『良哉』の手記 その六

文字数 10,756文字

 この ノートも終わりに近付いた。
さて、思い出してみた事、忘れたくないことをつらつら書き連ねてみたものの、肝心の所について、ついつい記すのを先延ばしにしていた。私と会田興行の皆様との別れは、いずれか訪れるものかもしれないとは思ってはいたのだが──それが、あんな形で唐突に終わってしまうものだとは、思いもしていなかった。
確か十一月の末だったが、前日はいつものように三太郎さんと小桜さんに別れを告げ家に着いた。確か、三太郎にいさんに浅草へ連れて行ってもらった帰りだったように思う。寄席に行って、食べ物を買ってもらって、青目の占い師に会ったのだった。その後彼に私の家のことを少し聞かれたのだった。祖父のこと。その日、帰り際に彼は何時もより沢山、私に土産をくれた。
次の日は生憎両親が家にずっと居るので、皆でご飯を食べに行こうということになっていた。その日満腹で布団に入った私は、夜分のサイレンの音に眠い目を擦った。興行街の方で火事だってさ、あそこは木造が多いからね。と母が興味なさそうに言い、父は六区か四区の向こうのさびれた方か、と電気スタンドの灯で照らされた小難しい本から目を離さずに答えた。思わず外へ飛び出してみれば、辺りには数人だが野次馬根性でサイレンの音に吸い寄せられ出てきた人々が見えた。向こうの通りの方で火事が出たってよ、と言う近所のざわめきに慌てて、便所に行くと言って、鍵をかけ、小窓から抜け出して飛び出して行った。
どのくらい走っただろうか。人混みを描き分けて私が見たのは、足から血を流して、布を縛っている小桜姉さんを負ぶって、燃える小屋の横に立つ三太郎兄さんの姿だった。警察やら消防やらが彼の周りに居る。何でもいいからこいつを助けてください、と怒鳴る声がした。私は彼等に駆け寄ろうとして、少し躊躇った。声を荒げる彼を──取り乱す彼を見たのは、あの日が最初で最後だった。
担架を持った男たちが走り去る。
人はまだわらわらと、燃え盛る小屋を眺めている。消防士が散水しているが、火の勢いはなかなか止まない。
三太郎さんは、それをじっと眺めていた。彼の口元が僅かに動いた。やがて彼は──呵々大笑とでも形容するにふさわしい笑い声をあげた。
消防士が、野次馬が──ぎょっとするように彼を見た。
「はははははは!」
気でも狂ったか、と近くの寝巻き姿のおじさんが呟いた。誰かが飛び出して三太郎さんの肩を掴んで揺すった。私はその人に見覚えがあった。確か矢田と名乗っていた、ストリップの受付の男だったと思う。しっかりしねえか、馬鹿!その叫びに、彼は嗤いながら応えた。
「──畜生、俺は正気だよ、放せ!」
ふざけやがって、因果も親も知るもんか──。そう叫ぶ彼を宥めるように、男が肩を抑えた。しばらくして、辺りの火は消し止められたようだった。見物人も興奮が冷めたのか、安全を確認したからか、随分とまばらになった。嫌な臭いがしていた。油や木や、恐らく死体の──燃えたにおい。警察や消防が、焼け落ちた小屋の中を何やら捜索している。三太郎さんは矢田さんと、もう一人──あれは山田さんだろうか、義足の男が近寄り、矢田さんと何か話している。   
その後、矢田さんが離れた。すまねえな、と聞こえた声は山田さんのものだった。ただ立ち尽くしている三太郎さんの隣に、山田さんが座った。私は、まばらになった見物人の陰に隠れて、それを見ていた。
「……久々に嗅ぐね、この香りは。」
山田さんが、お前も座れよ、と地面を叩いた。三太郎さんは何も答えず、崩れるように膝をついた。
「……三太郎、何があった?小桜は?ヤマさんは?」
彼の後姿は動かなかった。声も聞こえなかった。
「因果も親も知るもんか、か。どうした?」
