振り向く。真っ直ぐな眉、年齢の分からない、黒衣に袈裟を下げた坊主。
「……堀沼慎一と申します。秋元蓮の従妹で、三太郎さんにお世話になりました。」
 ほう、と住職は眉を上げた。
「教えてください。さんさんーー彼が教えてくれた『がりまが』の寺というのは、此処ですよね。いったい彼は、何者なんですか。」
 玄林は、僅かに笑った。若人の来客は歓迎せねば。そして、以前来た娘の話と繋げて考えれば、矢張り。どうやらあれは生きているらしい。
「どうぞ、中へ。」
 本堂に通され、座布団を進められる、有難く拝借し、慎一は話し始めた、『さんさん』と呼ばれる彼に、色々話を聞いたこと、秋元良哉の手記を読んだこと、三太郎の様子がおかしかったこと、秋元義弘の家の何かの埋まっていた場所が掘り返されたこと、其処にはおそらく、小桜さんが埋まっていたのではないかということ。
 玄林は、黙ってその話を聞いていた。そして、目を閉じ、開く。
「そして、貴方は私に何を聞きたいのですか。」
「――小屋が燃えた後、三太郎さんはここに来ましたか?」
 皺の刻まれた顔がじっと慎一の瞳を見る。勿論来ました。そしてあなたの考えていることの参考になれば、長いお話ですが、と前置きし、玄林は語りだす。きっと以前訪れた少女よりも、目の前の彼の方が、三太郎に届くかもしれないと考えて。

 ◇

……あれは、開口一番に『すまない』と、そう言いました。あの小屋が燃えた後、彼は方々駆けずり回り、最後に此処に来たのでしょうね。血液によって黒々と固まった服が見え、ついにこの青年は人を殺してしまったのかと、思いましたね。それがわかったかのように、彼は頭を垂れました。『最後に挨拶をしようと思った』と。
 何を言っているのだ。そう問いかけ、私はあいつの姿を見ました。黒々と固まる彼のシャツからは血が垂れていました。それはどうしたのだと問いかければ、彼は少し笑って、
──俺の血じゃないのもあるけど、何もないから、中身売ったんです。
 そう言いました。
 小屋が燃えたという話は聞いており、安否を案じておりましたがーーあの馬鹿は、小桜のために、内臓を売り払い、治療費等に宛てたと、そう言いました。ええ、私も、今の貴方と同じ顔をしました。そんな状態で動いて良いものかと、慌てて近付こうとする私に、そのまま話を聞いてくれと言い、そこにあります、初代の墓を指し示しながら、間蓮子を知っているかと、私に訪ねました。
 勿論知っていましたとも。新橋に居て、讃岐に帰り──新橋に戻り、気がふれた娘。今はもう一つしかない、はざまの分家の九代目の妹。小桜の母親です。三太郎は、知っていたのかと、呆然とした様子で呟きました。その後、教えてくれれば良かったのにと、吐き捨てるように呟き、私を睨みつけました。小桜の話でしょう。私は彼女との出会いを話しました。
 一度この寺で首を吊ろうとしたことがある女で、聞けば兄の子を宿してしまったと。……察しておりましたか。ええ。貴方は、がりまがの話もご存じですね。我らが間の、一族の話。
 嘆く女の顔はとても美しい、私が愛した姫の顔に似ていました、因果は本当に、遣る瀬ないものです。死ぬことはない、その子に罪はないのではないかとの私の説得に彼女は思い直しましたが……。今となってはそれが正しかったのか……。兄は満州の方へ行き、子供の事は知らないから、自分一人で隠れて育てると言い、暫く讃岐に居たようでしたが、金の工面に困り新橋に戻ったと、挨拶に来ました。その時に小さな娘を抱えて連れてきていたのです。因果の子ですと泣きながら。それが、小桜です。
……ある日蓮子さんは手紙を寄越してきました。娘が兄によって売られ、自分は閉じ込められたと。そして、その手紙が届いた数日後、蓮子の兄だという人が此処に来ました。

──妹は、虚言癖があるのです。お世話になりましたようで、お聞き苦しいお話もございましたでしょう。全て

。奇形の子は、彼女が乱暴を働くと行けないから、他所へ預けただけです。私は再び仕事へ帰らねばなりませんから、此処へはもう参れませんが、蓮子はかなり狂っていましたから……癲狂院に入るかもしれません。

 妹と同じように、顔立ちの整った男は、そう述べて頭を下げました。はい。外套を羽織り、洒落た背広に身を包み、菓子折りまで持ってきてくださいました。
 彼の名は、間義弘です。良哉さんの、お父様です。ええ。「はざま」と読むのですよ。「あいだ」ではなく。
……続けて、宜しいでしょうか。
 三太郎はそれを聴きながら、肩を震わせておりました。日が沈みかけ、あたりはもう暗かったのを覚えています。初めは泣いているのかと思いましたが、よく見ると彼は笑っていました。何が可笑しいのかと問う私に、彼は続けろと言いました。
 なんとなく、正体不明の嫌な予感がまとわりついてきました。戦後、外交関係の人のつてで、間義弘さんの事を知るものが居ないかを尋ねましたね。行方知れずで、満州で死んだのではないかという話でしたが。蓮子さんも、便りはあの一通以来来ることは無く、勿論寺を尋ねてくることも無かったので、小桜さんで、はざまの因果は終わりだと思っていたのです。彼女はおそらく、独り死ぬと、私は思っておりました。私は三太郎にも、そう言いました。
 あいつは静かに笑い出しました。やがてその笑いは、顔が俯くのと共に、嗚咽を交えるようになりました。あの子は、幼い頃はぎゃあぎゃあ泣く子だったのですが、面倒を見てくれていた女が死んだときから一切泣かなくなりましたね。だから私は驚いたのです。本当に。