山田さんが、彼の顔を自分の方に向けさせる。おい、しゃんとしねえか。そんな声が聞こえた。三太郎にいさんの横顔は真っ白で、目は曇り硝子のようだった。蝋人形のような彼に身震いして駆け寄ろうとした時、甲高く犬の吠え声がした。闇市壱号だ。
「……お前、無事だったか……良かったな。」
山田さんが安堵したように呟く。あちこち毛が縮れていたが、元気そうに三太郎さんに犬が駆け寄っていく。
「……来るんじゃねえよ……」
低く、掠れた声がして、私は思わず足を止めた。彼の周りの夜の闇が、一段と濃く見えた。犬が、ぴたりと止まり、尻尾を股の間に挟む。青年が、ゆっくりと立ち上がった。小桜さんの血だろうか。白いシャツは赤黒く染まっている。そのまま、彼は焼けた小屋の横を歩き出した。おい、と立ち上がろうとする山田さんの声も無視して。このまま、彼は何処かへ──闇に吞まれて消えてしまうような気がして、私は、今度こそ走り出した。
「……三太郎にいさん!」
走り寄り、彼の腕を掴む。歩みが止まった。ぼんやりと、彼の瞳が此方を向く。
「どこ行くの、どうしたの、ねえ、」
闇市壱号も、一緒に三太郎さんの足にじゃれついてきた。三太郎さんはじっと私たちを見て──目をきつく閉じた後、膝をついて、私を右手で、犬を左手で抱きしめた。
「……ごめんな。どこにも行かねえよ。」
震える声で、にいさんはそう囁いた。それから手を離すと、立ち上がり、山田さんの方へ歩いていく。私と一匹はその背を、大人しくちょこちょこと追いかけた。山田さんは、少しすねたような目で、じっと三太郎さんをにらみ上げた。
「おっさんより、犬と子供の方がいいか。大衆向けの映画じゃあるまいし。」
「……違うんです、すいません。小桜は、多分無事です。北山病院運ばれました。柱が落ちてきたから、運び出せなくて──脚、ぶった切るしかなかった。後は、知りません」
「お前はやましい事があるときに短い文章を羅列する癖があるんだぞ、三太郎。本音はだらだら言い訳がましく嘘くさく引き伸ばす癖に。詐欺やろうってんじゃないんだ。話せよ。」
苦虫を嚙み潰したような顔で、三太郎さんは呻いた。山田さんはあたりを見た。
「まぁ、ちょっとここじゃあな……」
山田さんが立ち上がりかけた時に、大声が響いた。
「──良哉!」
母と、父の声だった。三太郎さんの肩がぴくりと動く。私はそちらに振り返る。こんなに遅くまで──と母の声と、何をしていたんだ、との父の声が重なった。私は慌てて──言い訳を考えようとした。しかし、その前に、三太郎さんが動いた。
「すみません、旦那様、奥様。」
三太郎さんが、深々と頭を下げた。そのまま、彼は話し続ける。
「手前は会田興行、三太郎と申します──少々ここらでボヤ騒ぎがあり、お子様御一人では危ないかと思い、お話をしておりました。しばらくご両親が見えなければ、警察の方にと、思っておりましたが──」
「黙れ、ならず者が。子供を誑かしてどうする気だ。」
父が、ぴしゃりと言い放った。私は、その怒気に怯んだ。三太郎さんが更に頭を下げた。
「……大切なお子様を、申し訳ございません。」
母が私を抱きしめる。なんでこんなところに来たの、まさか良く遊びに行っていたじゃないでしょうね。そう叫ばれ、唇を噛む。あんたらは何者だ、この子に何をした、母がそう、二人を怒鳴りつける。三太郎さんは、頑なに頭を下げたまま、その怒鳴り声を聞いていた。
「……良哉、お前は──歓楽街には行くなと言っただろう。危ないことも多い、まして──見世物小屋なんて」
三太郎さんが息を吞んだ。私も父を見た。知っていたのか。父の事だからうすうす検討をつけていて、証拠をつかんでやろうとでも思っていたのかもしれない。
「……ごめんなさい、心配かけて、でも、僕別に、悪いことされてない──」
「金輪際息子に近づくな。良いか。」
三太郎にいさんと、山田さんの間に、札束が投げられた。口止め料だということだろうか。にいさんの拳が一瞬強く握られ、顔を上げるが否や──彼はその札束をひっつかみ、真っ直ぐに突き返した。
「要りません。俺らは物乞いでも、乞食でも、誘拐犯でもない。」
父は、青年の瞳に面食らったように身じろぎをした。母が灰色の瞳に眉を寄せる。三太郎さんは怒りを込めた目で──父を睨んでいた。母が、あなた、帰りましょう。そう囁き手を引く。混血児に傷痍軍人、かわいそうに。そうも、言った。
違うよ、母さん。そう言いたかったが、声が出なかった。私は母に抱えられて、涙目でにいさんを見ていた。母が立ち上がり、無理矢理私の手を引くのに連れられて、帰るしかなかった。
「三太郎にいさん、どこにも行かないって、言ったよね!僕、また会いに行くから──」
母が、良哉!と私の手を引いた。
「──────。」
何かを、三太郎さんは言った。
でも、私にそれは聞こえなかった。聞こえなかったのか、思い出せなかったのか。酷く傷ついたような、怒っているような彼の目は、やがて伏せられ、背けられた。山田さんは、寂しそうな笑いを浮かべ、さよなら。と、口を動かした。
(以下、ぐるぐるとした殴り書きのようなものが少し。しばらくして、ごめんなさい。と欄外に書かれている。)

ねえ、三太郎にいさん。
貴方は僕に、何を言ったんだい。僕は色々、気が付いたことがあるんだ。
話したいよ。

三太郎さんが言っていた北山病院に学校帰り、小桜姉さんの見舞いに行った。彼女の譫言の様な一人語りを、あの日何があったかを整理する意味もあって此処に記す。特に小桜さんの最後の会話は、私はそのまま書いていたから──三太郎さんに伝えようと思ったからだった。私の、何があったの、との問い掛けに姉さんはかさついた唇を開いた。白い救急病棟。


一日目 
蛇だったわ。それは何となく覚えているの。
蛇が檻の中に動いているのが見えた。……ええ、物置小屋に行ったときに、源太に襲われたの。口を塞がれ腕を捕まれ、両の手首を右手で纏められて、女の身体というものはこんなにも非力なのだって嘆いたわ。ましてや自分の様な出来損ないでは。ただぼんやりとあたしに覆いかぶさっている源太を見たの。別に良い。勝手にしなさい、そう思ったわ。私はずっとそうだった。好奇の目線を向けられようが、ばけものと誹りを受けようが、自らがその体で生を受けてしまったと言うことを、ただそのままそれとして受け入れたの。なんて言っているけど、結局、生きてくにはそれしかないのよ。
ふと母様のことが浮かんだわ。狭い部屋にいた。5畳くらいの小部屋。あたしは母様の部屋から出なかった。母様が出さなかった。鏡向いて紅を引いて、三味線傍らに私にお手玉投げてくれた。多分、記憶の中のお姫様のような人。あれ、母様なのだと思うわ。時々母の兄だと言う人が来て、あたしにお菓子くれたりしたわ。母様はいつも悲しそうにしていた。私のことは愛していると言ってくれていたの。あたしにそう言ってくれたのは──母様と三太郎だけなのよ。
──こんぴらふねふね……ふふ。何て顔してるのよ、あなた。
生暖かな気持ち悪い湿度が、あたしの四肢をはいずりまわっていたわ。あたし満足に動けないから、こんな足でもいろいろ言い寄って来る人もいたの。けれど、三太郎が来てからはあの子が追い払うことしてくれていたから、そういうの余りなかったんだけど。弱いのは、嫌ね。違うわ、ヤマさんは良い人だったから、知らなかったのよ、多分。あの人は何だかんだ、あたしたちに優しかったから。逃げられたかしら、火事。分かる?わからないわよね。……同情してくれるの?良ちゃんありがとう、でもそれはもう要らないわ。あたしかわいそうって言われるのに飽き飽きしているの。かわいいでしょ、あたし。もううんざり。