 ──……彼奴が……適当な嘘も大概にしてくれや、一族郎党──気狂いに嘘つき人殺しで、御先祖様も大変だ。……本当に…上手くやりやがったなぁ、畜生

 喚き散らす三太郎の周りの林の影が、ゆらゆらと蠢き始めました。困惑する私を見て平静を取り戻したのか、はたまた傷が傷んだのか、彼は胸を押さえて座り込みました。日が落ちると、ここの奴等は…辺りの影が蠢き始めます。聞こえますかね、貴方には無理かな。はは、そう顔色を悪くされないでください、私が居りますし平気ですよ……。ねぇ、あんた誰かな。和尚様、俺はかえりたい。血の匂い、誰か殺めたのか、違うかな、お前さんのかい、それ。俺の、母上を知りませんか、愚かな者たちの囁きが満ちるのです。此処は。三太郎は煩い、と呟き耳を塞ぎました。何故、間の家と関係ないあいつにまで、がりまがの声が聞こえるのか。私は驚き、彼に近寄ろうと歩みを進めました。

──でもやっぱり、あんたの兄貴の声は聞こえない。何故かな。やっぱ子供の方じゃねえかな、産まれたかった、思い出して欲しかった……はは。それか…これは全部幻聴だ………五月蠅い、人でなしの一族ども、消えろ!

 がん、と三太郎は地面に拳を叩き付けました。さっと影が散った。何さあいつ。とひそひそとした声。構わず彷徨うもの。此処に集うのは皆──異界と現世の狭間に取り残された者たちなのです。貴方には──見えないでしょうが。
 影を纏い、軈て形を変え、人でないものに成り果てる──。はざまのお家に憑く、継ぐ、それ。三太郎に、お前も見えるのかと聞きました。何故だ、と。
──さあな。あいつの側に居すぎたかな。
 そんな事を言って笑いながら、彼は立ち上がりました。小桜の呪い、そうなのでしょうか。でも、小桜はそこまで、あいつを害する気はなかったと思うのです。……あれの体から、黒い枝のような影が伸びていました。ああ、貴方も見たんですか?自分を刺していた?そうですか………。よくある事でした。静かに、痛みを堪えると言うよりか、痛みを欲するかのように。私にはそんなあいつを見つめることしか出来ませんでした。
 興業社の山崎ユキが間義弘の情人だったこと。小桜に、源太が手を出し、それを黙って見ていた山崎ユキを刺し、源太の首を絞めたこと。気が付けば小屋が燃えており、小桜が柱の下敷きになり、その足を切り落として助けたこと。
 間義弘に遭い、小桜の事を話したが、そんな子供は知らないと言われた事。病院に、高額の医療費を吹っ掛けられ、臓器と血液を闇医者に金で売ったこと。金を持ち逃げしようとしたその医者を、殺すと思ったこと。気が付いたら札束と、何故か死なずに生きている自分と、骸になった医者がいたこと。それらを淡々と、三太郎は語りました。

──死に切れるわけ、ねえだろ。
見世物の荷物なんざ──誰も助けてくれねえよ。

 あいつは、困ったように笑ってそう言いました。私は、何も言ってやれず、出来たのはただ、名前を読んでやることだけでした。笑顔はやがて消え、彼はうつむいて、寒い。と一言溢しました。
 ようやっと、絞り出された泣き言は、そんな中途半端なものでした。どうすることも出来ない自分を歯痒く思いながら、もうすっかり冷え切ってしまった彼の肩に手を置きました。金くらい、工面してやれたのに。蓮子のことも少し色々話せていたら、話してくれていたら、この青年は愚かではないから──もっと冷静に判断しただろうに。
 泣きじゃくってくれて良かった。喚いてくれたら良かった。自らと同じ様に死に損なってしまったことを思い、本当にやるせなくなりました。呪ったか、呪われたか。そんなことはもうきっと重要ではないのです。全ては色々、手遅れでした。
 彼は一瞬両手をあげかけましたが、結局、私に縋り付いては来ませんでした。私の手を肩からそっと外し、静かに呟きながら彼は立ち上がりました。
──でも、何をしようと…小桜は生かす。
 彼は最後に、こう言いました。

──大悟は出来なさそうだが、覚悟は出来た。ごめんよ、生かしてくれたのに。不殺生不偸盗不妄語、全部守ってねえよ、酒は飲むし女は…邪婬戒は……俺はやってないが、親父でお釣りがくらぁ。はは。元気にやれよ。和尚。俺、全てが憎いよ、でも、何とかする。

 それ以来、あいつには会っていません。小桜さんの脚は、桜の下に埋めたというのは本当だと思います。偶に来ているような気配もありますが、私には彼等が生きているものなのか、死んでいるものなのかわからないのです。自分の生死ですら、私には曖昧なものですから。
 約束を破ったから、自分は和尚に遭う資格がない……あの馬鹿が言いそうな事です。
 そうですか。生きていらしたのですね、間義弘さんは。そしてーー三太郎と小桜が可愛がっていた男の子というのは、彼の息子さんなのですね。
 間の因果の積み重ねが、ここに来てどんと一所に集まり、泥中の蓮は、桜の大樹を産みました。欲しい物を吸い上げ、咲き誇る美しさ。花とは、恐ろしいものでございます。
 小桜への執着なのか、小桜からの執着なのか……慎一君、と言いましたね。この件は、おそらく、貴方にはどうすることもできませんよ。
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