──尋ねる母様、お梅の…
──いいかい、小桜。
──このお唄は忘れてはいけないよ
──そうしたら、いつか迎えに来るからね…
見世物の身体をまさぐって何が楽しいのだろうって思うの。子供にする話じゃないかしら。ふふふ、御免なさい良ちゃん。あたし褪めた瞳でぼうっと天井を見つめていたわ。隅に蜘蛛の巣がやたらとあったの。よく見れば右上だけ他と比べて綺麗だった。多分あそこのとこから天井裏へ梯子をかけて行けるようになっていたのね。ぱん、と音がして頬が熱くなったわ。
「お前もあの女と一緒か!お前の母も、一度も此方を見なかった、そのくせあんな、あんな男と──だからお前の様な奇形が生まれたんだ、糞、あばずれ、」
此方を見ろ、俺を見ろ、今俺が、この俺がお前に手を出しているんだ。源太は喚きながら何度も私のことを殴りつけた。
ああ。なんだかわかってしまったのよ。檻の片隅で鼠が何匹か動いていたの、気持ち悪かった。古い建物だからぎいぎい音がするの。なんだかみんなかわいそうに思ったわ。あの男も、ヤマさんも、母様も、三太郎も、小屋の皆も私も可哀想。かわいそうなはこのこでござい。親の因果が子に報い。でもその親も、誰かの子。きっと、誰も悪くない。
「……梅里、」
悪いことをしたと判っていて、泣き出す寸前の様な顔であの男は一つの名前を呼んだわ。
それであたし、母様の名前を思い出したの。あの男、あたしの母様が好きだったからあたしにちょっかい出してきたのね。
──お前が母様のことを忘れても、あの歌を忘れなければ、いつか迎えに来られるからね。
母の言った一言。いつか、いつか母様が迎えに来てくれる。絶対に来てくれると。でも多分、もう迎えに来れやしないと思う。死んじゃったんじゃないかしら。あたしに来るお迎えはきっとあの世のお迎えなんだわ。そんな顔しないで頂戴な、良ちゃん。
なんだか足が無いと私、普通に、足が無くなってしまった人みたいじゃない?「普通の足が無い人」って言い方も変にきこえるけど。普通じゃなくなったのに普通みたい。どこまでいったかしら……ああそう、あたし思い出したの。見世物に来ていて馴染みになった行商人の言っていた言葉。
──お前さんの歌っていたあの民謡、こんぴらさんね、なんか巡礼お鶴のくだりの歌詞が違うのには訳があるのかい。
母の名前は梅里で…嗚呼それは芸名で、本当は違うのだっけ、三太郎が言っていたわ。そしてあの源太は母様が好きだったのね。母様の周りに男の影は無かったわ。いえ、殿方はいっぱいいたのだけれど……。
では私の父は誰だったのでしょう。危うく源太の可能背もあったと考えたら恐ろしいわ。ふふ。ねえ、良ちゃんはご存知?かわいそうなはこの子でござい。親の因果が子に報い生まれ出でたるこの姿!ふふ、因果応報地獄に落ちろ。ねえ、そんな顔をしないで頂戴な。なんだか全部疲れてしまってね、私。あたしの最後はあいつが良かったんだけどな、あの人の首を絞めるの良かったわ、ふふ。
もう全部しょうがないと思ったの。今も思っているわ。生暖かくて不快だった温度は、ただの縋り付く大人の醜い毛むくじゃらの手に変わったわ。嗚咽の様な息をしながら、胸元に取りすがる源太を見て、赤子の様だと他人事みたいに……ねえ、あたしお客を見ていてもいつも思うの。きっとみんなどこか寂しくて、それでいてうまくいきっこないのにうまくいくことを夢見ているのね。赤ん坊の時は産まれてきて泣いて、女になってもせいぜい可愛く鳴いて……うまくいっているはずなのに、どうしても不安の種は尽きないのよね。そしてそれを紛らわすために、あたしみたいなのは理由がつけられるから簡単なのよ、何も問題ないように見える人が一番かわいそうなのかもしれないわ。何かのせいにできないのだから。
蛇がゆるりと動いたの。鼠を喰おうと思ったのかしら。がたりと何かが落ちるような音がして、蛇の檻か壁かに何かがぶつかった。蛇の緑ががった黒い鱗の中から赤い口内が見えたと思った時には、もう鼠は食べられていたわ、いつもは──蛇は人に食べられているのに。こんなこと言うのは見世物小屋の人間だけね、ふふふ。
鼠の尻尾が、それ自体が生物みたいにうねうねしてね、以前ものたうち回る生き物を見たことがあるわ。見世物小屋に行く前に。何だったかしらと思って、そしたらそれを思い出す前にね、鼠の尻尾がすべて飲み込まれてしまったわ。今──なんだか思い出したのだけれど、子供に言うことでもないわね。源太が無理にしようとするから痛かったわ。でも全部終わる前に──これも子供にする話じゃないかしら、何のことか判らない?可愛いのね、良ちゃんは。知らなくていいことよ。
蝋燭の炎が揺れてそのすぐ後に、自分の上にあった汗にまみれた身体が後ろにギャって悲鳴を上げていなくなったの。焦げたような匂いがしたの。鉄の匂いもした。痛みと暗さと不安で辺りを見渡したら急に光がともった。ランプの灯だったわ。何してる、ってそう低い怖い声がしたわ。ぎりぎりと音がするほど、麻縄で源太の首を縛りながら、三太郎が立っていた。狼みたいな目。埃に塗れ、髪が頬や額に張り付いていて、なんだか鬼気迫る感じだった。腕にはいくつかの切り傷のような傷が出来ていて、そこらに赤黒い血が纏わりついていたわ。わたし三太郎の名前を恐る恐る呼んだの。そしたら笑ってこっちを見たの。怪我しているの?何があったの、そう聞いても黙って私の身体を見ていたの。あの子はいつもさみしそうな目をしていたけれど、その時は瞳の中には怒りしか無かったわ。
──小桜、お前の母さんは梅里と言う名で、四国から新橋にわたって芸者をしていたそうだ。お前の事は、無理矢理売りに出されてしまったそうだよ。梅里さんの太客が、奇形の子を疎んでね。亡くなった。形見に鏡と、これをやる。
──なんでそれを知っているの?
──手紙を見つけた。ヤマさんや源太が持ってた。おそらくお前を無理やりここに連れてきて、言うこと聞かないと娘がどうなっても知らないぞとでも脅したんだろう。
──その人には、少し覚えがあったの。よしひろおじさん、そうだったわ、あの人があたしを──いいとこに連れてってあげる、お前が我慢すれば、お前の母様は幸せなんだよ──お前は間違って生まれてしまったんだから。そう、そう言った。あの人。母様がどうしていつも私を見て苦しそうな優しいお顔をしていたのか。あの男の人は、どうして私に菓子をくれたのか。
三太郎は、蒼白になった私を見て、一瞬大きく顔を歪ませていたわ。あの子も思い至ったのかしらね。それから、そっと私の額に接吻した。あたしに鏡とお金とこの根付くれた……母様のなんですって。でも要らないわ。あなたにあげる。
要らないのかって?あたしは命を貰った、それだけでいいわ。三太郎がくれたのがあるし。別にもう、いいのよ。母様は。三太郎は優しかったわ。恐る恐る抱きしめてくれちゃって……どこに行ってしまったのかしら。あたし以外に殺されたら承知しない…ええと嫌いなわけじゃないのよ、好きだから言ってるの、わからない?……貴方も知らないのよね。何しているのかしら。三太郎はあたしに聞いたの。
──お前、外に出たいか。って。
物置小屋の扉を三太郎が大きく開いた……なぜだか外は真昼のように明るくて、三太郎の顔はよく見えなかった。ぐらぐらしていてあんまり覚えていない…なんでこうなっているのかしら、私。火事だったのね。
ねえ、あの人何処に行ったのかしら。なんとなく、そんなはずはないと思いながらも私達は一緒に居られると思っていたの。私はここでしか生きられやしないのに。母様も、ヤマさんも、お客さんもみんなそう言うわ。でもあの人は外でも生きられたのよね、多分。行かしてやれなかったけど。一度変なおせっかいの女の人が、ジンケンホゴだのなんだの言ってきたからあたし言ってやったの、貴方がそう言うなら、可愛そうな子に成りましょう。ええ。でもあたしはあたしのこと本当は可哀想だなんて思ってないのよ。って。それ嫌いよ。お客様には好奇心で観てもらって、ああ、俺はああ産まれなくって善かったって胸を撫で下ろして、もとのお仕事を繰り返す日常に戻って戴きましょう。奇形、フリークス、化物、障害者、身体異常者、配慮の必要な──どう言ってくれたってかまわないわ。全滅を玉砕って言ったり、退却を転進って言ったり、戦艦を護衛艦って言ったり、アコーディオンの山田さんも言っていたけど、ほんとそういうところ。
あたしを呼ぶのに相応しいのは「小桜大夫」それでいいの。それだけ。あたしはそうなるしかなかった。そしてそれに対して私は私のことを、かわいそうだなんて思ってないわ。これはちょっと強がりに映るのかもしれないけれど、でもほんとうよ。私は私に満足している。あんたも、あんたにしかなれないよ。
まっとうに外れられない人は駄目よ。見世物になれるだけの気概が無くちゃあ、外れ者になっちゃあ生きてけないのよ。覚悟がなくちゃ、あたしみたいなのでも、めくらでも、つんぼでも、異人の子でも、貧乏でも、親がなくとも、親が駄目でも、頭が駄目でも──誰だって、覚悟がなきゃ生きていきゃしないのよ。痛みに耐えて、眩しさに怯えて、理不尽を呪いながら──それでも、何かし続けなくちゃいけないのよ。ぼうっと生きていておまんま食うだけならそこらの家畜と変わりはしないわ。幸せって、ずっとずっと遠くて尊いものよ。でもこれも覚えておいて、みんなどこかで誰かの見世物なの。みんな、ほんとはまっとうなんだから。そして、当たり前があることはとても幸せなのよ。小さな灯火があったことを覚えていたら、暗闇も少しだけ怖くない。
だからあたしは──いなくなることでしか、いたことを覚えてもらえない旅のつばくろ。それでいいのよ。過去も未来も無く、今ここにいる。生きている。それだけ。
私を担いだの三太郎でしょう、会ったのね、三太郎になんて言われたの?
……そう、ご両親にばれちゃったのね。ごめんね、もう来なくていいわよ、あたしのところ。

次の日、母に正直に頼み込んで、また小桜さんのところに行った。父の機嫌はすこぶる悪く、何かを恐れているように見えるほどだった。しかし、どうせ生きては居られない可哀想な娘だから、最後に話くらい聞いてやるのも悪くないのではないか、そうすれば良哉も納得するかもしれないとの母の言に、しぶしぶ頷いた。
あの人は強かった。そう思う。あの人だけじゃない。

二日目
良ちゃん……ちゃんと寝たのかって?私、ひどい顔をしているかしら、そうねえ。三太郎に会ったわ。昨夜。……ええ、とりあえず生きていたのね、良かったわ。何処に行ったかはまた知らないわ。あの弱虫。何にもなってくれやしなかったわ。あたしを幽霊にするだけしといて、成仏すら──させてくれなかった。最後の一押しが出来やしない、弱くて、優しい、ばかな人。ねえ。そういえばね、あの子のロシアのお母さまがつけてくれた名前はヨシュアと言うのですって。少しお話を聞いたの。ふふ、ただ一人の神様を信じられるなんて向こうの人はすごいのね。見世物では神様も仏さまもあれもこれも好きなように言ってお客を集めるのだから罰当たりなものね。けどまあ信じてないわけじゃないのよ、すがるときすがって、誓いを立てて、気紛れに聞いてくださるのが神様仏様、あたしはそう思うのよ。あたしは誰にも、何にも、あたしのものは悩みですらあげたくないけどね。
……良ちゃん、今まで有難う。もう見世物は御仕舞いよ。もし──何かが違っていたら、あたしたちはずっと遊べたかもしれないわね。小屋はもうない。会田興行だけじゃない。わかるの、まっとうな顔して綺麗好きのお人が、曖昧なものを消していくのよ。お化けも妖怪も見世物小屋も叩き売り大道芸も傷痍軍人も絵描きも乞食も猫の死体も道端の吐き跡も何もかも許されなくなっていくのだわ。件は予言したら死んじゃうの。短命な生き物なのよ。人間様がそんなにきれいなものですか。そうやって、自分で自分に消毒液をかけてそれで溺れ死んでしまうがいいわ。
だけど、貴方はもう此処にいちゃ駄目よ。きっちりお父様とお母様とお話しなさい。お勉強をきちんとして──机の上で教科書読むだけじゃなくて、いろんなものを見て、自分の頭で考えなさい。そうじゃなきゃ駄目。大丈夫、泣きべそかかない、泣くような事じゃないわ。貴方とあたしいつかまた繋がるわ。三太郎の馬鹿も。繋げて見せる。きっと。あたし虫けらにでも犬畜生にでも生まれ変わってでも会いに行くわ。あたしたち会えたのは奇跡だったわね。幸せにね。どうしてこんなことを急に言うのか?判らないわ。でもわかってしまったの。良ちゃん、私貴方の事大好きよ。忘れた頃に思い出してね。……ありがとう。ふふ……あたしやっぱり、化け物だ
から、生まれ変われやしないのだけど。


 小桜さんは、それっきり、薬が効いて眠ってしまった。私は、三太郎にいさんが会いに来てくれるものだと思っていたが、彼は一度も私の前に姿を現さなかった。
次に病院に行った時には、彼女の意識はもう混濁していて、途切れ途切れの歌を歌っていた。両足の傷口から菌が入ったのだとかなんとか、看護婦が説明する言葉を、私は泣きじゃくり、聞かなかった。
母が私を病室から連れ出し、人の命の儚さと大切さ、そしてだからこそ、心配をかけてはいけないというような事を滔々と語った。泣きつかれて何もやる気をなくして寝込んだ数日後、病室は空になっていた。彼女がどうなったのかを聞いても、父母は答えてくれなかった。
小屋のあった場所に足を向けたが、すっかり空き地になっていた。
(今では地下のある空きビルだ。)まるで、元から何もなかったかのように。空き地の周りも随分静かだった。後から知ったが、あの小屋のボヤ騒ぎを切欠として、警察の一斉捜索があったらしい。前科持ちや詐欺師、売春婦、スリにかっぱらい、そう言った者たちの厄介払いをするのに丁度良かったのだろう。山田さんも、三太郎さんも、もちろん小桜さんも、闇市壱号も──誰も、そこには現れなかった。どうして。

このノートを、出会った方々に渡したい。
会田興行の三太郎さんという青年か、小桜大夫、針金男、山崎ユキさん、アコーディオン引きの山田さん、それらを知っている人は、もうどんどん死んでいるだろう。塀の中ということもあり得る。
これはまだ私が幼いころの話で、古い記憶で怪しいところもあるが覚えている限りを書いた。自分のことを覚えていてほしいと告げたあの人たちが、どうであったかを、自分の記憶を留めるためにも書いた。
戦後の復興と、占領政策の後の伝統文化の継承、存続が問われ、統制のかかった自由や、経済発展の裏に影があり、復興を遂げるなかに闇はさらに深くなり、人間が生きるため生きていた、清濁、自由、規制、混乱、秩序を併せ持ち、やがて現代へと収縮してゆく時間の中で、この私、秋元良哉は確かに彼等を見た。

   ◇
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